GOKUSEN
歌うように 7.
つい先程まで澄んでいた筈の空は気が付くと濃い橙色に支配され、真っ赤に染まった丸い太陽は普段の3倍くらいの大きさに姿を変えて西の空に傾いていた。
久美子はもしかしたら今日は慎に会えないかもしれないな、と、圧倒されそうな程の寂寥感を覚えながら慎の部屋の前に蹲った。
「どこに行っちゃったんだろ・・」
合鍵を使って中に入ろうとは思いつきもしなかった。ただ、電話を掛けてみようかと何度か携帯電話を手にしたが、それすらも行動に移せないでいた。
昨日慎はあの同じ大学の女のコと一緒にいた。
自分の目にした光景に打ちのめされながら、けれど自分も篠原と偶然出会って一緒にいたことを考えると、慎もそうだったのかもしれないとそこに救いを見出そうとする。
こういうややこしい感情は本当に苦手なのだ。
両手に包み込んでいた使い捨てカイロを両頬に交互に当てて寒さを凌ぐ。
不意に小脇に抱えた鞄の中の携帯電話がメロディを奏でる。慎からかもしれない。そう思って慌てて取り出した。
待受け画面に沢田慎の名前を確認して安堵した久美子の視界に、出し抜けにその本人が現れた。
「さわだ・・」
久美子は驚いて立ち上がると「おかえり」
自然にそう言っていた。
慎は片眉を上げるとゆっくりと久美子に近づいてきた。
「ただいま・・・。って何やってんの?」
「沢田を待ってた」
「待ってた・・って」
慎は久美子の顔を見詰めると眉間にしわを寄せていきなり鼻をつまんだ。「お前、鼻、真っ赤だぞ」
「え?ほんと?」
「いつからここにいたんだよ」
「ん。ちょっと、前」
慎は久美子の嘘を見抜いたように呆れた顔をして部屋の扉を開けた。
「鍵は?」
「持ってる」
「持ってるんだったら使え」
「うん」
「何のために渡したと思ってるんだよ」
その言葉に慎の自分への気持ちに変化がなかったことを察して、安心する。
部屋に入ると久美子はいつもどおりにコートをハンガーに掛け桟に吊るした。この部屋に来るといつも漠然とした懐かしさに包まれるのだ。そしてその懐かしさは久美子を幸せにしてくれる。
台所で薬缶に水をいれている慎に近寄ると久美子はその細い腰に手を回して後ろから抱きついた。
「・・・なんだよ」
「へへ。沢田だな、と思って」
身体を離すと慎の横に立ってその顔を覗き込み、まじまじと観察した。「ふうん」
「・・・」
「この前は相当参ってるって顔してたけど、今日は随分落ち着いてるな」
「まあな。いつまでも落ち込んでられねえだろ?」
久美子は流しに背中を預けると、
「独りでなんでも解決するようになっちゃったんだなあ」
溜息混じりにそう言った。「なんかさ。寂しいよな」
慎は薬缶をコンロに掛けながら肩を竦めた。
「お前はさ、あたしにそんなこと望んでないって言ったけど、やっぱ力になってやりたいって言うか・・」
「人の世話やくのがお前の趣味みたいなもんだからな」
「なんだよ、ヒトゴトみたいな言いかたして」
久美子は思い切ってこの前から考えていたことを口にしてみた。「ちょっと、思ったんだけどさ」
「・・・」
「お前にはあたしはもう・・・必要ないんじゃないのか?」
「は?何言ってんの?」
「なんか、そんな気がした」
慎は大袈裟に溜息を落とすと
「なんでそんな風に考えんのかわかんねえけど。・・・俺はお前がいないと全然ダメだよ」
そう言った。
「へ?」
慎は何食わぬ顔でコーヒーを淹れる為のドリップとサーバーを用意する。久美子の呆けた視線などまるで眼中にないと言わんばかりの無表情さだ。
「全然ダメ?」
「・・・ああ」
「全然?」
「何回も訊き返すんじゃねえよ」
久美子は嬉しそうにへへへ、と笑うと、慎の髪の毛を両手でくしゃくしゃっと撫で回した。
「そっかあ。全然ダメかあ。可愛いやつだなお前」
「やめろ」
「あ、そうだ」
久美子は持って来た鞄から小振りの紙袋を取り出した。「クッキー作ってきたんだ」
「え」
瞬時に慎の顔色が変わる。
「あ、何だよ、その顔は。失礼なヤツだなあ」
「何?嫌がらせかよ?」
「ばっ、ばかっ。なんてこと言うんだよっ。そういうことはな、ちゃんと食べてみてから言えよっ」
久美子は食器棚代わりのカラーボックスの中から小皿を取り出すと、そこにクッキーを並べた。テーブルの前でにこにこして慎を手招きする。
慎は不承不承に腰を降ろしたもののなかなか手を出そうとしない。
久美子はそんな慎の態度にむっとしつつも拳を握って力説する。
「おいしいんだってば。作るのこれで2回目だし。テツとミノルにもちゃんと味見してもらったから大丈夫だって」
ばしっと、肩をはたく。
「あの人たちは、お前の作ったものならたとえまずくてもうまいって言うだろ」
「・・・いいからさっさと食え」
低い声で脅すと、慎は渋々と言う感じでアヒルを模ったクッキーを摘んで口に運ぶ。形は少々いびつなものの、色合いは焦げすぎず、生焼けでもなく、いい具合じゃないかと久美子は思った。
「あれ」
「どうだ?」
「・・うまい」
「だろお?」
久美子は勝ち誇ったように両手を腰に当てて胸を張った。
「・・ありえねえだろ」
「そこまで言うか」
久美子はがくっと肩を落とす。「川嶋先生に教えてもらったんだ。とにかくレシピどおりに作る。これが肝心だって」
「当たり前のことを威張って言うな。っつーか今まではそうしてなかったんだな」
どうりで。そう言うと慎はもう一枚クッキーを手に取った。
「あのさ、沢田」
久美子は急に居住まいを正すと「昨日の事なんだけど」
「・・・」
慎は久美子をちらっと見やったが何も言わなかった。
「ええと。・・篠原さんとは偶然出会っただけなんだ」
「・・・いいよ。別にあのひとと一緒にいたって」
「え?お、怒ってるのか?・・お前昨日すごく変な顔してたから気になっちゃって」
「変な顔?」
慎のポーカーフェイスが少しだけ崩れる。「俺、あれでも一生懸命笑ってたつもりなんだけど」
突然台所の薬缶がお湯が沸騰したと報せる笛を鳴らし始めた為、久美子は慎の言葉をよく聞き取ることができなかった。
「え?」
「いや、なんでもねえよ」
立ち上がった慎の後を久美子も慌てて追う。
「いい、ってなんだよ。あたしが篠原さんと一緒にいてもいいって言うのか?」
「ああ。この前は俺もどうかしてたし。気にしなくていいよ」
「なんで、なんでそんなこと言うんだよ」
お湯をフィルターに注ぐ慎の表情をどんなに見詰めても相変わらず久美子には何を考えているのか読み取れなかった。
「もうあたしのことなんかどうでもよくなっちゃったのか?」
「だから、そんなことないってさっきから言ってるだろ。お前、人の話聞いてんのかよ」
「だって・・・」
「気にならないって言ったら嘘になるけどさ。いいんだ。だってお前が今でもあのひとに憧れてんのは事実だろ?」
そう問われると言葉もなかった。「だから、さ。今までどおりでいいよ。フツーにのみに行ったり会ったりするのはかまわねえよ」
「だけど、あたしはいやだ。あたしは沢田が他のコと一緒にいるのなんていやだよ」
慎は少し驚いたような顔で久美子に視線を送った。
「・・へえ。そうなんだ」
「本当はいいと思ってたんだ。あたしは、ああいう家の人間だし。お前、まだ若いし。色んなコと付き合ったほうが沢田のためにはいいと思ってたんだ」
「なんだよ、それ」
慎の瞳に険が宿る。「いかにもお前の考えそうなことだよな」
皮肉っぽくそう言った。
「だけど、やっぱりお前が他のコと一緒にいるのを見るのは辛いよ。ここが苦しいんだ」
久美子は掌でトントンと、胸の真ん中を叩いた。「お前はそうじゃないのか?」
慎は顔を歪めて笑った。
「俺はお前が今言ったみたいに、俺のためとか言って俺から離れていくことのほうがよっぽど苦しいよ」
「沢田」
「言ったろ?俺はお前がいないと全然ダメなんだ」
そう言って向けられた慎の瞳はどこにこんな感情が隠れていたのかと思うほどの熱を帯びていて、久美子は戸惑う。
「俺は、お前が離れていくことが一番怖い」
慎の熱に炙られたように動けなくなった久美子の腕をとるともう一方の手をその首筋に当てて慎はそっと久美子の身体を抱き寄せた。
「さわだ・・・」
「お前を失うのが怖いんだ。」
その存在を確認するかのように慎の掌は久美子の首筋から背中へと恐る恐る這った。そして忽ち久美子の身体は慎の懐に深く抱き込まれる。
いつも何を考えているのか分からない冷めた顔の裏側にこんなにも自分へのひたむきな思いが潜んでいたのか。そう思うと、久美子の内側からも、もう抑えようのない慎への愛しさが込み上げてきた。
「馬鹿だな。あたしはどこにも行かないよ」
慎の背中に自分の腕を回してその鼓動に耳を傾ける。
「・・・」
「え?」
「・・好きだよ」
「・・・」
「俺は、お前が好きなんだ」
「・・うん。知ってる」
あたしも大好きだよ。そう口にした久美子は更に強く抱き締められた。
すっかり暗くなってしまった部屋で、今お湯を注いだばかりのコーヒーのこうばしい香りに酔いながら、久美子は慎の暖かい頬をこめかみに感じ、そしてそこに柔らかな唇がゆっくりと落ちてくるのを感じた。