GOKUSEN



雲の切れ間に太陽が見える 7.


夜になってまた慎の部屋の扉が叩かれた。
「沢田、沢田っ」
声の主に慎は驚く。机に向かってレポートを書いていた手が止まる。
声の主は鍵の掛かっていない扉を開けると勝手に部屋に入って来た。グレイのTシャツとピンクのジャージに身を包んでいるところを見ると、どうやら学校から直接来たらしい。
「さわだっ」
久美子は慎が机の前に座っているのを見ると大声で「お前っ、何やってんだよ。寝てないと駄目じゃないか」
すごい剣幕で捲し立て、いきなり慎の手を掴んだ。
「ほら、下にタクシー待たせてあるんだ、病院行こう」
「は?何言ってんの?」
慎の冷静な声に久美子は
「何って、お前」
大きな眼をさらに丸くして慎を見る。「・・え?え?あれ?」
「あれ、じゃねえよ」
「だって今、内山が電話で」
段々久美子の声に迫力がなくなっていく。「沢田の傷口からバイ菌が入って化膿して熱出して寝てる・・って」
慎はがっくりと肩を落とす。
 ───うっちーのやつ・・・。
「そんで、あたしと一緒じゃないと病院に行かないって駄々こねてるって」
「あほか、お前。そんな嘘信じるなよ」
「えええっ?嘘お?」
見る見るうちに久美子の額に青筋が立つ。「うっちやまのやろう・・。今度会ったらただじゃおかねえっ」
最後のほうはかなり凄味があった。
 ───怖ええよ、お前。・・うっちー、お気の毒さま。
久美子は慎の手を握っていることに気が付くと、
「あ、悪い」
と言って慌てて手を離し、ちょっと所在無さ気にしていたが「ごめん、来るなって言われてたのに。帰るよ」
部屋を出ようとした。
慎は椅子から立ち上がると
「いいよ、もう。せっかく来たんだからお茶ぐらい飲んでけば?もらい物の団子があるんだ。ほら。うっちーが半分食ってったんだけど、俺どうせ食わねえから・・」
「団子?おっ。旨そうだな」
慎の手を覗き込んで眼を輝かせる。
「タクシー、待たせてあるんだろ?帰ってもらえよ」
「そうする」
そう言って鞄の中を探るが「・・って、あっ」
「何?」
「財布・・・学校に忘れた」
「てめっ・・」
慎は溜息を吐くと、自分のお金を持って部屋を出る。
 ───何やってんだよ、俺・・。これじゃ、今までと全然変わんねえじゃん。
戻ってくると久美子はお茶を煎れてテーブルの前にちょこんと座って待っていた。へらへらと愛想笑いを顔に貼り付けている。
「お前なあ、貧乏学生に金出させるんじゃねえよ」
慎も久美子の横に少しだけ間を空けて腰を下ろした。
「いや、悪い、慌ててたからな。今度ちゃんと返すよ」
ちっとも悪いと思っていないような顔で和菓子を頬張る。「あっ、旨いな、これ。内山こんな旨いもの独りでこんなに食ったのか?やっぱり、あいつ、許せねえな」
慎は久美子の顔を見ながら今のふたりの関係もそんなに悪くないんじゃないかと思ったりする。多分お互い誰よりも一番近しい位置にはいるのだ。
けれど。
「お前、ほっぺにあんこ付いてるぞ。ガキみてえだな」
「えっ、ほんと?」
慎は久美子の頬に手を伸ばす。唇の端に付いた餡を親指で拭った。
「悪いな」
久美子は言いながら笑ったが、しかしその顔がすぐに堅い表情に変わる。慎がそのまま久美子の眼鏡を外し両方の掌でその頬を包み込んだからだ。唇を軽く重ねる。角度を変えて二度、三度唇を合わせる。
顔を離すと久美子は睫を震わせて訊いた。
「なん・・で?」
「なんで?」
「・・・」
「お前、それマジで訊いてんの?」
もう一度久美子の頬に手を伸ばそうとしたが久美子はそれを振り払う。慎は逆にその手を掴んだ。
慎は乱暴に久美子を自分のほうに引き寄せると「嫌なら俺を殴り飛ばして帰れよ。お前にならできんだろ。そんで・・」
久美子の耳元で低い声で告げる。
「本当に、もう二度と来るな」
再び唇を重ねた。先刻の掠るようなそれではなく、深く。貪るように唇を合わせ強く吸い上げる。舌を差し込んだ瞬間久美子は身じろぎしたが、慎は殴り飛ばされなかった。久美子の口内は甘い餡の味がした。それを味わうように深く絡める。初め、戸惑っていた久美子の舌が微かに応える仕草を見せた。慎の胸がとどろく。久美子の身体から力が抜け、がくがくと震え始め、ふたりはそのまま畳の上に倒れこんだ。
早鐘を打っているのは慎のほうか久美子なのか。慎はそれを確認するように久美子の胸にそっと掌を当てた。慎の掌にすっぽり納まる小さな膨らみをTシャツの上から揉む。優しく柔らかく。何度も。直に触りたい。その時、久美子がどんな表情を見せるのか知りたい。慎は自分の欲がどんどん深くなるのを止められなかった。
久美子の唇を解放した慎の唇は、頬、耳、汗ばんだ首筋、と伝って肩口に落ちる。久美子の肩が震えていた。慎はそっと、久美子の表情を盗み見る。眉根を寄せて、戸惑うように視線を彷徨わせている久美子の顔が余計に慎の欲情を煽る。
慎はTシャツの裾から手を滑り込ませた。慎の手が素肌に触れたその時だけ久美子は抗う姿勢を見せたが強い抵抗ではなかった。慎は指の腹で滑らかな肌を堪能しながら背中の金具を探す。震える久美子を宥めるようにもう一度唇を重ねた。
慎の指が目的の物を探し当てた。
その時。


チャリラーりラりラーチャリラリー・・・


間の抜けた兄弟仁義のメロディーが部屋に鳴り響く。
固まったふたりの視線が発進もとの久美子の鞄に釘付けになる。
口を開いたのは久美子だった。鞄を見詰めたままで
「あの、沢田・・くん」
「・・・」
「ガッコーからだといけないので、電話に出てもいいでしょうか・・?」
「・・・」
慎はがっくりと項垂れたまま上半身を起こすと、降参とでも言う風に両手を挙げて久美子の上から身体を退けた。
久美子は相手に見えるわけでもないのに着衣の乱れを直して携帯電話を手にする。ご丁寧に正座までして。
慎は窓枠に腰を下ろした。見上げた空には久しぶりに青白い無数の光があった。
「はい、山口です。あっ、校長・・。・・・・えっ?そうなんですかっ。・・・はい・・・はい、すぐ行きます」
携帯を切った久美子が自分のほうに視線を向けたのは分かったが慎はそちらを見ない。「あの・・沢田君。ちょっとうちのクラスの奴が問題起こしやがったみたいなので、学校に戻ってもいい・・でしょうか?」
 ───何なんだよ、その喋り方は・・。
「・・ああ」
久美子はいそいそと帰り支度を始める。その嬉々とした様子が自分の腕から逃れられたことを心底喜んでいるようで癪に障る。
玄関まで行って久美子は佇んで何か言い淀んでいるような仕草を見せた。見送りに出た慎は頭をくしゃっと掻き上げるとようやくそこで久美子に視線を合わせる。久美子に八つ当たりしても仕方がないのだ。
「・・また連絡するよ」
たったそれだけの言葉なのに久美子の顔に安堵の表情がぱあっと広がる。慎はにやけた久美子の両頬を指で摘むと、
「そんなにへらへらしてっと、また猿渡に嫌味言われっぞ」
と諭した。久美子ははっとして
「そ、そうだな、ちょっとは神妙な顔して行かねえとな」
拳を握ると、よおしっ、と気合を入れてから「タクシー適当に拾うからここでいいよ」
手を振って階段を降りて行った。


慎は部屋に戻ると絶妙のタイミングで電話をかけて来た猿渡元教頭の飛び出した眼と、歯をむき出しにして笑う憎憎しい顔を頭に思い描いて拳に力を込めた。
 ───あんの野郎っ・・。今度会ったらぶっ飛ばすっ。
そのままベッドに倒れこむ。
そして思い出すのは先程の久美子の思っていたよりずっと柔らかく細い身体だ。
首筋の甘い香り。
初めて触れた背中の質感。
震える吐息。
応える唇。
もしかしたら自分には決して手に入れることができないかもしれない、とずっと思っていたもの。
 ───やっとつかまえた。
慎はそう確信してまぶたを閉じた。