GOKUSEN
半月 ─ハーフ・ムーン─ 4.
自動販売機のコインの入り口に100円玉をふたつ入れる。それから10円玉。220という数字の赤く光るボタンを押すと、ごっとん、と販売機全体が力強い音を立てた。
内山は長い身体を屈めて日本酒のワンカップを取り出す。
先程までは三月なのに暖かいとさえ感じていた夜の空気もこの時間になってくるとさすがに冷たい。熱を持った瓶を頬に当てながら歩いた。見上げた空に浮かぶ半月は慎の家を出た時よりもやや西に傾いていた。
歩き慣れた道を辿る。いつも横断する小さな児童公園の中央まで来たところで目についたブランコに歩み寄って行って腰を降ろした。座った瞬間ぎいっ、と鎖の軋む音が静かな公園に響いた。座ったものの、脚のやり場に困って苦笑する。いつの間にか自分の身体は子供の遊具に適さないサイズになってしまっていた。膝を伸ばして脚を投げ出してから、日本酒の入った瓶を両の掌で弄んだ。
「内山君は、優しいね」
ひとりの女のコの言葉を思い出していた。
「あたしの言うことなら何でも聞いてくれるでしょ?自分が嫌だなって思ったことでも絶対嫌だって言わないでしょ?」
3ヶ月だけつき合った。自分より30センチ近く身長の低い小柄でショートカットの女のコ。抱きしめるとその身体は自分の腕の中にすっぽりとおさまった。
はっきり物をいうコだった。内山君ってちょっとマザコンだよね、と言われたこともあった。学歴は自分と同じ高卒だったがすごく頭の回転の早いコで、話をしていて楽しかった。結構好きだった、と思う。
「すっごく優しい。でもそれってただの自己満足なんだよね。本当はあたしのことなんかちっとも見てないくせに」
何を言われているのかよくわからなかった。自分はいつだって彼女のことを一番に考えているつもりでいたから。
「あたしのことちゃんとわかってないから、あたしが本当にそうして欲しくて言ってるのか、内山君に意地悪したくて言ってるのか全然わかんないでしょ?」
何故突然そんな話になったのか。彼女の可愛らしい唇から出てくる初めて聞く言葉の数々を咄嗟に理解できなくて我知らず笑みを浮かべていた。笑顔のままで訊ねる。
「何言ってんの?」
途端にそのコの顔に怒りが滲んだ。
「何で笑うの?」
「え?」
「あたし、今酷いこと言ってるのに。内山君のこと傷つけようとしてるのに、何で笑うの?」
「・・・」
「内山君のそういうとこ、大っきらいっ」
内山は投げ出した左足の踵で地面にぐるぐると円を描く。
ぶらんこが揺れる度ぎっぎっと錆びた金具が耳障りな音を立てた。
自分のことを大っ嫌いだと言ったあのコとはそれから一度も会っていない。電話で二度話をしたが結局別れてしまった。
彼女の問いに絶句してしまったのがいけなかったのだ。きっと。
そんなことはないと直ぐに否定すればよかったのだ。でもできなかった。
言葉を失ってしまった自分にただ狼狽えた。
『内山君、本当は誰か他に好きなひとがいるんじゃないの?』
今日、訪ねた慎の部屋。ノックしたドアの向こうからは当然慎が出てくるものだとばかり決めつけていた内山は、現れた女に驚いてしまった。かつては毎日見ていたお下げの髪に銀縁の眼鏡。丸い額に大きな瞳。ジャージこそ着ていなかったがいつ会っても山口久美子のままの女。
心臓が信じられないほどどくんと強く打った。
彼女は彼のコイビトなのだから合鍵ぐらい持っていたって少しも不思議ではないのに、彼のいない部屋に彼女だけがいることに初め強い違和感を覚えた。
けれど内山は、あのコに大っ嫌いだと言われた笑みをその顔に貼り付けて
「よっ。慎は?いねえの?」
平気な素振りでそう訊いた。
「うん。まだ帰ってない」
おそらくは、扉を開けた彼女のほうもドアの向こうに立っていた相手が内山だったことに戸惑っていた筈だ。でも、彼女は直ぐににんまりと笑った。不敵な笑みに嫌な予感が走る。
「ちょうどよかった。内山、料理できる?」
いいところに来たと言わんばかりに部屋に招き入れられた。
「え?いや、俺帰るよ。」
「え?なんで?せっかくきたんだから上がってけって」
女はへらへらと白い歯を見せている。「・・・それよりさ、ちょっと手伝ってくれよ」
まずい。
心のどこかで警報ランプが点滅していた。
この女とふたりきりになるのは非常にまずい。
だが、彼女に見せられた台所の食材たちの余りにも悲惨な状況に手を貸さずにはいられなくなってしまった。
それがいけなかった。
彼女に誘われるまま、一緒に買い物に出掛け、そしてあの狭いキッチンで並んで料理をした。
自分がずっと手にしたいと願っていた時間。
欲しくて欲しくて止まなかった時間が確かにそこにあった。
できれば。
自覚したくはなかったのだ。
内山は半分しかない月が煌々と放つ円形の光を見詰める。半分しかなくても太陽の光を受けて、ちゃんと自分の存在を示す月。
掌のワンカップはもはや熱を失いかけていた。
自分の好きな沢田慎という男が初めて恋をした相手だから気になるのだろうとずっと思っていた。
笑いたいときには大口を開けて笑い。泣きたいときにはぼろぼろ涙を零し。怒るときには全く容赦が無い。平気で拳で殴ってくる。
大地に根を張って。太陽の光を浴びて。思い切り生きることを満喫している女。
自分達も、生きるとはどういうことかを彼女に教えてもらった。
あんな女はどこにもいない。
もし慎が白金に転校して来ていなければ。彼女は自分を好きになってくれたろうか。
もし自分が慎のように勉強ができて3Dのリーダー的存在だったとしたら。彼女は自分を好きになってくれただろうか。
いや、多分そうはならないだろうな、と思う。
きっと、あのふたりはどこでどんな形で出会おうとも惹かれあい恋に落ちた。
きっとそうなのだ。恋とはそういうものなのだ。
クマにギョーザを上手に焼けるあのコがいるように。
慎に山口久美子がいるように。
自分にも。
自分にもそういう相手がどこかにいるのだろうか。
内山はブランコから立ち上がると冷えてしまった白と青のラベルの瓶をそっと、ズボンのポケットに押し込んだ。
昼間遊びに来た子供が忘れて行ったのか、赤いプラスティック製のシャベルが砂場の真ん中でぽつんとその身体を半分だけ覗かせていた。
夜の人気の無い公園は昼間とは対照的で、外灯が点いていても、月の光に照らされていても、なんだかうら寂しいものだ。だからだろうか。つい感傷的になってしまった。
けれどそれも今だけだ。
大丈夫。
次にあのふたりに会ったときにはきっと今日と同じ顔で笑える。
公園を抜けると直ぐに自分と母親の住むアパートが見えてきた。今日はあの部屋で自分の帰りを待っているひとは誰もいない。帰ったら風呂に入って、それから何をしようかと考える。
小さな外灯だけの暗い通りを歩きながら内山はもう一度月の光を求めて空を見上げたが、やはり未だ半分しかない月は、涙で滲んでぼやけて見えた。