GOKUSEN



Bitter And Sweet Chocolate


朝。
沢田慎は教室の一番後ろの自席に腰を降ろすといつもそうするように使い古した薄い鞄を無造作に机の中に突っ込んだ。途端、手に伝わる妙な違和感。こつん、と机の奥で軽い音がした。
黒い鞄はその中に納まることをまるで拒むかのように身体を僅かに覗かせたままで、無理に押し込もうとしても入らない。中に先客がいるのだと知らせている。
「・・・」
慎は表情だけは崩さないで鞄を取り出し、机の中に手を差し込んだ。指先に触れる薄い紙の感触。掌で握るとそれは直ぐに小さな箱だとわかった。
赤い包装紙にくるまった箱に金色のリボン。そして可愛らしい小さな文字。
少しだけ慎の目が見開かれる。
『バレンタインおめでとう』。ハートマーク。そして『やんくみ』。
 ───バレンタインおめでとう?
意味不明だ。
慎はその箱から顔を上げると後ろの席からクラスメイトの背中を見渡した。
ああ、なんだ。原因はこれだったのか。
納得した途端苦い笑いが込み上げて、ふっと唇を緩めた。


教室の扉を開けた時から中の空気がいつもと違っていた。
どう例えればぴたりとこの雰囲気に当てはまるのか。
上手く言い表せないが、とにかくぴんと張り詰めていた。
2月半ば。
大学入試もこれからが山場だ。けれどこのクラスの連中がそんなものに影響される筈もない。
そう。彼らの抱える問題は受験よりも別のところにあった。
2月14日。
この聖なる日にいくつのチョコレートがもらえるのか。昨日までの彼らの関心はそこにだけ置かれていたのだ。
そして登校してきた自分の机の中にひっそりと忍んだチョコレートの赤い包み。
そりゃあ、誤解もするよな。
慎は思った。
自分でさえほんの一瞬期待してしまったのだから。
罪作りな女だ。
こんな義理チョコなんか、HRの時間に配るなり、机の上に誰にでもわかるように置くなりすればいいのに。思わせ振りなことしやがって。
それにしても。
慎は目の前に立ち並ぶ黒い学ランに包まれた背中を見回す。その後ろ姿からは熱気すら感じられた。何だかんだと言いながら、こいつらもずっと自分達の担任に対して淡い恋心を胸の内に秘めていたのだと悟る。
就職試験が始まって、トレードマークの金色の髪を真っ黒に染め直したあいつも、3Cの担任藤山に一時本気で惚れていたあいつも、そして肩まで伸びた茶色の髪に手を当てて考え込んでいる風にしている女好きを自称するあいつも。
どうやら自分のライバルはあの3人だけではなかったらしい。
慎は溜息を落としながら小さな箱を鞄に入れる。鞄の中には薄い正方形の箱とハート型の包みがひとつずつ。学校に来る途中に見知らぬ女のコから手渡された。おそらくは義理ではないだろうチョコレート。
世の中そうそう自分の思い通りには行かないものだ。
そんなことを考えていると、珍しく慎よりも遅れて教室に入って来たクマが
「おっはよース」
明るく言いながら慎の斜め前の席にその巨体を埋めた。
慎は頬杖を突いてじっと成り行きを見守る。
クマも先程の慎と同じく納まりきらない鞄に戸惑っていた。
「あれ?」
首を傾げ、窮屈そうに身体を折り曲げると机の中を覗き込んだ。「あ」
クマは取り出した赤い包みを見ると歓喜の声を上げた。
「やった。チョコレートっ」
はっと振り返るクラスメイトたち。慎でさえも怯む程、向けられた瞳は真剣だった。
「バレンタイン・・・おめでとう?」
朗読するクマに凍りつくクラスメイト。皆それぞれに自分の机の中に隠し持っていた小さな包みを取り出すと、互いの顔を見合わせていた。
「いっやあ、やんくみ、気が利くねえ」
クマは清々しいことこの上ない笑顔を浮かべている。
たかが義理チョコでこんな嬉しそうな顔をする男も珍しいのではなかろうか。ただ単純に食べ物が与えられたことを喜んでいるだけなのかもしれないが。
茫然と自分を見詰めるクラス中の視線には、クマは全く気が付いていない。いつも通りの飄々とした態でばりばりと包みを開けると中の茶色い小さなそれをひと粒取り出し、ぱくりと口に放り込んだ。
 ───あーあ・・。
呆気にとられて見詰める慎と3Dの生徒達。
クマはふた粒目のチョコレートを口に入れようとしたところで注目する皆に違和感を覚えたのか
「何?食わねえの?うまいよ、これ」
首を傾げながら問いかけてきた。
クマでさえ気が付いたのに。このチョコレートが義理だということがどうして自分達には直ぐにわからなかったのだろうか。情けない。
今現在のクラスメイトの考えていることを要訳すればそんなところだろうか。
答えは至極簡単なことだ。
クマには秘めたる思いが全く無い。だから、もしやなんて思いもしない。微塵も。
慎はやはり苦笑してしまうしかなかった。
「うっめえー」
教室に響き渡るクマの満悦の声。
刹那、慎以外の3Dの生徒全員ががっくりと頭を垂れた。


 ───そろそろ動き出してもいい頃かもしれねえな・・。
卒業式まで後半月とちょっとだ。担任への思いを内に隠したまま卒業する気など慎にはさらさらなかった。
真冬だというのに寒冷前線はどこへその姿を隠しているのだろうか。暖かい昼下がりだった。
慎は屋上のベンチに仰向けに寝転がりぽかぽかと包囲する温もりに身を任せてまどろんでいた。明日は自分の志望する大学の受験日だが今更ジタバタしたところで仕方が無い。取り敢えず今欲しいのは休息だと重い瞼が訴える。
そんな安らぎの時間を壊す、唐突に開く扉の音と大きなハリのある声。
「おー。沢田。いたいた」
担任教師山口久美子の嬉しそうな声色が近寄ってくる。「こんなとこにいたのか。探してたんだぞ」
「うるせえよ・・」
「まあ、そう言うなって」
「・・・何?」
慎はうるさそうに細く目を開けるとゆっくりと起き上がった。視界に映るのは薄いピンク色のジャージ。その久美子の右手には、慎たちがもらったそれよりもふた周りくらい大きな水色の包みが握られていた。青い光沢のあるリボンが眩しい。誰にあげるかなんて訊くまでもない。
左手には透明なビニール袋。中に入っているのは何だろう。まあるい、不恰好な、茶色い物体。
 ───泥団子?
まさかな。
だが嫌な予感。
「へへ。これさ、篠原さんにあげようと思って作ったんだけどさ」
「・・・」
「ちょっと、沢田、味見してくれないか?」
味見?
「何?それ・・・」
慎がポケットに両手をつ込んだまま恐る恐る透明なビニール袋を顎で差し示すと久美子はそんなこともわからないのかという顔をした。
「トリュフだよ。トリュフ。手作りチョコレートだ」
「手作り・・・」
慎は呟くと、「お前な」
俯いて大袈裟に溜息を落としてみせた。
「何だよ」
これから慎の口から出てくる言葉を予期したように唇を尖らせる久美子。慎は頭を上げる。
「買えよ。作るな。身の程を知れ」
「な・・・」
「そのほうがあの刑事だって絶対喜ぶ」
真っ赤になって膨れっ面を向けてくる担任教師は尖らせたままの唇で抗議してくる。
「だって、篠原さん、甘いチョコレート好きじゃないっていうからさ」
「あ?」
「だから、甘味の少ないチョコレート、作ってあげようと思ったんだよ」
「あ、そ・・」
くそ面白くない話だ。
けれどそこは惚れた弱み。わざわざ自分を探してきたという辺りでもう協力してやってもいいかなと心は傾いていた。
慎は顎でもう一度得体の知れない物体を差し示す。意を察した久美子はにへら、と笑ってビニール袋の口を広げて慎に差し出した。
まあ、どんなに不恰好だって、味がよければ問題はない。
それにしてももう少し何とかならないものだろうか。粒の大きさも不揃いだし、どれもこれも形が随分といびつではないか。コドモの工作じゃないんだから。
ポケットから出した二本の指で、チョコレートらしきものを摘み取る。軽く押しただけでぐにゃりと潰れそうな柔らかな球体を思い切って口に入れてみた。
「どうだ?」
覗き込んでくる顔は狂おしいまでに可愛いのだが。
「う・・・」
慎は口いっぱいに広がる苦味に目を見開き言葉を失った。込み上げてくる嘔吐感に顔面蒼白になり口許を掌で押さえる。腰を曲げると久美子がさらに顔を近づけて問いかけてきた。
「え?だめ?おいしくない?」
だめ?だめかだと?おいしくないかだと?そんなレベルか、この味がっ。
呑み込むことは勿論、こんな所では吐き出すこともできない。慎は涙目で久美子を睨みつけた。
「さ、さ・・わだ?」
「てっめえ・・」
もごもごと訴える。「俺、明日試験なんだぞ。腹壊したらどうしてくれんだっ、この、ばかっ」
久美子は今にも泣き出しそうな顔で
「す、すまない・・・」
殊勝に頭を下げる。
「・・・たく」
味見くらいてめえでしろよ、と文句を言おうとした慎の瞳に、どきりと胸を打つほど間近に迫る久美子の真剣な表情。久美子は心底心配そうに慎の顔色を窺っている。
 ───そろそろ動き出してもいい頃かもしれない。
再びそんな思いが脳裏を掠めた。
「・・・お前もさ」
「え?」
「味見してみる?」
きょとんとする久美子の後ろ頭に掌を回すと慎はそっと唇を寄せた。
触れると、かちゃり、と眼鏡のずれる音。
柔らかい唇の感触。
でもそれだけではこの珍味は伝わらない。
虚を衝かれたのか久美子は全く抵抗を見せなかった。石のように固まっている。
慎はまだとろりと苦味の強く残る舌をゆっくりと忍ばせるとその後は思う存分その口中を味わった。
 ───これじゃどっちが味見してんだかわっかんねえな。
暫く玩味してからやおら唇を離す。
久美子はどんぐり眼を大きく見開いたままで慎の顔を見詰め返していた。
「苦いだろ?」
その問いかけにも答えは無い。
余りの呆けた顔付きに慎はふっ、と唇の片側だけ上げて笑うと、今のうちにここを立ち去ったほうが賢明だなと判断する。みぞおちに拳を見舞われるのはごめんだ。
「じゃ、な」
ごちそーさん。
耳許でそう囁いてから屋上を後にした。


 □ □ □


「苦っ・・・」
放心状態から解かれた久美子は口に残る味に顔を顰めた。
 ───なんだこりゃ。とてもじゃないが、人様の食うもんとは言えねえな。
教え子に何をされたのか気付いたのはそれから更に数分後。
 ───あんのやろう・・・。教師を揶揄いやがって。
唇にそっと指先を当てる。
でも。
嫌じゃなかった。
全然嫌ではなかったのだ。
舌に残るのは痺れそうなほど苦いカカオの味。
けれど。
口許から喉へと伝わり、胸いっぱいに広がるそれは。
甘い。
とろけそうなほどに甘い。
久美子は自分の右手に握り締められた水色の包みに視線を送る。
到底愛しいあのひとには捧げられない。苦い苦いチョコレート。
そして胸に残るのは。初めて自覚した甘い気持ち。チョコレートよりもずっとずっと甘い。
「どーすんだよ、これ・・」
視線を落としたままぼそりと呟く。
 ───・・どうしよう。
陽の翳り始めた屋上で、山口久美子はひとり、途方に暮れた。