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彼女の機嫌の治し方


6畳2間の和室に3.5畳のキッチン。バス、トイレ付き。玄関は西側。2間続きの和室の窓は南向きで、夏は一日中蒸し風呂のように暑い。そのくせ冬は隙間風が入り込んで来るので、寝てる時ですら暖房を必要としたくなるほど寒いのだ。築年数は慎の歳よりはるかに多くて部分的にリフォームされている。最寄りの地下鉄駅より徒歩約40分。とても条件がいいとは言えないこの物件を、慎は結構気に入っていた。
広い割りに家賃が安いこと。住宅街なので夜はひっそりと静かなこと。そして何より、久美子の家まで歩いて20分程度で行けること。
1年半前日本に戻って来た時少しだけ実家で暮らしてみたが結局アパートを借りることにした。少しは理解し合えるようになったとは言え、例え親子でもやはり合わないものは合わないのだと短い期間に悟ってしまったのだ。離れている方が上手くやっていける、そう思った。
高校生の時に住んでいたマンションとはえらく趣きが違うが、今の自分にはこんな感じが丁度いい。


その慎の部屋にやって来て先程から重く暗い空気を纏っているのは山口久美子その人だ。学校帰りに来たらしく、ふたつに分けた髪を耳の下でまとめている。
「ちょっと寄ってっていいかな?」
10分前に突然アパートの前から電話を掛けて来たその声はいつになく元気がなかった。ここのところ久美子のクラスで何か揉め事があったということで暫く会うことができなった慎は、こんな風に久美子が不意に訪れてくれることが嬉しい。顔にも態度にも出さないのだけれど。やっぱりここを住処にしたのは正解だったと思う。
部屋に入って来た久美子は奥の部屋の机の上に広げられたノートやら分厚い辞書やらを見て、
「いい、いい。お前は勉強してろ」
コーヒーを淹れようとキッチンに立った慎を追いやって、だからといって自分がそうするわけでもなく、隣の部屋でただぼうっと膝を抱えて溜息を落としている。ここにやって来てからずっとそのままの姿勢だ。
慎は再び立ち上がるとまたキッチンに向かった。久美子は今度は何も言わなかった。
「お前、暗ぇよ」
小さな、脚の短いテーブルにコーヒーの入ったマグカップを置く。「まだなんか揉めてんの?」
「いや、もう解決した。だけどさ・・」
久美子は膝に顔を埋めた。「結局解決したのはあいつら自身で、あたしは何の役にも立たなかったんだよなあ」
「それでいいんじゃねえの?お前いつも言ってただろ。自分らのことは自分らでって」
慎は不思議で仕方がない。何事か起こってるその最中はやけに威勢がよくて肝が据わって見える久美子だが、事が解決すると途端に落ち込んで傍から見るとたいしたことないんじゃないのと言いたくなるような事をくよくよといつまでも引き摺る。
付き合い始めてからわかった事だが案外気の小さいところもあって、教室に入る前は必ず「ファイト、オー」と気合を入れる話や、なかなか心を開かない生徒に明るく話しかけても冷たくあしらわれた時はもうそのまま家に帰っちゃおうかと思うくらい落ち込むという話を聞くと、慎は本当に居心地が悪くなるのだった。しかし、土壇場での度胸の据わり方は並みの男たちよりもはるかに上で、やはりそれは血筋の成せる技なのだろうかと慎は考える。
「お前さ、俺んとこ来るまでは、こういう話誰にしてたんだよ?三代目?」
「うん。殆どおじいちゃんかな」
ここで久美子は今日初めての笑顔を見せた。まだ薄い笑いではあったが。
「後は、テツとミノルに八つ当たりしたり」
「気の毒だな」
「川嶋先生たちとお酒飲んで騒いだり」
「・・たち・・」
「そんなとこだな」
「ふうん」
「新任の頃はホント大変だったよなあ」
久美子は言うと膝を伸ばして両手を畳に置いた。「すんごい目つきの悪い生徒がいてさ。遅刻はする、早退はする、授業はフケる、ケンカはする、合格した大学には行かないって言い出すし・・」
「うっせぇよ」
「ま、それが今はこうして普通の大学生になってんだから。あいつらもなんとかなるんだろうけど・・」
慎は口の端で笑うと、マグカップをその口元に運んだ。
久美子は再び膝を抱え込むと
「あいつがなあ・・」
と、溜息のように呟いた。
「あいつ?」
「お前覚えてる?去年学校に来た時に会ってると思うんだけど、森田っていただろ?」
「ああ」
あいつか、と心の中でその生徒の顔を思い浮かべる。慎は去年帰国した時に進路の相談や卒業証明書のことやらで何度か白金学院に足を運んでいる。その時、いつも久美子の傍にいた少年。面長の顔に細く上がった眉。それとは対照的に目じりは下がっていて可愛らしい印象を人に与える茶色い瞳。明るい色に染められた癖のない髪。第一印象は悪くなかったのだが、口を開けば慎に攻撃的な言葉を投げ突けていたのを思い出す。
「そいつがどうかしたのか?」
「お前と一緒でさ、頭のいい奴なんだけどちょっと情緒不安定っていうか。いつもはすごく協力的でクラスのみんなを引っぱってってくれるのに時々ひどく反抗的になってさ。手を焼いてる」
「へえ」
抑揚のない声で答えながら慎は一抹の不安を覚える。
「何考えてんのか全然わかんねえよ。最近の若いモンは・・」
「ばばくせえ」
「ばばあって言うなっ」
久美子は人差し指を慎に向けると「まだ26だっ。お花で例えるなら蕾だよ」
「お前、自分を花で例えるな。図々しい」
「むっかー。失礼な奴だなあ」
慎は久美子の反撃を聞き流しながら、自分の高校時代と今の森田少年の気持ちを考える。
好きなのだ。久美子のことを。
けれど思いは伝わらなくて、生徒であるが故に傍に居られるのに、そうであるがために恋愛の対象として見て貰うこともできない。時折、このままでいいと思ったり、またすぐにこの状況を変えたいと思ったり。あの頃はそういう裏腹な思いがいつも胸の中で交錯していた。森田少年もきっとそうなのだろう。ただ、それを慎は表に出すことなはなかったが、森田少年はそれができないでいるのかもしれない。
 ───それにしても相変わらず鈍いよな、お前。
慎はぷっと膨れた久美子の横顔を見詰める。
可愛い、と思う。照れくさくて絶対口に出して言ったりしないのだけれど。

できることなら。
自分のことだけ見ていて欲しいと思う。学校のことも、家のことも、自分以外のものには目を向けないで。他の誰のことも考えて欲しくない。ここに閉じ込めてずっと抱きしめていたいと思う。好きなように扱ってみたいと思う。
他人の為に一生懸命になれる一途さに魅かれたのに。
「おい」
慎が低く呼ぶとちらりと怒ったような視線を向ける。
膨れた頬に片手を添えると顔を近付けた。いつもとは違う、優しく温かい包み込むようなくちづけをおくる。
顔を離すと久美子は頬を赤らめ、白い歯を見せて笑った。子供のように邪気のない笑顔だ。
 ───お前なあ。こういうとき、そういう顔するんじゃねえよ。これ以上なんもできなくなるだろうが。
慎はその幸せいっぱいの顔から視線を逸らすと
「晩飯、どうする?食ってくか?」
と、そっけなく訊いた。
「いや、今日は帰るよ。お前もお勉強大変そうだから邪魔しちゃ悪いし。それに」
久美子はさばさばした顔で立ち上がると「なんか、今ので元気出てきたし」
「単純だな・・」
「へへへ。そう。もともと単純なんだ」
そう言うと、マグカップを流しに置いて自分の鞄を肩に掛けると、じゃあな、と軽い挨拶ひとつで部屋を後にした。機嫌がよくなってから3分と経たない早業だ。
単純この上ない女だと思ってはいたが・・。
「なんなんだ、あいつは。何しに来たんだよ・・」
残された慎の独り言だけが寂しく部屋に響いていた。