GOKUSEN
沢田君の休日
日曜日の昼下がり。
沢田慎は、あたかもここが自分の部屋であるかのように寛いでいるひとりの女を見詰め、そっと溜息を落とす。
山口久美子は胡坐を掻きテレビのブラウン管に視線を送ってにやけている。小さなガラステーブルの上には久美子の持参したポテトチップスとコーラがもう僅かな量になっていた。
観ているビデオは「ミスタービーンvol.3」だ。「極妻」の新作がちっとも出ないとぶつぶつ言っていた久美子が最近ハマっているのがこのシリーズらしい。時折「えへっ、えへへ・・」と中途半端にうけている。
もう少し色気のあるビデオを借りて来たらどうなんだ。慎は考える。それで少しでも扇情的な雰囲気になればそのままおいしい展開に持ち込めるのに、と。
ふたりが付き合い始めたと言っていい頃からかれこれ半年近く経つが一向にふたりの関係に進展はなかった。
原因は分かっている。この女の態度だ。
この女の見事なまでの天然っぷりと幼稚臭さの抜け切らない素振りに、ふたりでひとつの部屋にいても少しも恋人同士らしい空気が漂わないのだ。
ごくたまに奇跡的にそれらしい雰囲気になることもあるのだが、久美子の無邪気な笑顔や正反対の怯えたような硬い表情に、慎は自分がひどく俗悪な人間になったような気がして手を出すことが出来ないでいた。
───いや、だけど小学生じゃないんだからさ・・。
今時の中学生のほうが自分たちより余程発展的な恋愛をしているに違いないと慎は思う。
そして悔やまれるのは半年前のあの日、久美子を猿渡元教頭からの電話に出してしまったことだ。あの時は勢いだった。電話が掛かってくる直前までのあの勢いは、今の慎にはもうない。
もしかしたら久美子には恋愛の経験が全くないんじゃないだろうか、と思案する。否、世の中にはお手軽な恋愛がごろごろしているというのにそれはないだろう、とも思う。
慎の周りにいる女の子たちは本当に見事なまでの早業で容易く恋の相手を手に入れている。久美子にだって女子大生だった時期はあるのだし、恋愛経験のひとつやふたつあったって不思議ではないのだ。
───それも面白くねえよなあ・・。
そんなことを頭の中で思い描いただけでも胸が苦しくなる。その頃自分は何をしていたのだろう、と考えようとしてやめた。非常に不毛な作業に思われたからだ。
慎は頭の後ろで両手を組み、仰向けに寝転がった。
慎の目線の先には久美子が今日着てきた辛子色のダッフルコートがハンガーに吊るされ部屋の戸の桟に掛けられていた。先程灯油を入れたばかりの温風ヒーターが暖めた部屋の温度は心地よくて、慎は自分の瞼が徐々に重くなるのを感じた。久美子の微かな笑い声を聞きながら、こんな穏やかな時間も悪くないかな、と思った。
久美子はそんな慎を見て、ビデオを止める。ブラウン管には日曜日の午後、お決まりのゴルフ番組が映し出された。
「なんだよ。ビデオ観ないのか?面白くない?」
「なあ・・」
「ん?」
「お前大学の時、友達って沢山いた?今も付き合いあんの?」
慎は自分の口から出てきた言葉に自分で情けなくなる。いくら何でも遠まわし過ぎだ。どうしてストレートに、恋人いたのか、と訊けないのだろう。
久美子はちょっと考えてから
「なんだよ、人間関係の悩みでもあんのか?あたしでよかったら相談に乗るぞ」
と真面目な面持ちで慎の顔を覗き込んだ。束ねていない久美子の黒髪が慎の目の前で揺れる。
「んなもんねえよ。そうじゃなくて、こっちが質問してんの」
「今も付き合いのある友達なんかいないよ」
「・・・」
「やっぱ、実家のことバレちゃうとみんな引いちゃうんだよね。ま、当たり前だけど」
久美子の顔が思いがけず翳って、慎は自分の馬鹿げた質問を悔やんだ。久美子は家業の所為で小学生の時にいじめにあっただけでなく、ずっと気が置けない友達がいなかったのだろうか。
「それに比べると、川嶋先生と藤山先生は肝が据わってるよな。川嶋先生なんて今でも裕太連れてうちに遊びに来るもんな」
久美子の顔が嬉しそうにほころぶのを見て慎は少しほっとする。
「川嶋先生たちと言えばさ、明日、一緒に飲みに行くんだ」
「明日?週明けから飲みに出んのかよっ」
「へへへ。給料日だからな」
久美子はポテトチップスを摘みながら慎に自慢気に笑って見せた。「社会人の特権だ」
「教職者のくせに酒飲んでばっかじゃん」
慎はちょっと考えて「・・あいつらも来んの?」
さりげなさを装って訊く。
「ん?」
「あの刑事ふたり」
「いや、明日は女3人だけだ。・・篠原さんいると緊張しちゃって、全然酔えないんだよね」
久美子の中に未だ篠原への淡い思いが残っているのは慎も知っている。本音を言えば不愉快極まりないのだが、健気にも久美子の前ではそういう気持ちは微塵も見せないで平気な振りをしていた。
「なんであんなに緊張すんだろな。沢田といても全然どきどきしないのにな」
───え?
「なんでだろうな・・」
首を傾げる。
「おい」
慎は身体を起こした。先程感じた眠気は一気に吹き飛んでいた。
「今、俺といてもどきどきしないっつった?」
「うん」
「全然?」
「うん。全然」
慎は顔面にストレートパンチを食らったような衝撃をうける。久美子はばしっと慎の肩をはたくと、
「当ったり前だろ。そんなにいつもどきどきしてたら、こんなに寛げないじゃねえか。なあ」
と豪快に笑う。「お前だって、そうだろ?」
───冗談じゃねえよ。俺はな、そのあるかないか分かんない様な胸の膨らみが視界に入っただけでもどきどきしてんだよっ・・。
久美子はリモコンを手にすると、もう一度ビデオを再生しようとデッキに向ける。慎はその手からリモコンを奪った。
「な・・」
何するんだ、と言い終わらないうちに、久美子の身体は宙に浮く。慎は抱え上げた久美子の身体を乱暴にベッドに下ろすとその身体を組み敷いた。黒いパイプベッドがぎしり、と音を立てる。何が起こっているのか咄嗟に理解できずに目を見開いて慎の顔を凝視する久美子の両手を彼女の頭の上でひとつにまとめると慎は顔を近づけた。
瞬間、久美子がぎゅうっと目を瞑った。その顔は、覚悟を決めたようでもあり、自棄になって流れに身を任そうとしているようでもあった。
───だから、そういう顔がルール違反だっつーの。
「嘘つきだな、お前」
「え?」
慎の言葉に久美子がうっすら目を開ける。
「心臓の音。聞こえてっぞ」
唇の片側だけ上げて笑う。「俺といてもどきどきしないんじゃねえの?」
久美子の顔が瞬時に真っ赤になる。
今度は慎の身体が一瞬宙に舞った。
「いってえっっ。・・なにすんだよっ、てめえ」
電光石火の出来事に、慎は蹴り上げられたのか殴られたのかそれすらも分からなかった。「自分の男に暴力振るうんじゃねえよ」
「うるっさい」
「こういうのDVっつうんじゃねえの・・?」
力なく蹲りながら、慎は自分の横腹と今壁に打ちつけた後頭部を摩る。
───まじ、いってえ・・。
ベッドから降りた久美子は怒りにからだを震わせながら人差し指を慎に向ける。
「お、お前とはもう絶交だっ」
「小学生かよ・・」
「これだけで済んでありがたく思えっ」
広いおでこに青筋を立てた久美子はダッフルコートに袖を通すと鞄を手にする。
「なに?帰んの?」
「帰るっ。こんな危険なとこ二度と来るもんかっ」
「・・ビデオ、忘れんなよ」
冷静な声に久美子は涙目できっ、と慎を睨みつけるとビデオテープを取り出した。
「お前、泣いてんのかよ?」
「沢田のばかったれ・・」
乱暴に閉められた玄関のドアの音を聞きながら、
「子供だな・・」
と慎は呆れたように笑った。6歳も年上だとはとても思えない。恋愛経験値は果てしなくゼロに近いと推測された。
慎が外に出ると、久美子はもう階段を降りきっていた。
「また、な」
慎の声に振り向いた久美子は全身を使ってあっかんベーをすると身を翻して駆けて行った。
慎は痛む腹に手を当てたまま、その鮮やかな辛子色がひとつ先の角を曲がって消えるまでずっと見詰めていた。