GOKUSEN
夢のつづきのつづき
風呂場から出るとすでに慎は服を着終えて台所に立っていた。包丁を片手に久美子をちらっと見遣ったがその表情はいつもの何を考えているのか全く分からない沢田慎独特のポーカーフェイスに戻っている。
───うわあっ。全っ然可愛くねえっっ・・・。
久美子は心の中で毒突く。
台所には玉ねぎの鼻をつくような匂いが満ちていた。
「何してんだよ?」
「腹減ったろ?ご飯が冷蔵庫にあったからさ、炒飯作ってる」
「え」
久美子は近寄ると「炒飯作れんの?すごいな、沢田」
「炒飯ぐらい誰でも作れんの」
慎はフライパンを火に掛けると油を注いだ。久美子は目を丸くしてフライパンを回す慎の手元を覗き込む。
「だ、大丈夫なのか?料理の本とか見なくてもちゃんとできるのか?」
「毎日やってるとそんなもん見なくてもできるんだよ」
慎は邪魔臭そうに久美子を見ると「いいから、お前、早く服着ろよ。そんな格好でうろうろするな」
久美子はむっとして
「はいはい。・・・なんだよ。冷たいヤツだな」
「はい、は一回でいいの」
「・・・はい」
───ちぇっ。もういつもの沢田に戻っちゃってるよ。つまんないの。
久美子は台所から聞こえてくる玉ねぎとハムを炒める音に感心しながら衣服を身に着ける。鏡の前で髪を直していると直ぐに
「できたぞ」
と慎の声がした。
「え?もう?」
すごいな、さわだ、すごいよ、と大袈裟に褒めちぎりながら久美子は小さなガラステーブルの前に座った。
ハムと卵と玉ねぎだけのシンプルな炒飯だったが、レタスと胡瓜のサラダも副菜として添えられていた。
「沢田って、ちゃんと自炊してんだな」
「ここ最近だよ。しかも気が向いた時だけな」
それにしては慣れた手つきだったなと、久美子は感嘆する。
「いっただきまーす」
ひとくち食べると久美子は目を潤ませ
「おいしいよお、沢田。全然しょっぱくないし」
変に感動していた。
「なんだよ。もしかしてしょっぱい炒飯作ったことがあるのか?」
「へへ。実はそうなんだ。塩加減って難しいよな」
「毎日やってたら、このご飯の量ならこのくらいの塩、ってわかってくるようになるんだよ。お前みたいに普段テツさんやミノルさんに甘えてたら絶対無理だろうけどさ」
「へへへ。そりゃそうだな。万が一沢田と暮らすようなことがあったら料理は沢田の担当だな」
───万が一ってなんだよ・・・。
慎は少し逡巡して先程からずっと気になっていたことを口にした。
「なあ」
「うん?」
「大丈夫なのか?」
「何が?」
「もう、痛くねえの?」
やや心配そうな慎の表情にその質問の意味を察して久美子の顔が一気に赤らむ。
「う、うん。い、痛くない、こともないけど、大丈夫だよ。し、心配はいらない」
「そっか・・・」
───なんだよ、沢田。変なこと訊くなよ。恥ずかしいじゃないか。
久美子は気持ちを落ち着けようとお茶を口にした。
「あのさ」
「は、はいっ」
「俺、そろそろ三代目にお前と付き合ってることちゃんと話したいんだけど」
ぶっと音を立てて久美子がお茶を吹き出した。
「うわっ。何やってんだよ、お前」
「だ、だ、だ、だって、沢田が急に変なこと言い出すから」
慎は手元に置いてあった布巾でテーブルを拭くと
「変なこと、ってなんだよ」
「だって・・」
「お前がうちには来るな、とか言うからさ、俺、春くらいから全然三代目に会ってないんだぞ」
「あ、会わなくってもいいじゃんか」
「そういうこと言うのかよ」
慎はむっとしていた。
「恥ずかしいよ。やだよ。こんなことになったからって急にそんな・・・」
「ちげえよ。前から考えてたんだよ」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「お前の友達で女のコと付き合ってるからっていちいち家族に挨拶に行くようなヤツなんかいないだろ?」
「他のヤツは関係ねえだろ」
「もっとフツーにしろよ。なんかやなんだよ、責任感じられてるみたいでさ。もっとさ、フツーの若者らしく軽く考えろよ、軽く」
その言葉で慎は黙った。沈黙が流れる。
もしかして慎を怒らせてしまったかもしれない。慎の言うことは正論で少しも間違ってはいない。けれど久美子はまだ学生の慎に大人の真似事をさせたくはなかった。
久美子は慎の機嫌をとろうと作り笑いを浮かべる。
「ほんっと、おいしいよな、これ」
「・・・責任感じちゃいけねえのかよ」
「え」
「いや。・・・じゃあさ、あいつらには?」
慎は今日の熊井ラーメンでの出来事を思い出していた。いつまでも彼らに隠していたくはなかった。
「俺達のこと、もう話しても構わねえ?」
「え?クマたちに?」
「ああ」
「う、うん。恥ずかしいけどな。うん。友達だもんな。話したほうがいいよな」
久美子は少し考えると「あたしも藤山先生に言おう言おうと思ってるんだけど、なかなか言い出せなくてさ」
久美子は何かを思い出したようににやっと笑うと
「藤山先生あたしが今だにフリーだと思ってやたら合コン設定してくれちゃってさ」
「ふうん。合コン。楽しそうじゃん」
「ふふ。こないだなんかさ、・・・あっ」
久美子は慌てて片手を口元に当てる。
「合コンがなんだって?」
「いや。なんでもない、です」
再び沈黙が流れる。食べ終わった久美子は肩を小さく窄めたまま
「ごちそうさま」
そう言ってちらっと慎を見た。目を合わせた慎は
「何だよ、別に怒ってなんかねえよ。・・・送ってく」
そう言って立ち上がった。
───目が怖いんだよ、沢田、目が。
「うん」
閑静な住宅街に位地する慎のアパートは、こんな夜更けともなると本当に深閑としている。
その静寂な空気の中、空っぽになった皿を流しに運ぶ慎の後ろ姿を見つめながら、コートを羽織った久美子は今までに経験したことのないような別れ難さを感じていた。
───帰りたくないな・・・。
慎はどうなのだろうか。同じような思いを抱いてくれているだろうか。慎は久美子の気持ちには気付かずにいつもの無表情な顔つきでさっさと上着の袖に腕を通している。
久美子は名残り惜しい思いを胸に留めて靴を履くと慎が来るのをそこに佇んで待った。慎が部屋の灯りを消し、それを確認した久美子が玄関のドアを開ける。ドアノブに掛けたその手を、背後から伸びてきた慎のそれが止めた。
「沢田?」
あっと思う間もなく久美子は後ろから慎の着ているコートに包まれた。そのままぎゅっと抱きしめられる。
「な、何?沢田、だめだよ。もう帰らなくちゃ」
「わかってるよ」
慎は久美子の耳元に自分の頬を寄せると、低い声で言った。「お前さ、俺がまだ大学生だからって軽く、とか言うなよ」
「・・・」
「言っとくけど、俺、軽く付き合うつもりなんか全くねえからな」
「沢田・・・」
「お前はそんな気持ちで俺と付き合ってんの?そんなんで今日みたいなことができんの?」
「ち、ちがうよ。沢田。そんなつもりで言ったんじゃない」
久美子は身体の向きを変えると慎の顔を見詰めた。暗闇の中、潤んだ瞳は泣いているようにさえ見えた。
「ごめん、沢田」
「・・・」
「あたしはただ、沢田に負担をかけたくないだけなんだ。あたしが年上だからってお前に無理なんかさせたくない」
「何だよ、負担とか無理とか。俺はそんなこと思ってねえんだよ。勝手に決めつけんな」
「だけど、あたしもこれだけは譲れないよ」
慎は険阻な顔付きで目を細めた。
久美子は慎の機嫌をとろうと笑ってみせた。
「そんなに怒るなって」
宥めるように慎の頭をわしゃわしゃと撫でると「まあ、そんな沢田も可愛いけどさ」
そう言って慎の両頬を掌で包み込むとちゅっと音を立てて口付けた。
にんまりと笑って離そうとした鼻先を慎のほうからもう一度寄せてくる。
「だめだって、さわ・・・」
「コドモ扱いすんな」
「え」
逃れようとしたが後頭部を掌で固定され唇を強く押し当てられた。
───しまった。
馬鹿な真似をしたと後悔したが遅かった。
唇を割って侵入してきた慎の舌が久美子の唇の裏側をなぞる。
仕掛けたのは自分のほうなのに防御の態勢をとるのに出遅れた久美子は驚き後退る。
慎は抗おうとする久美子を乱暴な仕草でドアに押し付けるとセーターの裾から右手を滑り込ませ、胸の膨らみを覆う下着の裾さえ無理矢理押し上げその先端を指で刺激し始めた。
久美子は身体の内側から湧いてくる今日覚えたばかりの快い感覚に思わず声を上げそうになるが、舌を深く絡めとられそれすらもままならない。
慎の細い身体など簡単に押し退けられると思っていたのに、行き場のない快感に腰が抜けたようになって腕に力が入らない。久美子は愕然とした。
久美子の抵抗を塞いだ慎は当然だと言わんばかりに舌と指で刺激を与え続ける。久美子は握った拳で慎の胸を思い切り激しく叩いた。それでも慎は止めない。
息が苦しい。
殆ど酸欠に近い状態でありながら漏れる息は次第に甘さを増している。耳につく自分の吐息が久美子を余計混乱させていた。ふたりの荒々しい息遣いと、力任せに抵抗し合う身体の擦れ合う音だけが灯りの落とされた密やかな部屋に響いていた。
───くやしい。
六歳も年下なのに。
元教え子のくせに。
たった今可愛いと告げられたばかりの年下の男は、大人の余裕を見せた女を嘲笑うかのようにその身体を意のままに弄んでいる。
息苦しさから久美子の目尻にうっすらと涙が滲んできた。
久美子は膝にさえ力が入らなくなり、とうとう立っていられなくなってずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。それでこの戦いの勝敗は決まった。
慎の唇から解放された久美子はひとつ大きな息を吐くと涙目で慎を睨みつけた。
「何すんだよっ、ばかっ」
力の入らない拳で慎の脚を殴る。
久美子を見下ろす慎の顔には得意満面な憎らしいとさえ思える勝者の笑みが浮かんでいた。
「何だよ、大人ぶってたくせに、だっらしねえな」
へたり込んだ久美子にそう言ってトドメを刺すと、慎は今し方とは対照的な優しい物腰で両手を差し伸べ、脱力したその身体をそっと抱え上げた。