GOKUSEN(パラレル)

山口は俺が渡した鍵を右手の指先で摘んだまま、長いことじっと見詰めていた。自分の手にしているそれが何なのかまるでわからないといった表情だ。俺は流しに背中を預けた形でコーヒーの入ったマグカップを口に運ぶ。山口の表情をずっと息を詰めて見守っていた。
「これ、やる。いつ来ても構わねえから」
部屋の鍵をテーブルに置いて指先ですっと山口の前まで滑らせてそう告げた。
トーストとハムエッグだけのシンプルな朝食を食べ終えた後、コーヒーを淹れてる最中にそれを渡した。
山口はその鍵を見詰めて何を考えているのだろうか。何を迷っているのだろうか。
好きだとも言わないでいきなり合鍵を渡されたことに驚いているのか。
それとも受け取ることに躊躇っているのか。俺が白金の生徒だから?
俺だって、昨日山口が俺に会いに来なければこんなことはしなかった。でも山口は自分のほうから俺のところに来た。そして再びこの部屋でひと晩俺と過ごした。俺のことを嫌いではないはず。おそらくまだあの男を忘れてないにしても。俺を必要としてくれてはいる筈だ。
山口は長いこと見詰めたあと鍵をガラステーブルの上にそっと置いた。俺は黙ってそれを見遣る。行き場を無くしてしまった銀色の鍵。
「沢田」
「・・ん?」
山口は麻製のバックをごそごそ探ると携帯電話を取り出した。
「ケータイの番号とアドレス教えてもらっていい?」
「ああ」
俺はそっとマグカップを流しに置くと、山口の傍まで近寄って行った。
山口は俺の差し出した携帯の画面を見ながら親指で自分の携帯に俺の電話番号とアドレスを登録していく。なんだか、見てると笑えるくらい必死な表情だ。
「メール送るぞ」
「ああ」
僅かな間を空けて鳴り出す俺の携帯電話。俺も山口の番号をその場で登録した。
山口は携帯を鍵の傍に置くと、すっかりぬるくなってしまっただろうコーヒーを口にした。
「淹れなおす」
「いい。充分おいしいよ」
山口は笑って再びマグカップに唇を当てる。
ゆうべは自分のもののようにさえ思えていた唇。夜が明けた途端まるで昨日の出来事がなかったかのように触れることすらできない。
「沢田はさ」
「ん」
「何で前のガッコーで先生殴ったんだよ?」
突然問うてきた。「お前、ひとを殴ったりするようなやつには全然見えないんだけど」
「・・・」
俺は口を閉じた。何で今そんな話を、と思う。両手を後ろに突いて視線を遠くに向け、聞こえていないような振りをする。
「ちゃんと話せよ。言わないと、お前とはやってけない」
「は?」
え?え?何?
やってけないって、どういう意味?
山口は両の掌でマグカップを包み込んだ姿勢で、テーブルの上にひっそりと置かれた鍵に視線を注いでいた。
「あ・・・」
「何?話す気になった?」
「あー。いや、そんな大した話じゃない」
「でも、あたしは知りたい」
俺は少し逡巡した後、観念してゆっくりと口を開いた。
クラスメイトが煙草を吸っているんじゃないかと担任に疑われボコボコにされたこと。けれど結局それは担任の勘違いだったこと。でも担任は日頃の行いが悪いから疑われるのだと言い放ってそのクラスメイトに謝らなかったこと。それらを簡単に説明した。
「で、殴った」
俺は親指で首を横一文字に切る真似をして、「そんで馘になった」
「・・・」
「ガキだったんだよ」
俺は笑ったが山口の顔は笑っていなかった。そうか。それだけ言ってもう一度コーヒーを飲む。
「後悔はしてねえんだけど。・・・そのクラスメイトがさ」
「うん」
「自分の所為にされても困るって言ったんだ。俺の退学が決まった時に」
「・・うん」
「俺、全然そんなこと考えてなかったのに」
「そう・・」
「それが一番キイた」
山口はもう一度そうか、と呟くと俺のほうを向いた。マグカップを置くと、両手で俺の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
「わっ。何すんだよ。やめろ」
山口は黙ったまま俺の頭を抱き寄せるとその姿勢で床に倒れ込んだ。
山口の胸に額を当てたまま俺は瞼を閉じる。山口の腕の中は心地よかった。
本当はもうひとつその事件に関連して俺がショックを受けた出来事があった。もう友達はいらない。そのとき心底思った出来事。ほんの些細なことだったが、その時の俺には結構堪えた。
でも今はそのことには触れないでいようと思った。
「だけど、やばいよな・・」
山口の声が俺の額で振動する。
「何が?」
「こういうのはやばいよ。お前一応生徒だし」
「今更・・・」
だったら初めから来なければいいじゃねえか。
俺の言葉に山口はうん、そうだな、と答える。何がそうなんだ。
「それに・・・」
「うん?」
「あたし、まだ完全にはさ・・」
シノハラさんを忘れてないよ。
山口は小さな声でそう言った。
「・・・わかってるよ」
わかってる。わかってるけど、はっきり口にされると胸が痛い。
暫くそのままふたりで横になっていた。山口が何を考えているのか知りたいようで、知ってしまうのはとても怖いことのような気もした。
山口は俺を解放すると、よっこいしょ、と言いながら身体を起こした。思うんだけど、こいつって時々妙にばばくさい。何でだ?
「これ、もらっちゃって、ほんとにいいのか?」
山口は鍵を手にするとそう訊いてきた。「ここで、他の女と鉢合わせ、なんてあたし嫌だぞ」
「他には誰にも渡してねえよ」
「ほんとかねえ・・」
山口はおどけた調子で首を傾げながら、鞄に鍵を仕舞う。「沢田君はモテモテだから」
ふざけた仕草の山口が可笑しくて俺はふっと笑ってしまった。
このときの俺は浮かれていた。
本当に浮かれていたと後になって思う。
夏休みの間に山口は二回ほど俺の部屋へ来た。二回だけだった。もっと会いたいと電話をすると、勉強の邪魔をしたくない。そう言われた。その後、受験生の心得について延々と講釈をたれた。ほんっと口うるさい女だ。
山口と過ごす時間は他の誰と一緒にいる時間とも違っていた。打てば響くというか。うるさいけど暖かい。変な女。
その頃の俺は、山口が自分よりずっと年上であることも、どこぞの極道の孫娘であることも全く気にならなかった。初めて手にした幸せに恥ずかしいくらい酔っていたのだ。
新学期が始まった。
浮かれ調子の俺は、山口に毎日会えるとただ単純に喜んだ。
「藤山先生」
俺は廊下を歩く藤山を英語の参考書片手に呼び止める。成績が落ちれば多分山口は俺に会いに来なくなる。だから勉強に関しては結構必死だった。
それに受験に本腰をいれなければいけない時期に来ているのも確かだ。バイトも9月いっぱいで辞める予定だった。
廊下で藤山に勉強を見てもらっていると、背の高い金髪の男が歩み寄ってきた。ひと目見て3Dの人間だとわかる。首にシルバーのネックレス。左耳に黒い石のピアス。指にもリングがいくつか嵌められていた。金色の髪の毛が綺麗に編み込みされていることに気が付いて俺は目を見張る。
こいつ何しに学校に来てんだよ、と心の中で毒づく。
「しーずかちゃーん」
近くで見る男の顔は、その長身の体躯からは想像もつかないほど愛くるしく、俺は愛玩動物という言葉を頭に浮かべていた。そんな顔立ちだ。
「あのさ、やんくみ、どこ行ったか知らね?」
「え?さっき、食堂で見かけたわよ。なんか、朝ご飯食べ損ねちゃったから早弁だあ、とか言ってた」
金髪の男の顔が途端に緩む。目尻をめいっぱい下げた顔で笑った。
「ったく、あいつ、センコーのくせにだらしねえよなあ」
言葉とは裏腹の親しみを多分に含ませた物言い。まるで自分のコイビトにでも向けるような。
男は、しずかちゃん、まったねー、と軽い調子で言うとスキップするような足取りで食堂へ向かった。
俺はその後ろ姿をじっと見詰める。
背の高い。金髪の。
───ウチヤマ?
「藤山?」
「え?」
「あ、藤山先生」
「はい?」
「やんくみ、って誰?」
俺はズボンをだらしなくやや下げ気味に履いた金髪の男の後ろ姿をまだ目で追っていた。
「やだ、沢田君、知らないの?」
藤山は目を丸くすると、「山口先生のあだ名でしょ」
やんくみ。
「へえ、そうなんですか」
俺はわざとらしく驚いて見せた。
やんくみ。
その日までの俺は、山口が3Dの連中にそう呼ばれていることすら知らないでいたのだ。
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04/12/30UP
彼女の髪に頬に目に耳に 9.