GOKUSEN



龍一郎さんと沢田君


その日沢田慎は常ならぬ緊張した面持ちで重厚な造りの門をくぐった。
手には自分の胸の幅ほどもある底の浅い長方形の白い箱を抱えている。
門を抜けると玄関の前で立ち話をしている三人の男の姿がすぐに目に留まった。ひとりは長身で青地に白い唐草模様の服を着た端正な顔立ちの男。左耳にピアスをしている。もうひとりは同じ唐草模様でも色違いの桃色の服を身に纏ったかなり肉付きのいい、人の良さそうな顔付きの男だ。ふたりとも一目見てその筋の人間だとわかる。
「あれ。慎の字っ」
桃色の服を着た男がまず慎に気が付いて頓狂な声を上げた。
「こんにちは。ご無沙汰してます」
慎は頭を下げると一番奥に立っている老齢の着流しの男と目を合わせた。
「ほう。坊主、久しぶりじゃねえか。元気にしてたかい?」
この家の主である黒田龍一郎は慎のほうに歩み寄ると嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「はい。三代目もお元気そうで・・」
「お嬢は学校に行ってらっしゃいやすが」
テツも寄って来てにこやかに言う。その好意的な笑顔に慎は、自分でも思いがけないほどの後ろめたさを感じた。
「はい。知ってます。今日は三代目にお話があって」
龍一郎は少し考えるような仕草を見せた。が、すぐにそうかそうかと頷くと
「ま、こんなとこで立ち話もねえだろ」
そう言って中にはいるよう促した。
「ミノルさん、これ、今商店街通ってきたら勧められちゃって、よかったら食べてください」
慎は手にしていた長方形の包みを渡す。
「何すか?」
「苺です」
「あの果物屋のおばさん、しつこいっすからね。あ、こんなに沢山買わされちゃって、慎の字だめじゃないっすか」
龍一郎は振り返ると
「お前ぇさん、まだ学生なんだからよ、変に気ぃ使わねえでいいから。次からは手ぶらで来るんだぞ」
「はい」
 ───次からは・・。
今日自分がここへ来た理由をこのひとはもう察しているのだろうか。慎は少し白髪交じりの、ぴんと背筋の伸びた後ろ姿を見ながらそんなことを思った。


話があって来たと告げたにもかかわらず龍一郎は中に入るとすぐに将棋盤をミノルに用意させた。
「うちには、俺の相手になるような奴がいなくてな。来て早々なんだが一局相手しちゃあもらえねえか?」
「はい」
「なんだ、さっきからはいはいって。今日は自棄にしおらしいな」
龍一郎はそう言うと可笑しそうにくつくつと笑った。
慎は将棋盤を挟んで向かい合いながらも、どんな風に話を切り出そうかと悩んでいた。多分このひとは気が付いている。何を言っても驚きはしないだろう。慎の出方を静観し待ち構えているのだ。
取り敢えずはこの対局が終わってから。
慎はそう考えて駒を打つことに没頭することにした。
局面が終盤に差し掛かった頃、先ほど慎が土産に持って来た苺を丸い盆に載せてテツが部屋に入ってきた。透明なガラスの器に盛られた苺は真っ赤に熟れ艶々とした天然の宝石のような光を放っていた。
慎がその色に魅入っていると何の前触れもなく突然龍一郎が口を開いた。
「今日は久美子とのことで何か言いたいことがあって来たんじゃねえのかい?」
その言葉に反応したかのように、ふたりの横で盆に載せられたふたつの器がぶつかり合って硬質な音を立てた。
三人の間に緊張した空気が走った。
慎は固唾を呑んでテツの表情を窺った。
「すいやせん」
テツは明らかに動揺した様子で円形の盆を畳の上に置き、来た時に出された湯飲みの載った盆を代わりに手にした。盆を抱え上げたテツの手の小刻みな震えを慎は胸苦しさを覚えながら見遣っていた。
 ───テツさん。俺、謝りませんよ。
慎は胸の中でそう呟き覚悟を決めて居住まいを正すと真っ直ぐに目の前の男の顔を見た。
「ご存知だったんですね」
「ああ。あいつは隠してるつもりのようだがな」
「そうですか」
「久美子のいない時にわざわざ来たってことは、あいつにここへは来るなって言われてるんじゃねえのか?」
「はい」
「仕様のねえやつだなあ・・」
テツはそこまで聞いてから立ち上がると、失礼します、そう言って部屋を出て行った。
龍一郎はその後ろ姿を気遣わしそうに見送っていたが慎に目を戻すと
「で、話ってのは・・」
「いえ、ただおつき合いしてるってことをきちんとお伝えしたかっただけです」
「そうかい。・・だけどあれだな、お前ぇさんもまだ若ぇのによ、そんなことを相手の家に話に来るってえのも難儀なこったな」
「・・・山口センセイにもそう言われました」
「そうだろうよ」
「でも、いい加減につき合ってると思われたくなかったんです。俺は・・・」
慎は膝の上で拳を握ると唇を噛んだ。
自分は真剣につき合っているのだ、と告げたかった。
本当のところを言えばいずれは一緒になりたいとさえ思っている。それは容易いことではないかも知れないが、自分の中で彼女の存在はそれほど大切なものになっている。そう口にしたかったが、そんなことまで今このひとに告げていいものかどうか。言えば言うほど薄っぺらな子供の戯言と受け取られるような気がした。
慎は言い淀んだ。
龍一郎はそんな慎の様子を見て苦笑いすると
「まあ、お前ぇさんの気持ちもわかるがな・・。気を悪くしてもらいたくはないんだが、お前ぇさんは若いし何しろまだ学生さんだ。社会に出て働いてる人間から見たらまだまだひよっこよ。将来のことを今どんなに誓われたって、そうそう信用はできねえな」
「・・・」
「きついことを言ってるかい?」
「いえ・・・」
「もし将来自分の手で銭を稼げるようになってよ、それでもなお今と同じ気持ちでいてくれたとしたら、あいつの家族としてこんな嬉しいことはねえと思うよ」
「・・・」
「その時またゆっくりと胸の内を聞かせてくれや」
「・・わかりました」
龍一郎はテツの置いて行ったガラスの器に手を伸ばすと慎にいただきます、と頭を下げ、それから慎にもそれを食べるように勧めた。
苺は少しだけ酸っぱかった。どちらかというと甘味のほうが強く果肉を噛みしめる度に口の中が苺の匂いで満たされた。搾り出された果汁が、ずっと緊張していた慎の喉を潤した。
「あいつは先生稼業に一生懸命だ。他のことで何かあってもすぐに立ち直るんだが、こと生徒さんのこととなるといつまでも落ち込んだり家にまでそのことを持ち込んだりしていけねえ。お前ぇさんの前でもそうじゃねえのかい?」
「はい。でもそれはわかってたことですから」
慎の言葉に龍一郎は声を上げて笑った。
「そりゃ、まあそうだな。まあ、あんな奴だがよろしく頼まあ」
「こちらこそ、時間を取らせてしまってすみませんでした」
慎が深々と頭を垂れると、龍一郎は
「おいおい、まだ勝負は着いちゃいねえよ」
そう言ってまた嬉しそうに笑った。


龍一郎は苺を頬張りながら、真剣に盤に向かう目の前の青年の顔をじっと見詰めた。
対局していつも驚くのは、さまざまな角度から形成の優劣を見極め、二手三手と先を読むその洞察力の鋭さだ。
そして初めて青年がこの大江戸一家を尋ねて来た時のことを思い出していた。
担任教師が極道一家の孫娘だと知り動揺している彼に、無理を承知で、もしあいつを先生として認めてくれるのならこのことはどうか自分だけの胸に仕舞っておいて貰えないだろうか、そう頼んだ。
彼は頷き、その約束が破られることはなかった。
その後思いがけないところから素性がばれてしまい孫娘は職を失いかけた。それを助けるべく立ち上がった彼の凛然とした行動力。
頭脳、義理堅さ、統率力。どれひとつとて不足はない。
そして何よりこの器量の良さだ。男の自分が見ても惚れ惚れとする人目を引く顔立ち。
上に立つものの資質を全て備えているではないか。まだ多分に子供臭さの残るところもあるが、それすらも龍一郎の目には彼の魅力のひとつに思えた。
 ───隴を得て蜀を望む、か。
娘が堅気の男に惚れて家を出て行ったとき、自分の代でこの大江戸一家はお仕舞いだと決めていた。あのとき、まさか自分がまた血の繋がりのある人間と暮らせるようになるなどとは夢にも思っていなかった。仲違いしたまま娘は失ってしまったが、その一粒種の可愛い孫娘は自分の元で育ち教職という天職を自らの手で見つけ邁進している。これ以上の幸せはない。
もう任侠が必要とされる世の中ではない、とも思う。
けれど、目の前に現れた孫娘の選んだ青年の天性の光に気が付いてしまった今、夢をみないではいられなかった。
孫娘には口が裂けても言えないが。


「王手」
突然自分に向けて放たれた言葉に龍一郎は危うく持っていた器を落としそうになった。
目を合わせた青年は唇の片側だけ上げにやりと笑った。
「”待った”は無しですよ」
先ほどまでしおらしく頭を下げていたのに、気が付くと盤上では彼のほうが圧倒的優位となっているではないか。龍一郎は慌てて空っぽになった器を盆の上に戻すと将棋盤に見入った。
そうかそうか。例え愛しいひとの祖父が相手でも勝負事で手は抜かないと言うわけか。
 ───益々、だな。
これ以上何処にも逃げ場が無いほどの窮地に追い込んだつもりでいた慎は、今なお口元を緩める龍一郎を見て訝しそうに片眉を上げた。
「さてさて、何か打つ手はねえもんかな・・」
龍一郎は左手を顎に当てて身を乗り出すと独り言のようにそう呟いた。
そして自分の取るべき手法を慎重に決めると、その手に駒を掴んだ。