GOKUSEN
彼女の恋愛 5.
藤山静香は夜の街をゆるやかな足取りで歩く。
帰るには少し早い時間だが、だからといってひとりで新しい店に入る気にもなれない。以前はこうやって歩いていると絶え間なく声を掛けられたものだが、二十五歳を過ぎた頃からそういうこともぱたりとなくなってしまった。
自分ではまだまだイケてるつもりでいるのに。
現実は厳しい。
今日の合コンもまた、自分の琴線に触れるようなひとには巡り会えなかったな、と溜め息を落とす。
自分の理想が高いのか。はたまた合コンに足を運ぶ男のレベルが低いのか。
絶対に後者に違いない、と藤山は思う。
確かに以前はルックスだの年収だの職業だの、果ては乗ってる車の車種から身に着けている服や小物のブランドにまで拘っていた。
でも今は違う。そういう時期は通り過ぎて内面を重んじるようになってきた。自分でも大人になったな、と思う。
けれど物欲にまみれていたあの頃のほうがどういうわけかつき合う相手を選びやすかった。
立派な装飾を取り払った男たちは思いの外弱々しくてつまらない。
そんなことを考える時、必ず藤山はあるふたりの女の顔を思い浮かべる。
ひとりは川嶋菊乃。
彼女はかつて子持ちの男と結婚していた。相当な決意が必要だっただろうに、どんな思いが彼女を突き動かして結婚にまで至ったのか。
そしてもうひとりは山口久美子。こちらは元教え子と今現在もつき合っている。
沢田慎が在学当時からずっと山口久美子に思いを寄せているのは知っていたが、教師という職業を誰よりも大切にしている久美子がよもや自分の教え子をコイビトにするなどとは思ってもみなかった。
これからも教師を続けていくつもりなら大層なリスクを背負うことになる。
どうしてわざわざそんな面倒な相手を選ぶのだろうか。
どんな葛藤や迷いがふたりのなかにあったのか、自分には想像することもできない。
きっと他人から見れば足枷だとしか思えないものも厭わないほどの、相手への愛情があってのことなのだろう。
自分は、相手にそんな深い情愛を注げるほどの恋愛はまだ経験していない。
大きな交差点でひとの流れが止まった。藤山も横断歩道の手前の縁石で足を止める。ぼんやりと目の前を通る車のライトの流れに目を遣った。
歩いている時には気が付かなかったが、脇に抱えた鞄が微かに震動していた。
ごそごそと鞄を探り携帯電話を取り出す。そこだけ明るく光るサブディスプレイを見れば、『山口先生』の文字。首を傾げながら耳に当てた。
「もしもし?」
『あっ。藤山先生っ。山口ですっ。今、どこにいるんですか?』
周りの喧噪に負けないくらいの馬鹿でかい声。藤山は思わず相好を崩す。
「もう駅の近くまで来てますよー。何か用?沢田くんと一緒じゃないの?」
『・・・』
暫しの沈黙。店の外にいるようで、電話からはこちらと同じような車やバイク、人々の行き交う音が聞こえてくる。
『藤山先生っ』
「はい?」
『これからふたりで飲みなおしましょうっ』
「えっ」
『だめですか?』
「って、山口先生、沢田君は?」
『沢田はさっきの店に置いてきました』
藤山は大きく目を見開いて、それからぷぷっと吹き出した。
道路を挟んで向こう側に見える信号が赤から青へ変わり、再び周りの空気が動き始めたが、藤山は少しも迷うことなく笑いながら踵を返した。今歩いて来たばかりの道を戻る。足取りは先程よりもずっと軽い。
これまで一緒に遊んでいる最中に彼氏から呼び出されてそちらへ飛んで行った女友達は沢山いたが、彼氏のほうを反故にして自分と一緒に飲み直そうと言ってくれた人間はひとりもいなかった。女同士なんてそんなものだと思っていた。
藤山はわざと困ったような声音を作る。
「えー。もう帰るつもりだったのになあ。どうしようかなあ」
『そ、そう言わずに・・』
「若い男のコの多いお店に連れてってくれるって言うんなら、つき合ってあげてもいいですよ」
『ええええっ。そんなお店知ってるわけないじゃないですか』
「この前みたいにくたびれたおじさんばっかりがいるようなお店はもうごめんですからね」
『す、すみません・・』
藤山は携帯電話を空いているほうの手に持ちかえた。
「山口先生?」
『はい?』
「ひとつ忠告しておきますね」
『はい』
「コイビトよりも女友達を選ぶようじゃ、当分女の幸せは掴めませんよー」
『・・・』
がこんっ、と電話の向こうで派手な音がして藤山は思わず顔を顰めた。その視線の先に、落とした携帯電話をあたふたと慌てて拾う山口久美子の姿が映る。
ここ最近急速に綺麗になった、けれど、そのことを少しも自覚していない女。同僚というよりは、もう、おそらくは友達と呼んでもいい女。
「山口せんせい」
久美子が顔を上げる。少しお酒がまわっているようで、仄りと色づいた頬ととろんとした目つきが思いがけず色っぽい。
藤山静香が手を振りながら近寄ると、半べそをかいていた山口久美子の顔に、嬉しそうな笑みがたちまち滲んだ。
□ □ □
カウンターの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が突然顫動し始めて、慎はゆっくりとそれを手に取った。
もう店を出ようかと思っていた矢先のことだ。
久村はナンパに成功して、可愛い女のコふたりととっくに店を後にしていた。片方の女のコがしきりに慎に視線を送っているのに気がついてはいたが、約束があるからと断った。
「相変わらず真面目だよな、沢田は。ちょっと他のコと遊ぶくらいどうってことないだろ?」
嫌味たっぷりに言い放つ久村のことはいつもどおり無視した。
「・・・もしもし」
『あ、沢田くん?』
かかってきたのは間違いなく久美子の携帯電話からだったが、声の主は藤山静香だ。『今、どこ?さっきのお店にまだいる?』
「ああ。いるよ」
『実は山口先生が酔い潰れちゃって。・・・悪いんだけど、迎えに来てくれない?』
「・・・どこにいんの?」
藤山が告げたのは慎も知っている店の名前だった。「わかった。すぐ行く」
店を出た時の久美子の様子から、多分こんなことになるんじゃないかと予想していた。予感的中だ。
慎は勘定を済ませると店を出たが、週末だからだろうか、道行く人のあまりの多さに驚き目を見張った。もしかしたらタクシーは簡単にはつかまらないかもしれない。
僅かに不安を抱えながら慎は、久美子と藤山の待つ店へと歩を早めた。
───重い・・。めちゃくちゃ重い。
眠りに落ちた人間の身体はどうしてこうも重いのか。
慎は、あんなに細いのに今は漬物石みたいに自分の背中に容赦なく重みを預けてくる女を、軽々しく背負って帰るなどと口にした数十分前の自分を恨めしく思っていた。
背中からずり落ちそうになる久美子の身体を何度も立ち止まっては背負い直す。
「う・・ん・・」
久美子の声が微かにしたかと思うと不意に背中が軽くなった。「さ・・・わだ?」
「起きた?」
慎は僅かに顔を後ろに向けて話しかける。
「う・・ん。なんか、気持ちわるー・・」
「頼むからそこで吐くなよ」
「う・・ん」
慎の耳の後ろに久美子の頬の柔らかな感触。「迷惑かけたな。ごめんな・・」
「いいよ。それよりさ・・」
「ん・・?」
「タクシーつかまりそうにねえんだけど」
「うん・・」
「今日さ、俺んとこに泊まんねえ?」
「・・・」
「・・・」
「うーん・・」
「何だよ」
「うーん。それは無理。むりむり」
久美子はふるふると頭を振っているようで、ばらけた髪が慎の胸の辺りで揺れる。「今日はだめだ。できない。そんなことしたら死ぬ。絶対吐く」
「は?」
「ぜーったい、できない・・」
───できないって・・。何が、だよ。
「あのな」
慎は溜め息を落とす。
「ん・・?」
「酔っ払ってる女に手え出したりなんかしねえよ、俺は」
「ふーん。そうなのかー・・・」
わかっているのかいないのか。久美子の呂律はかなり怪しい。慎はもう一度大きな溜め息を落としながら、自分の部屋に辿り着く前にどうか久美子が再び眠ってしまわないようにと祈る。
慎のアパートが近づくに連れ、人通りも車も少なくなって辺りは閑散としてきた。
顔だけ起こして夜空を見上げると浮かんでいるのは黄色い三日月だけだ。星は見えない。
それにしても。
先程からどういうわけか空車表示を上げたタクシーが一台も通らない。ただ、背中に酔っ払いを乗っけているのは誰の目から見ても明らかで、万一空のタクシーが通ったとしても乗車拒否される可能性はかなり高いように思えた。
久美子は本当に具合がよくないようで、慎の背中から降りるとはひと言も口にしない。時折苦しそうに顔の向きを変えたりしている。
「さわだー・・」
くぐもった声が慎の首の後ろから響く。
「あ?」
「沢田が煙草を吸うとこ、初めて見た。びっくりしたぞ」
慎は思わず立ち止まりそうになる。
───ああ。それ。
「・・・ひとに勧められたときだけな。滅多に吸わなねえよ」
「ぜーんぜん、知らなかった・・」
「・・・そうだっけ?」
「間接チューだ・・。藤山先生と沢田が間接チューした・・」
今頃その話題かよ。慎は嘆息しながら、できれば流してほしかったな、と思う。
「悪かったよ・・」
藤山の作戦に乗じたのは、常になく着飾った久美子が久村と仲良さそうに話していたのを目にしたからだ。まるで知らない女に見えて暫く声をかけることができなかった。
何故、驚かされるのがいつもいつもこちら側ばかりなのだろうかと、少々ムカついていたときの誘いだった。
我ながらコドモっぽいことをしてしまったと思う。久美子が絡むとどういいうわけか抑えが効かなくなってしまう。
確かに久村の言ったとおり、ちょっと遣り過ぎだったかもしれないと反省していた。
「ごめんな、沢田」
「いや、つーか、何でお前が謝るんだよ?謝るのは俺のほうだろ?」
「沢田のこと傷つけちゃったな・・」
「は?」
「藤山先生にお前のことちゃんと話せなかった。ごめんな」
「・・いいよ。もう、その話は」
「よくない」
久美子の、ぶらぶらと慎の胸元で揺れていた腕が鎖骨の辺りできゅっと交差する。「ちゃんと話せなかったのは、照れ臭いってのも確かにあったんだけど。それだけじゃないんだ・・」
「・・・何?」
「んー。・・罪の意識かなあ」
「・・・」
「元生徒とつきあってるっていう教師としての罪悪感がさ。まだあたしのなかにあるみたいなんだ」
久美子はそう言うと回している腕に力を込めた。「ごめん。ほんとごめんな。沢田」
「・・・」
慎は、ツミノイシキ、と小さく呟いてみる。
教師として生真面目な山口久美子らしい、と思う。
久美子は「まだ」と表現したが、それはきっと、久美子が教師を続けていく限り、ずっと消えることはないだろう。
「ごめん」
「いいよ。仕方ねえよ」
慎は、やはり謝るのは自分のほうだと思った。慎が久美子に近づいていなければ、今背中にいる女がこんな風に罪悪感を抱えることも、おそらくはなかっただろうから。
「・・でもさ」
「・・・」
「好きなんだ」
「は?」
「沢田のことが、大好きなんだ・・」
「・・・」
「あたしは先生だけど沢田と一緒にいたいんだよー・・・」
ひとり言みたいに言いながら慎の背中に体重を預ける。最後のほうははっきり聞こえなかった。急激に背中の重みが増してきて慎は慌てた。
「おいっ。寝るなよっ」
足を止めて、後ろに回した腕と背中とを揺すってみたが、久美子の反応は薄い。代わりにむにゃむにゃと寝言のような声が聞こえてきた。
「だから・・・お願いだからさ・・・」
「・・・」
「嫌わないでくれー・・・」
「・・・」
───・・ったく。
「嫌わねえよ。何言ってんだよ」
今までの倍くらいの重量を背中に感じながら、慎は自分の部屋への道程を辿る。おそらく後十分くらいはこの重さに耐えなければならない。
外灯が作り出す足元の、大きく伸びる影を見詰めながらゆっくりと歩いた。
山口久美子が自分を好きだと言ってくれるのなら。
山口久美子が自分と一緒にいてくれると言うのなら。
ずっと彼女の心の裡で。
彼女の罪という存在でいるのも悪くはない、と思う。
「やばいよな・・」
───俺も相当いかれてる。
ちょっと好きだと言われたくらいでこの有りようだ。今日の彼女の失態を一瞬にして全て許してしまっている。
慎は何だか可笑しくなって小さく笑った。
足元の、重なったふたりの影が微かに震えた。