GOKUSEN
卒業までに 2.
久しぶりにやって来た大江戸一家の三和土に下駄や草履以外の見慣れない男物のスニーカーを認めて慎は一瞬戸惑う。濃い灰色の有名スポーツメーカーのスニーカーだった。この家にこんな靴を履く人間がいただろうか。
「よう。慎の字。よく来たな」
若松に出迎えられて慎は笑顔で会釈をした。世間一般の人がこういう家業をどう思っているのか知らないわけではないが、慎はこの家の人たちが好きだった。
若松は慎の顔をじっと見ると
「お嬢の言ったとおりだ。顔色がよくねえなあ。勉強も大ぇ事だが、お前ぇ、食うもん食わねえと身体が参っちまうだろ。病気にでもなったらお受験にひびくってえもんだ」
そう言って慎の肩に手を回した。
───お受験?
若松の口から出てきたあまりにも不似合いな言葉に笑いながら言い返そうとした慎の耳に
「よ、慎」
思いもかけない人間の声が飛び込んできた。
いつも食事をする部屋の、いつも慎が座る縁側に近い席に、いつも慎がそうするように寛いだ姿の黒崎が座っていたのだ。
自己主張のように染められていた金色の髪は柔らかな栗色に変わり、黒いセーターに色の褪せたジーパンを履いていた。研ぎ澄まされた刃の先端のように尖っていた頃の名残りを目元にだけ微かに浮かべていたが、その雰囲気は穏やかなものだった。
慎は刹那言葉を失うが、すぐにいつものように皮肉っぽい笑顔を浮かべて
「クロ。久しぶり」
そして黒崎の横に座る龍一郎に頭を下げた。「お久しぶりです」
「堅っ苦しい挨拶はいいから、さ、そこに座んな」
龍一郎は久方ぶりに会う慎に嬉しそうに目を細めて微笑むと自分の正面に座らせた。
そうか。そういうことか。今日自分が呼ばれた本当の理由をぼんやりと理解して、慎の喉に苦いものが込み上げてきた。
「お、沢田、来てたのか?」
背後から現れた久美子は眼鏡を外し、いつもこの家でそうするようにサイドの髪を頭のてっぺんで結わえていた。当たり前のように慎の横に腰を降ろす。
「へへ。黒崎がいてびっくりしただろ。会いたかったよう、とか言って抱き合ったりしたか?」
「するかよ」
「なんだ、しないのか」
「何ヶ月ぶりだっけ?」
黒崎が慎に問う。あの事件のあと二度ばかり会ったが、それ以降は連絡を取り合っていない。慎は受験勉強に力を入れ始めた時期だったし、黒崎も仕事を探し始めたばかりで忙しいようだった。
「半年ぐらいかな」
慎は考えながら答える。
着々と座卓の上に今夜の夕餉の仕度がテツとミノルによって為されるのを見て
「山口は何にもしねえの?」
黒崎が鎮座した久美子に不思議そうに訊く。
───やまぐち・・・。
そうか、そう呼んでるのか。たったそれだけのことなのに、黒崎の口から出てきた初めて聞く言葉に慎の心がざわめく。
「お嬢はいいんですよ、座ってらして」
テツが答えた。
「甘えてんなあ・・・」
黒崎の非難めいた言葉の中に親しみが込められているのを慎は聞き逃さなかった。胸が鷲掴みにされたように苦しい。いつの間にふたりの距離はそんなに縮んでいったのか。
「沢田」
「あ?」
「お前なんでここに黒崎がいるのか訊かないんだよ。びっくりしてないの?」
「・・・なんでいるんだよ?」
抑揚なく言われたとおりに訊ねるとぷっと同時にふたりが吹き出した。
「慎、変わってねえなあ」
面白そうに笑う黒崎の左頬に浮き出るえくぼを見詰めながら
───お前が変わりすぎなんだよ。
慎は心の中でそう呟いた。
「今働いてるとこ、っつっても凄く小せえ会社なんだけど、そこの社長が信じらんないくらいいい人でさ。俺みたいな人間にもすっげえ優しいし、仕事も任せてくれんのよ。なんか、この人の信頼だけは裏切られねえなあって思ってさ」
鍋を囲みながら滔々と黒崎が語るのを黙ってみんなで聞く。「人って、無条件に信頼されてると、絶対悪いことなんかできねえんだなって思うよ」
龍一郎が黒崎の言葉に何度も頷く。
「だけどさ、あの時のことがなかったら、俺、社長にどんなに優しくされても素直に受け入れられなかったかもしれない」
黒崎は慎と久美子に目線を向けると、「慎と山口と、うっちーにはほんとに感謝してるよ」
「お嬢。ほんとに立派な先生さんになられやしたねえ・・」
若松が涙ぐむ。
「信頼に応えるのも大ぇ変だが、無条件に人を信じるってえのもなかなかできるもんじゃあねえよ。お前ぇさんを雇ってくれてる社長さんってえのは、ほんとに人間ができてるんだろうなあ・・・」
龍一郎が感心したように言う。「いいひとに巡り合えてよかったじゃねえか、なあ」
「そうですね」
黒崎がしみじみと答える。
───そうですね?
慎はその言葉を信じられない思いで聞いていた。黒崎が他人に、しかも大人と呼べる人間に対してそんな言葉を発したことがかつてあったろうか。
ここへ来てからずっと感じていた違和感。慎は黒崎の変化をいまだ自分の中で消化できないでいた。
───てめえ誰よりも大人憎んでたんじゃねえのかよ───
───センコーなんか最低の人種だって、てめえが散々俺に言ってた台詞だろうがよ───
───いつの間に学校の犬みたいに成り下がってんだよ───
蔑みの感情を隠そうともしないで吐き出すように投げつけられた言葉。あのときの黒崎も今の慎と同じ気持ちだったのだろうか。ふとそんなことを思い出していた。
「そこの社長さんがさ、高校卒業の資格だけは取っておいたほうがいいって言ってくれたんだって」
「通信教育なんだけどさ・・」
その為に単位取得の証明が要る。それで久美子に連絡を取ったのだと黒崎は説明した。
「他のセンコーには頼みづらくってさ」
「そうか・・・」
「だから、今日はそのお祝いだ、な」
そう言って久美子はビールの入ったグラスを口にする。「で、ここのとこ元気のない沢田にも景気付けに来てもらったんだ」
「俺はついでか」
なるべく棘のないように言う。
「そうじゃないよ」
久美子は慌てたように言った後、にやっと笑うと慎の腕をちょんちょんと突付いて「あ、お前、さてはちょっと妬いてんなあ」
「妬いてねえよ」
「嘘つけ。可愛いヤツだなあ。この、この」
そう言って慎の頭を撫でまわした。
「やめろ」
「沢田は勉強しすぎだ。合格圏内には充分はいってるんだから、もうそんなに根詰めなくてもいいだろ」
ほら、もっと食え、と言いながら久美子が慎の茶碗に白菜と椎茸と豚肉を入れた。
「勉強しすぎって、センセイが言うかよ。フツーはもっと勉強しろって言うんじゃねえの」
黒崎も久美子の言葉に苦笑している。
「落ちたくねえんだよ、俺は」
「お前って、そんなやつじゃなかっただろ?何をそんなに焦ってるんだよ」
「やんくみ」
慎はなんだか腹立たしいような気持ちになった。「お前そう言うけどさ、ひとりでも多く大学に合格したほうが担任としてはいいんじゃねえのかよ。教頭にだって嫌味言われなくてすむだろ?一体・・・」
───誰のために勉強してると思ってるんだ。
そう口にしようとした自分に慎は愕然とする。飲み込んだ言葉が喉の入り口に痞えてむせ返りそうになった。
自分の中に潜在していた思いに驚いて目を見開いた慎と、わけも分からずきょとんとしている久美子はしばし視線をぶつけ合った。
「なに?なんだよ、沢田」
「・・・いや、なんでもねえよ」
久美子は気付いていない。
自分の言おうとした言葉を龍一郎と黒崎は察しただろうか。慎は久美子から視線をはずすと黙々と箸を動かし始めた。あまりにも幼稚な考えを持っていた自分が恥ずかしくて顔を上げることができない。羞恥と自己嫌悪でいっぱいいっぱいだった。
「沢田、言いたいことがあったらちゃんと口に出したほうがいいぞ」
「ああ・・・」
「変なヤツだな」
久美子は肩を竦めると「教頭と言えばさ、今日散々嫌味言われたよ」
その言葉に慎はつい敏感に反応してしまう。
「何?またあいつになにか言われたのか?」
「う、うん」
久美子は慎の勢いにちょっと怯む。「沢田、そんなに心配しなくても大丈夫だって」
そう言って笑う。
「心配なんかしてねえよ・・」
「ふふ。やっぱり沢田は可愛いなあ」
「で?何言われたんだよ」
「あたしが生徒とふたりきりで会ってるって噂があるとかなんとか・・・」
野菜を鍋に入れようとしていたテツの箸が止まる。そのままぴくりとも動かない。
───ああ、とうとうそんな噂になって教頭の耳に入ったのか・・・。
「全くのデタラメです、って言っといたんだけどさ。軽はずみな行動はしないで下さい、って延々しぼられたよ」
久美子は小首を傾げると「そういえばさっき電話で内山にうちに来ないかって誘った時も、おんなじようなこと訊かれたな・・・」
「・・・うっちーも誘ったのか?」
慎は心の内の動揺を巧妙に隠しながら訊く。
「うん。黒崎に会いたいんじゃないかと思ってさ。今日は母親と約束があるからダメだって断られたけど」
慎はあっけらかんとした久美子の言葉をどこか遠くに聞きながら、今日の放課後、自分は生徒の中でも久美子に一番近い位置にいるのではないかと考えた自分を思い出してそっと嘲笑していた。
ただ、自分でも思いがけないことだったが、今の久美子の言葉は慎に失望よりも達観を与えた。ずっと張り詰めていた気持ちが緩んですうっと肩からいらない力が抜け落ちていった。そんな気さえしていた。
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