GOKUSEN(原作ver)

                     69.影



「沢田っ。大変なことになった」
それはひと月ほど前のこと。
自分のベッドに寝転がって雑誌を読んでいる沢田慎の細い体躯を包むTシャツが、半袖から少し厚手の長袖に変わった頃のことだ。
久美子は元教え子の部屋にずかずか上がり込むとベッドの傍まで歩み寄る。
あるじが留守でない限り、この部屋に鍵がかかっていたことは一度もない。それが自分の為だということを久美子はちゃんと知っている。
「うるせえな・・・」
沢田慎は久美子のほうを見ようともせずに呟く。「・・・何だよ?」
「し、し、し・・・」
「し?」
「篠原先生に」
「・・・」
拳を握り締めて爆弾を投下する。
「篠原先生にデートに誘われたっ」
「え?」
慎にしては珍しく顕著な反応だった。
雑誌を胸元まで擦り下げ上半身を起こすと、切れ長の綺麗な形の目を僅かに見開いてじっと久美子の顔を見詰めた。
「一緒にお芝居観に行こう、って」
「・・・へえ」
感情の描写はけれどそれだけで、後は再び身体を横たえて雑誌に視線を戻してしまう。雑誌に覆われ隠れてしまった顔にどんな表情が浮かんでいるのか。久美子のいる場所から窺うことはできない。
「へえって、お前それだけ?」
拍子抜けしてしまった。
「他に何言えっつーんだよ」
「何・・って」
久美子は言葉に詰まる。「おめでとー、とかやったじゃねーかとか、何かあるだろ?」
ついそんなことを言ってしまった。
「はいはい。おめでとー・・」
物憂げに言うと慎はたった今伏したばかりの身体をゆっくりと起こした。
「で?」
「で?」
「お前行くの?」
「あ、ああ。勿論だ」
「・・ふうん」
立ち上がった慎の顔は久美子よりも頭ひとつ半くらい高い位置にある。見上げた慎の顔に表情は無い。
「沢田?」
慎はテレビの上の鍵に手を伸ばす。
「・・悪い。俺今からバイト入ってるから行かねえと」
「あ、そうなのか・・」
そのまま何となく気詰まりな雰囲気で外に出る。
別れ際に慎が
「よかったな」
と言った。滅多に聞くことのできない穏やかな優しい口調で。
「え?よかった?」
久美子は言葉を失いそうになる。「お前、ほんとにそう思う?」
「・・だって、お前あの先生にずっと片思いしてたんだろ?」
「え?ま、まあ・・」
 ───それっていつの話だよ。
「よかったんじゃねえの?」
「うん・・」
何なんだ。こいつは。言いたいこともちゃんと言えねえのか。まどろっこしいヤツだな、ほんとに。
そう心の中で呟く。
 ───でも、あたしもだ。


卒業してから一年半。
ふたりの関係はビミョウなところにあると久美子は思っていた。
休みの日の殆どをコイビトドウシのように近しい存在で過ごしていながら、でも肝心なことは伝い合えない。
そこのところを何とか打開したい。いや、違う。あいつにさせたいのだ。
こちら側から好きだとは、絶対に言わないと心に決めている。
篠原とデートをするのは本当。
でも真実は少し違う。誘われたのではない。
「これ、二枚もらったから沢田君と行っておいで」
差し出されたお芝居のチケットを
「いや、先生と行きます」
と、一枚だけ指先で抜き取ったのは久美子だ。
「いいの?」
篠原は少しだけ驚いて訊く。
「いいんです」
これは賭けだ。
沢田慎がどう出るか。
流れを変えたい久美子は一か八かの大勝負に出ようと思った。
結果は思わしいものにはならなかった。
でも。
流れは変わった。


あれ以来慎とは連絡が取れなくなってしまった。
いつ行っても部屋には鍵がかかっていた。携帯に電話してもニ、三回の呼び出し音の後、電波の届かない所に行ってしまう。
 ───あんの野郎・・っ。避けてやがるな。
沢田のばか。
尖らせた唇で呟く。
軟弱にもほどがある。
久美子は閉じた携帯電話の冷たさを掌に感じながら、その都度腹立たしいような泣きたいような気持ちになるのだった。


職員用の玄関を抜けると冷たい空気に思わず肩を竦めた。
日はすっかり暮れている。
今日は何の問題もなく一日を終えることができた。感謝しなくては、と思う。
駐輪場の周辺にまだ残っている生徒達に
「早く帰りなさいよー」
と言いながら校門を出る。背中からは
「うるせえよ」
の罵声が響くがいつものことなので気にしない。
「あ・・」
久美子のスニーカーを履いた足がぴたりと止まった。
校門を出た場所から数十メートル先の学校沿いのガードレールに、見慣れたパーカーを羽織った男が腰掛けていた。
無視して通り過ぎてやろうかと思ったのに、慎は久美子に気が付くと立ち上がって片手を上げた。
「よっ」
まるっきり何事も無かったかのような顔をしている。
「てっめえ・・」
久美子は正面に立つ男を睨みつける。「今まで何やってたんだよっ」
胸元に軽く拳を見舞ってやった。
「いってえ・・」
「当ったり前だ」
慎は胸に手を当てぼそりと呟く。
「・・悪かったな」
やっぱり意識的に避けられていたのだ。
暫く押し黙ったまま狭い歩道を並んで歩いた。
言いたいことは山ほどあったのに。こうやって普通に会うと何も言えなくなってしまう。
逆に質問された。
「お前さ・・」
「ん?」
「篠原と芝居観に行った?」
「うん。行った」
「・・・」
「めちゃくちゃ面白かったぞ」
「そうか・・」
横目でちらっと視線を送れば、顎を突き出して、でも別段怒っているという風でもない。
「沢田は?お前はずっと何してたんだ?」
「あー。バイトに明け暮れてた」
「ふうん。そうか」
「何か落ち着かなかったっつーか・・」
「へえ」
何で?とは訊いてやらない。
でもこのまま行くと、うやむやなまま、また元の関係に逆戻りしてしまいそうだ。
全くこの男の情けないことといったら。
もうこれはこちらから何か言い出すしかないのかもしれない、と心の中で溜息を落とす。
足は自然と慎のアパートの方角に向かっていた。
横断歩道を渡ってしまうと後は薄暗い細い道に入る。
家々の灯りと夕餉の匂い。かなり離れた間隔でぽつりぽつりと立つ青白い外灯。
足元が少し暗い。
「山口」
不意に声をかけられた。慎らしいテンションの低い声で。
「何?」
こちらもいつも通りに素っ気無く返して横を見上げる。
見上げた顔に。
ゆっくりと落ちてくる影。
 ───あ。
長い睫だな。
そう思った刹那、自分の唇に柔らかな感触。
瞼を開いたまま受け止めた。
触れていたのはほんの僅かな時間で、それは直ぐに離れていった。
互いに見詰め合う。
頬が一気に熱を持った。
今自分はどんな表情をこの男に見せているのだろうか。慎はといえば、暗くてよく見えないものの、心にも無いことをしてしまったと言わんばかりの不貞腐れたような顔付きをしているのがわかる。そこに甘さは微塵も感じられない。
「好きだ」
怒ったように言い放つ。「好きなんだよ」
目を見開く久美子。
ああ。
こいつに愛の囁きは全然似合わない。
まるで喧嘩を売ってるみたいじゃないか。
散々待っていたくせに、そんなことを思った。
慎の掌が久美子の両肩を優しく掴んだ。
久美子はゆっくりと瞼を落とす。
そうしてもう一度影が降りてくる瞬間を、息を潜めて待つことにした。


                                      05/2/21UP