GOKUSEN



アタシノイイヒト


慎は窓際の席に座った自分を少し後悔していた。
ぴかぴかに磨き上げられたガラスの向こうに見える白いセダンの助手席から降りてきた女は、運転席のほうに何度も何度も頭を下げ、車が去った後も大きく手を振っている。
満面の笑みで。


「・・なんだ?お前機嫌悪いの?」
髪を耳の下で二つに結わえた女は、「ごめんごめん5分遅刻だ許してくれ」
謝りながら席に着いた自分を見ようともしない男の顔色を窺う。
「別に・・」
慎が目を合わせると久美子はへへへ、と幸せそうに笑った。
「いやっ、校長の話が長くってさ。走って学校飛び出したらちょうど篠原さんに出会ってここまで送ってもらっちゃったんだ」
終わりのほうはかなり声のトーンが上がっている。
  ───そうなのか。で、なんでそんな嬉しそうなの、お前。
「・・ふうん」
「おかげで5分遅れただけですんだぞ、沢田」
「遅刻は遅刻だ」
久美子の出したブイサインは宙に浮いた形となった。遅刻魔だったお前にそんなこと言われるなんてなあ、と溜め息混じりに呟きながら久美子はその手をメニューに伸ばす。
「映画始まるまでどれくらい時間ある?」
「なに?腹減ってんの?飯食う時間なんかねえよ。終わってからにしろ」
「えーっ」
言いながらもメニューから顔を上げない女の眼鏡の縁が窓から入る光に反射する。
その橙色の光に目を細めながら慎はこの前の夜のことを思い出していた。
目の前の女を他人に紹介するとしたら、どう説明する?恩師?元担任?
いや違うだろう。おそらく・・。まだ好きだとも言ってないし、相手の気持ちもきちんと聞いてはいない。けれど今日映画に誘った時のこいつの反応はいつもと違っていた。これまでだったら「なんだよ、あたしなんか誘ってないで同じ大学のカワイコちゃんにでも声掛けろよ」だの「なに?お前何かあたしに頼みごとでもあるのか?」だの、まともにデートに辿りつく事も儘ならなかったが。そこまで思って、やはり慎の脳裏にはこの前の夜のことが甦る。
「お前、なにニヤニヤしてんだよ。気持ち悪いぞ」
久美子の少し冷めたような声で現実に引き戻された。
 ───ニヤニヤっ・・て俺が?
「なんでもねえよ」
頬をいつものポーカーフェイス仕様に引き締め、ぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。
「あたしもコーヒー」
お腹を満たすことは諦めたのか通りすがりのウエイトレスに久美子は声を掛けた。
注文を手持ちの機会に入力したミニスカートの女が去った後、久美子は不自然にキョロキョロと店内を見回した。その様は明らかに挙動不審だ。
「なに?」
「うちの奴らが来てんじゃないかと思ってさ」
声まで潜めて。
うちの奴らとは白金学院の生徒のことか。そういえば自分たちもよくこのファミレスに来たな、と慎は昔を思った。
「見られるとまずい?」
「いや、まずくはないけどさ・・」
口篭る久美子に、慎は先程自分の頭に浮かんだ疑問を目の前の女にも差し出したくなった。
「いたらどう説明するんだ?俺のこと」
「え?」
「なんて言うんだよ?」
「そ、そりゃ、お前」
久美子は必要以上にその小さな胸を張った。「アタシノイイヒト、だよ。決まってんだろ」
「ぶっ」
慎は一度口に入れたコーヒーを不覚にも吹き出してしまった。
「うわっ、きったねえなあ、お前」
慌てて隅にあった紙ナフキンでテーブルを拭き始めた久美子の手がすぐに止まる。
はっ、としたように真ん丸い目を見開いて慎の顔を見詰め、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ、えっ?違うのかっ?」
明らかに自分の勘違いに気付いて狼狽えているといった風だ。
その顔は見る見る半泣きの表情になる。慎は慌てて否定した。
「違わねえよ。違わねえけどさ・・」
なんか他に言い方あんだろ、慎は小さく言いながら口を拭う。そんな言葉教師の口から聞かされたら生徒がヒクだろ。まあ"イロ"とか言われるよりはマシか・・。
「だけど、あれだな」
久美子は腕を組み小首を傾げた。「お前が卒業生だってこと知ってる奴も何人かいるからな。今の言い方はまずいよな、やっぱり」
  ───今頃気付いたの、お前。
「当たり前だ。馬鹿」


「こんな時間なのにまだ空が明るいぞ」
店を出た久美子が空を見上げながら言う。
「もう夏だからな」
慎は歩きながら腕時計を見る。
  ───映画が終わる頃には9時を回ってるな。
「映画終わったら呑みにいこうぜ」
「おっ、いいねえ。居酒屋だ居酒屋に行こうっ」
振り返ると久美子は嬉しそうに右手を振り上げ慎を追い越して行った。
  ───居酒屋ねえ。どこまでも色気のねえ女。
久美子の浮かれた後ろ姿を見ながら思う。溜息を落としながらも慎は自分の口元が緩みそうになるのを抑えられなかった。
アタシノイイヒト。
慎は口元を無理矢理引き上げ、それを確認してから前を歩く女へと近付いて行った。