「こんちはー」
沢田慎は重厚な外囲いの施された黒田一家の門をくぐると、黒という字を丸印で囲った紋章の下に『三代目 黒田一家』と恭しく書かれた引き戸を開けた。初めてここへ来たときは担任の山口久美子が極道一家の孫娘だということを知らなかったのでかなり緊張していたが、今ではすっかり馴染んでしまっている自分に慎は時折戸惑う。自分は他人にここまで懐く性格ではなかった筈だ。しかもこの家の連中ときたら久美子以外、皆強面の人間ばかりではないか。
「なんだ、沢田じゃないか」
久美子がジーンズにノースリーブのシャツというラフな格好で奥から顔を出した。「どうした?」
「犬だよ。犬」
慎は面倒臭そうに手綱を引いた。「お前んちの犬がまたうちに来てたんだよ」
引き戸の影から図体ばかり大きい優しい顔立ちの犬が申し訳なさそうに現れた。
あはは、と大口を開けて久美子は笑う。
「富士はほんとに沢田が好きなんだねえ」
「うれしかねえよ」
久美子はサンダルを履くと慎の横に立ち、富士の頭を撫でた。
「いっそ、沢田んちのコになるか?富士?」
「やめろ」
「つめたいこと言うなよ。富士はすっかりその気だよ」
ばさばさと馬の尻尾のような尾を振る富士を撫でまわす久美子の肘が慎の腕に触れた。その素肌の体温はあの時ほどの熱を持ってはいない。
猫股組の手下の工藤らに監禁された久美子を救出したあの時。
背負った久美子の身体は信じられないほどの熱を発していて、触れた背中から伝わる体温はじりじりと慎の脊髄を焦がした。
川西と戦い終えた慎の身体の疲労は限界に近く頭は真っ白だった。
息を整えることに精一杯の慎の首にぎゅうっと抱きついてきた久美子はふっふっふっ、とその場に不似合いな声を立てて笑った。
「山口?」
あまりの高熱に頭がやられてしまったかと心配になる。「なに笑ってんだよ?」
「しぇんしぇ〜い」
うわ言のように久美子の口から零れ出た名前。
「あ?誰?」
「しのはらせんせ〜い」
「ふっふっふっふっふ・・・」
───誰だよ、それ。
その甘い響きに男の名前だと直感した。
不意打ちだった。
背中にへばりつく色気のない女にコイビトの存在を疑ったことなど一度もなく、突然の闖入に慎の胸はきゅうっと締め付けられる。
自分の首に絡みつく細い腕が、いつもその男に回されているものかと思うとそれだけでひどくムカついた。
「・・・ふざけんなよ、テメー。それ・・・目茶苦茶腹立つぜ・・・」
意識を失った女にその思いは届かない。
恋の自覚と喪失をいっぺんに経験した貴重な瞬間だった。
久美子は無防備に慎の傍で富士と戯れている。
慎の鼻先を久美子の髪の香りが掠めた。
ふっ、と顔を上げると
「もう少ししたら晩御飯だ。沢田も食べてけよ」
そんなことを言う。
ほんのちょっと前まで生徒の慎がこの家に入り込んでくることをこの担任教師自身嫌がっていた筈なのに。いつの間にか躊躇なく漏れる言葉に、少しはふたりの距離も縮んでるんじゃないかと自惚れそうになる。
篠原センセイは久美子の片思いの相手で、カレシではなかった。
「今日、おっさんいるの?」
「京さん?今出てるけど、直ぐ帰ってくるよ」
「じゃ、食ってこうかな」
慎がそう言うと、
「それにしても、あれだね。休みの日に家にいるなんてデートする相手もいないの、沢田?」
「お前に言われたくねえよ」
右肘で慎の胸を突付いて、ふふんと冷やかすような目で見る。
「ほら、あのコどうした?前にデートしてた可愛いコ」
「・・・」
にやついた顔が癇に障る。
「ふられたのか?」
「ほっとけ」
「まったく、可愛い顔してんのに愛想がないからねえ、沢田は」
「お前こそ、どうなんだよ・・・」
慎が訊こうとしたその時。
「こんにちは」
途端に久美子の表情が輝きを持つ。
頬に朱が射し、その顔付きはぱあっと華やいだ色に染まった。
つぶらな瞳孔が喜びに開く瞬間を慎は目の当たりにした。
不覚にも一瞬見惚れてしまう。
揺れる瞳は、けれど慎を素通りしてその肩越しに向けられていた。
「ひゃあっっ。篠原先生っ」
久美子は普段学校に居るときには考えられないような可憐な声を上げると慎の横をひらりとすり抜けていった。
───ああ。あれが恋する女の瞳ってやつね。
楽しそうに会話を交わすふたりを見詰めながら、慎はぼんやりそんなことを思った。
傍で犬の富士がくうんと鼻を鳴らす。
心配そうに見上げる富士の頭をひと撫ですると
「じゃ、俺はこれで・・」
慎はふたりに素っ気無い声で告げ、かったるそうな仕草で引き戸を開けた。
「おい、沢田、晩飯は?」
「沢田君?」
久美子と篠原が呼び止めるが慎は右手を軽く挙げて見せただけで、振り向くことはしなかった。
外に出ると世界はすっかり夕焼けに支配され、今にも沈みそうなまあるい太陽の強い日差しに慎は右手を翳して目を細めた。
あの太陽の赤が自分の内の熱をも吸収してくれないだろうかと慎は思う。
あの日。
工藤たちの車が引き返して来たことを知ったあの瞬間。
久美子の重みと温もりを背中にしっかりと感じながら、こいつと一緒なら死んでもいいかな、そんな思いが胸を掠めた。
熱に浮かされていたのかもしれない。
久美子から感染した熱。
久美子から浸潤してきた熱。
慎の熱はいまだ冷めない───。
04/11/15UP