GOKUSEN(黒銀ver)



麦茶


洗いたての髪をタオルでわしゃわしゃ擦りながら立て付けの悪い浴室のドアを開ける。
廊下と呼ぶにはあまりにも短い浴室から台所へ続く板の間の足元。ドアの下部より黄色い灯りの洩れる兄弟共用の部屋からは物音ひとつしない。今夜もできのいい弟は勉強に勤しんでいるようだ。自慢の弟なのだ。思わず口許が緩む。
都内でも有数の進学校に通っている弟は、自分と違って品行もかなりよろしい。あいつは亡くなった母親によく似ている、と隼人は思う。
自分は。
認めたくはないが、やっぱりあの父親に似ているのだ。
確実に。
矢吹隼人は冷蔵庫の中から麦茶の入った取っ手つきのボトルを取り出した。あまり家にいない父親が金色のばかでかい薬缶で沸かす麦茶。
銀色のたらいの中には今朝使用した茶碗がそのまま浸けてあった。少しも片付かない台所。男所帯だから仕方がない。
以前遊びに行ったことのある友人の小田切竜の家の台所は整然としていたな、と思い返す。
グラスに麦茶を注ぎながら壁の時計を見上げると十一時を回っていた。長距離トラックの仕事をしている父親はまだ帰って来ていない。今日は近県の仕事しかなく早く帰ってこられると言っていた筈なのに。
 ───ったく。あの不良親父。
つい先程帰宅した自分のことは棚に上げて心の中で毒づく。
どうせどこかで酒でも飲んでいるのだろう。誰かそばにいる人間にくだを巻きながら。その様は容易に想像できて笑える。
ごくごくと麦茶を煽っていると、がこんっ、と玄関先からど派手な音が響いてきた。びく、っと身体が反応して唇の端から麦茶が僅かに零れる。
 ───な、なに?
手首で口許を拭いながら振り返ると、弟がドアを開けて玄関に出ようとしていた。
「タク、いい。お前は勉強してろ。・・俺が出る」
「だけど・・」
「どうせ親父だ」
言った途端、ドアが激しく叩かれた。蛮声が響く。
「おーい。はやとー。たくー。開けろー。お父様の帰りだぞー」
「わめくんじゃねえよ、このくそ親父っ」
がちゃがちゃと音を立ててチェーンと鍵を開けるといきなり胸にいがぐり頭がぐりぐりと押し付けられた。猛烈に酒臭い。
「うわっ。くっせえ・・」
「へっへっへ」
いがぐり頭は上機嫌だ。「今日も山口先生とご一緒しちゃったぞー」
「は?」
 ───山口先生とご一緒?
隼人の頭に担任教師山口久美子のにんまりと微笑む顔が浮かんだ。
「なに?親父、山口と一緒に酒飲んだの?な、なんで?」
 ───今日も?今日も、ってなんだよ?
問い質そうとしたが、へっへっへ、と千鳥足の酔っ払いはそのまま自分がいつも床を取る部屋にどさっ、と飛び込んで行った。
「ったく。仕様がねえなあ」
隼人は後を追うと押入れから布団を引っ張り出した。放っておいたらそのまま寝てしまいかねない。風邪をひかれたら堪らない。こんな男でも一応一家の大黒柱なのだ。
「はやとー・・・」
嗄れた声が足元から話しかけてくる。
「あ?」
「お前、山口先生が好きかあ・・・?」
「は?」
突然の質問に折りたたんだ敷布団を伸ばす手が止まる。腰を折ったまま横を見れば、大の字になった酔っ払いは目を閉じて気持ちよさそうだ。
「何言ってんだよ。知るかよっ」
「いい先生だよなあ。あんな先生が本当にいるんだなあ」
「・・・」
「お前のことをちゃあんと見てる」
「・・・」
自分のことだけじゃない、と隼人は思う。
山口はたった三ヶ月だけの付き合いしかない、3D生徒全員のことを一生懸命理解しようとしている。そしてできの悪い自分達の力になろうと奮闘している。
女で。しかもちっちゃな身体で。
確かにあんな教師がこの世に存在するとは自分も思っていなかった。
敷布団を敷いた途端、帰巣本能があるかのごとく酔っ払いは身体を起こすと布団の上に這っていってうつ伏せになった。枕に埋めた横顔は、何を考えているのか幸せそうだ。
「はやとー・・」
「だから、なんだ、つってんだよ。うっせえなあ」
へへへ、と酔っ払いは背中を蠕動させた。
「山口先生と俺が再婚したら、あのひとはお前のお母さんってことになるんだなあ」
は?
隼人は思わず目を丸くして肉付きの良い背中に視線を落とす。
「はいい?」
「へへ。いいお母さんになってくれそうだよなあ・・」
むっとした。
「・・ふざけんなよ、くそじじい」
「へへへ」
「なに言ってんだよ、てめえ、そんなこと言って死んだおふくろに申し訳ないと思わねえのかよっ」
知らず、声が上ずった。
「ああ?」
「それにてめえはメンクイじゃなかったのかよっ。おふくろと山口じゃ雲泥の差だろーが」
酔っ払いに、はは、っと馬鹿にされたように笑われた。
「ばかだな、お前は」
「なんだと?」
「ガキにはわからんかも知れんがな」
「・・・」
「あんないい女はちょっといないぞ」
そこだけ素面であるかのような声色で言った。
隼人は目を見張る。
ふん、っと父親から視線を逸らすと毛布を手に取った。
知ってるよ。そんくらい。
聞こえないように呟いたつもりだったのに。
「ほー・・」
父親は僅かに顔を上げると鼻の下を伸ばして冷やかすような目で我が子を見詰めていた。
「てっめえ・・」
かあ、っと頬が熱を持ったのが自分でもわかった。「さっさと寝ろっ。このエロじじい・・っ」
毛布と掛け布団を乱暴に乗せると、その背中を蹴飛ばした。
微かに覗いたいがぐり頭は、くつくつ震える笑い声と一緒に揺れていた。
腹立たしい。
いらいらしながら台所に戻ると弟がコーヒーを淹れていた。
「兄ちゃんも飲む?」
「いい。いらね」
飲みかけの麦茶を再び手にすると流しに背中を預けた。
 ───ムカつく。
一体何がそんなに腹立たしいのか。自分でもよくわからない。
「おい」
マグカップを右手に自室に戻ろうとする弟を呼び止める。
「なに?」
「親父にな。・・再婚なんか絶対認めねえからなって言っとけ」
弟のタクはまたかという風な呆れた顔を作って見せた。
「・・だから。自分で言いなよ。おんなじ家に住んでんだからさ」
「・・・」
「それにあの親父が再婚なんかできるわけないでしょ?心配しなくても大丈夫だよ」
麦茶をひとくち含むと出て行く弟の背中を睨みつけた。
心配?
大丈夫?
何がだよ。
思い浮かぶのは。
おさげに眼鏡のとぼけた女のにんまり笑う顔。
「母親なんて冗談じゃねえよ・・」
茶色くすすけた、元は白かった天井を見上げる。
隼人は未だおさまらない苛立ちを希釈させるように、麦茶をごくごくと自分の身体に流し込んだ。