GOKUSEN



歌うように 4.


竹串の刺さった薄桃色の肉の塊が黒く炭がかった網の上に乗せられる。ジュウッと音を立てて白い煙を吐き出したその横で、綺麗に焦げ目のついた四連の肉団子が取り上げられ、真っ黒なつやつやと光る液体の中に漬け込まれた。香ばしい醤油の匂いが嗅覚を刺激する。
「へいっ。ナマいっちょう」
慎は目の前のカウンターに差し出された白い泡の浮かんだ液体をちょっとだけ飲んで、携帯電話を開いて時間を確認する。待ち合わせの時間より少し早く来てしまった。今日、この焼き鳥屋を指定したのは久美子のほうだ。久美子はこの手の店を感心するくらいよく知っている。一体、いつ誰と来てんだよ、と思う。
洒落たビルの一角にあるとは思えないほど店内は古びた日本家屋風の造りになっていて、十名程度が座れるカウンターと奥にある座敷はまだ早い時間だというのに空いた席は僅かになっていた。


あれから、久村紀之とも大木真奈美とも顔をあわせていない。
あの日、図書館にいたのは十人足らずの、しかも全く見覚えのない人間ばかりだったにもかかわらず、久村と慎が派手に喧嘩をしていたと言う噂は瞬く間に広まってしまった。
「久村と女取り合ってんだって?」
とか
「お前、たちの悪い女にひっかかったってほんと?」
などと真面目に訊いてくる人間もいて慎はその度、勘弁してくれ、と思うのだった。
「お前の親父、政治家なんだって?」
と言われたときにはもう腹が立つと言うよりも呆れ果てた。どこからそんな話を仕入れてくるんだ、と思う。
そして慎が何より参っているのが自分に向けられる好奇の目だ。
最近の若者は他人に無関心でドライだなどという話は絶対嘘だ、と思わずにいられない。
外野がうるさい。どうかそっとしておいてくれ。平穏に暮らしたいと願っているのにどうしてこんなにいつもトラブルに巻き込まれるんだと不思議でならない。
慎はあの時の久村の言葉と、周りの干渉とがないまぜになった錘を抱えて、ほんの少し弱っている自分に気が付いていた。
 ───どっか遠くに行きてえよ・・。
勿論久美子を連れて、だ。
久美子の実家のことだとか自分の育ってきた環境のことだとか、そういうことを全く気にしないで生きて行けたらどんなに楽だろうかと思う。
久美子とならどこでだって暮らしていけそうだ。
たとえお金がなくったって逞しく生きていけそうな気がする。
ひとつのおかずを分け合って。歌うように。口笛を吹くように。
 ───だけどあいつのことだから、どこに行ったっておかしな事件に巻き込まれるんだよ、絶対だ。・・・どこに行ってもおんなじか。
そんなことを考えていると、白く煙った空気の向こうから久美子がこちらにやって来るのが見えた。
「お前来るの早いよ。今日は勝てると思ったのにさ」
「・・なんでも勝負にすんじゃねえよ」
いつものおさげに眼鏡という格好で白い歯を見せて慎の隣に腰掛けた。その笑顔を見ただけで慎は少しほっとする。
「お腹すいたあ。外寒かったからな、ビールより熱燗にしようかなあ」
久美子は慎のほうを向くと「何か食うもん注文した?」
「いや・・」
「なんだよ、お前、元気ないな。食欲ないの?」
慎の顔を覗き込む。
「ちげえよ。お前が来るの待ってたの」
「ふうん。・・あ、そういえば」
久美子は意味ありげに、にやりと笑うと「今さ、お前の友達に会ったんだぞ」
「友達?」
「クムラ君だよ。この前お前んとこに来てただろ?駅で出会ってここまで一緒に来たんだ」
慎は軽い眩暈を覚えた。久美子の口から久村の名前が出てくること自体信じられない。
「なに?あいつと話したの?」
「うん。お前が大学でどんなだとかそうゆう話」
「・・・」
「なんだよ、不機嫌な顔して。悪いことなんか全然言ってなかったぞ」
慎は久美子から眼を逸らした。久村の無神経な振る舞いが信じられなかった。
「よかったじゃないか。いい友達ができてさ」
何の疑いもない優しい響きを持った言い方に慎の胸が苦しくなる。慎は何も答えずに頬杖を突いてカウンターの向かい側の棚に並べられた色とりどりの酒の壜に視線を送っていた。
「それにさ」
久美子は嬉しそうに肘で慎の腕を突付いた。「この前会った時も綺麗だったけど、今日の格好も可愛いですね、とか言われちゃったぞ、おい」
何を呑気な、と思う。
 ───浮かれてる場合じゃないっつーの。あいつがお前のこと、なんて言ったか知ってんのかよ・・。
けれどそれを口にすることはできない。
「それにしても、おっとこ前だよなあ、クムラ君」
「・・・」
「なんか、ちょっと篠原さんに似てるよな?そう思わないか?」
「・・・」
「沢田?」
慎は少し下を向くとふっと笑った。
「なんでだよ・・」
「え?」
「なんでそこでシノハラが出てくるわけ?」
口元は笑っていたが慎の黒い虹彩には何も映っていない。「お前ってさ、おれと付き合ってても相変わらずあいつに惚れてんだよな」
「ちがうよ、あたしは・・」
「そんなにあいつがいいんなら俺なんかとこうしてないでさ、あいつのとこ行けば?」
口にした途端後悔した。なんて幼稚臭い子供染みた言葉を、と思うと羞恥心で顔が熱くなる。
言葉を失った久美子は唇を噛み、睫を震わせていた。今の久美子の表情を見ただけでも自分がどんな馬鹿げた台詞を彼女に投げつけたかが分かる。
「悪ぃ・・」
「さわだ・・」
慎は立ち上がるとさっと上着を掴んだ。
「ちょっと悪酔いしたみたいだから今日は帰るわ・・」
「悪酔いって、殆ど飲んでねえじゃねえか。・・・沢田っ」


店を出てすぐに久美子が追いついてきて慎の腕を捕らえる。両腕を掴んで慎の顔を食い入るように見詰めた。
「沢田、お前今日変だぞ。なんかあったんじゃねえのか?」
「たいしたことじゃねえよ・・」
「たいしたことじゃないって顔じゃねえぞ。話してみろよ」
「・・・」
慎はひたむきな一点の濁りもない久美子の瞳に吸い込まれそうになる。
けれど今回の出来事を久美子に話すわけにはいかない、と思っていた。知ったら傷付くだけではなく、きっと久美子は慎から離れていく。自分の存在が慎の邪魔になると察したら潔く身を引いてしまう。山口久美子とはそういう女だ。もしそんなことになったら自分はどうなるのだろう、と考えて慄然とした。そこには暗澹とした未来しか存在していない。それなのにあんな「あいつのとこ行けば?」などという言葉を自分から久美子に言い放つなんてどうかしている。
「なあ、こんな時の為にあたしはお前のそばにいるんじゃないのか?あたしはお前を助けたいし、力にもなりたい」
慎は久美子の言葉に少したじろぐ。
「・・俺はお前にそんなこと望んでねえよ」
久美子の瞳が揺れた。自分の大切にしてきた思いを否定されたかのように戸惑いを見せた。
「じゃあ、じゃあ何の為にあたしはお前と一緒にいるんだ?」
「そんなの・・っ」
 ───好きだからだよっ。決まってんじゃねえか。
他にどんな理由があると言うのか。
「なんだよ、ちゃんと言えよ」
「いや・・」
「沢田っ」
「・・とにかく」
「・・・」
「俺は今、頭を冷やしたい」
久美子の手を片方ずつ自分の腕から外した。
「さわ・・だ・・」
「さっきは悪かったよ。・・あんなの、全然本心じゃない」
「うん。わかってるよ」
どんなときも真っ直ぐに見詰めてくる久美子を不意に抱きしめたい衝動に駆られて、慎は伸ばした手を久美子の頬に当てた。ぺちぺち、と軽く叩く。
「そんな顔するなって。冷静になったらまた電話するよ」
わざと明るい調子で言った。
「・・・」
「じゃ、な」
慎はいつまでも久美子が自分の後ろ姿を見送っているのを承知していながら、一度も振り返らずに夜の喧騒の中を歩いた。
ただ好きで一緒にいたいだけなのに、どうしてこんなに物事はややこしい方向にばかり転がっていくのか。けれど、その原因の一端は自分にもあるな、と慎は笑いたくなった。幼稚でガキで肝心なところで旨く言葉が伝えられない。
今だって本当は抱きしめて、そのまま慎の部屋に連れて帰ってもよかったのだ。きっと久美子は拒絶しなかった。
「情けねえなあ・・」
慎は祈るように真っ暗な天を仰ぐ。吐き出した息が白く染まった。


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