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第三章 デ・イ・ト  3.
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 佐藤君との初デートは、結局佐藤君の仕事がたくさんはいってしまい、4月30日の日曜日しか空いてなくて自動的にその日となった。

 

 しおりちゃんは妙に鼻が利く。と、あたしは思うんだ。

「かーれーんちゃーん」

 リビングのソファに座り携帯電話相手ににやにやしてたら、しおりちゃんがしなだれかかってきた。液晶画面を覗き込もうとする。うぎゃぎゃ。咄嗟に手を高く上げ、ぱちんとそれを閉じた。

「な、なに? しおりちゃん…」

気持ち悪いよ?

「気持ち悪いってね。かれん」

しおりちゃんは居住まいを正すと、「あんた、最近ちょっと変」

真面目な顔でそう言われた。

「え」

 どきっとする。しおりちゃんの目が再び三日月形になった。ほんっと、気持ち悪いってば。

「ケータイ買ったかと思ったらにやにやしながらいっつもそれ、手にしてるし。足元ふわふわして心ここにあらずだし。─── ねえ、まさかとは思うけど、ひょっとしてカレシでもできた?」

「……」

 ん? ひょっとして?

 今、なんていうか、ビミョウに失礼なことを言われたような…。

 考えながらも自然顔が赤くなっていた。

「ど、ど、どうして?」

「どうしてって。え? まじで?」

しおりちゃんの目が大きく見開かれた。「ほんとに? ほんとに、かれん、カレシができたの?」

 あたしは顔をさらに赤くすると、唇は閉じたままでぶんぶんと右手を顔の前で振った。唇を開くことなんかできなかった。開けば尻尾を掴まれてしまいそうだから。しおりちゃんはそういうひとなのだ。抜け目無い。

「うっそ…」

 しおりちゃんは呟くみたいに言う。すんごく衝撃を受けてる顔に見える。

 ─── なんでだ?

「ち、ちがうって、ちがうって言ってるじゃん」

 あたしは、キッチンのほうを窺いながら強く否定した。今までになく混乱していた。キッチンには母がいる。換気扇の音に掻き消されて、多分こちらの声は聞こえていないだろうとは思うけど。

 まだ佐藤君とのことは家族の誰にも知られたくなかった。

「へえ…。かれんにカレシがねえ。へえー」

「ちがうって言ってるのにいっ。ちゃんと聞いてよ、しおりちゃんのばかっ」

 しおりちゃんは聞いちゃいない状態だった。

 ソファに深く座り直すと両腕を組んで考え込んでいる仕草を作った。

「あたしにカレシができたのだって高二だよ。ちょっと早いよね」

 芝居がかった難しい顔をしている。

「だから…ちがうって…」

 段々こちらの声は小さくなっていく。嘘をずっと言い張るのって難しい。

 そのとき、

「ただいまあー」

と、玄関から異様に大きな声がした。うぎゃー。ひかるちゃんだっ。

 やだやだやだやだ。

「し、しおりちゃん…」

「なあに? かれん」

 しおりちゃんの目がまた三日月形になっているけどもうそんなことどうでもよかった。

「お願い。今の話、ひかるちゃんには言わないで」

「今の話? ─── ああ。かれんにカレシができたって話ね」

 あたしはこくこくと頷いた。

「ただいま」

 背後からひかるちゃんの明朗な声が響いた。ひかるちゃんは体育会系の女のコ。元気がいいのだ。

「何? 何の話してんの。しおりちゃん、すっごく、楽しそうな顔してるけど」

 あたしの背中がぴくりと揺れた。

 ひひ、と。しおりちゃんが美女にあるまじき笑いを洩らす。

 がーん。

「あのさ、ひかるちゃん」

 しおりちゃん…。

 しおりちゃんの得意げな声があたしの頭越しに響いた。

「かれんにね。カレシができたんだって」

 これだよ─── 。



 五分後。

 あたしたちは部屋を移動していた。リビングからひかるちゃんの部屋へ。

 母には佐藤君とのことを知られたくなかったから。あたしからそうしようと提案した。さっき、リビングで、

「うっそー。まっじー」

って、ひかるちゃんったら、すんごい素っ頓狂な声を上げるから、もう心臓がひび割れちゃうかと思ったよ。ほんと。

 でも、両親に知られちゃうのも時間の問題かな、と諦めはついている。だって、このふたりが黙ってるなんてとても思えないもん。

 ひかるちゃんは制服を脱ぎ散らかすと、テキトーにそのへんに投げてある長Tと、ウエストにゴムの入った家でしか決して穿けないようなパンツを身につけた。しかも、あたしの話が早く聞きたいからなのか、もうそれはそれは猛烈な勢いで着換えるもんだから、パンツのゴムの部分に長Tの裾が半分くらい入っちゃってるの。でも、気にしない。

 ひかるちゃんの部屋は男のコの部屋みたいだ。どこでどうやって手に入れたのか、詳しく聞くのが怖いんだけど、中村俊輔のスポーツ飲料のポスターが二枚も壁に貼ってある。

 着換えた勢いでショートの髪がつんつんと跳ねたままのひかるちゃんの目がきらきら輝いていた。真っ直ぐこちらに向っている。男のコみたいなくせに、あたしの恋愛話に興味があるのか? と、ちょっと違和感を覚える。やっぱ、あんた、女のコなんだねえと、一瞬だけ姉としての感慨に耽ったりもした。

「誰? 誰? 誰? あたしの知ってるひと? ねえ、どんなひと?」

「……」

「ひかる。そんなことより、どこまでふたりの関係がすすんでるのか、そっちのほうに興味ない?」

 ひえっ。

「あっ。そうかー。そうだねー」

 ひかるちゃんは頷くと胡坐を組んだ自分の膝をばしっと叩いた。

 そうだねー、じゃないよ。妹よ。あんたはおっさんか。

 あたしはしれっとしてるしおりちゃんの顔をちらりと見遣った。

 しおりちゃんは本当に綺麗なのだ。

 最近また一段とその容姿に磨きがかかった気がするんだよね。

 色気を放つ首筋の白い肌。時折見せる憂いを帯びた眼差し。妹のあたしが見てもどきっとするくらい色っぽい仕草。

 恋をしてるのは、しおりちゃんのほうなんじゃないの? と思う。

 しおりちゃんって経験あるのかな? 大学生だもんね。綺麗だし。カレシいたし。あり、か。

「どうなの? かれん」

「あ、あのね。そんなね。…ま、まだ全然、そんなんじゃないんだよ、しおりちゃん」

 何にも隠してることなんかないのに、ついついどもってしまう。こういう話をするのってなんか恥ずかしい。よくみんな恥ずかしげもなく自分の恋愛バナシを平気で友達にできるもんだなと、改めて感心する。

「今度、どっか遊びに行こうっていってるくらいで…」

「え? ちゅーもしてないの?」

 ひかるちゃんってば、本気でびっくりしてる。

「し、してるわけないじゃんっ」

 こっちのほうがびっくりだ。

「えー。何、それ。それでつき合ってるなんて言えるのー?」

 げっ。ひかるちゃん、あんたそういうこと言うわけ? 案外大人なんだねえ……。

「今度っていつ?」

「え? え、と。30日」

「ふーん。それが初デートってわけ。どこに行くの?」

「まだ決めてないけど…」

 あたしが口篭ると、姉と妹が顔を見合わせた。悪巧みしてる顔。あたしは溜め息を吐いた。まったく、このふたりときたら…。

「ついて来たり、待ち伏せたり、そういうこと絶対にしないでよ」

 唇を尖らせて抗議すると、うひゃっとひかるちゃんが笑った。

「だーって。どんな男か見てみないとさ。かれんちゃん、騙されてるかもしんないでしょ?」

 騙されてる。佐藤君の顔をふと思い浮かべた。くしゃっと笑う案外可愛い顔。

「騙すって…何よ」

「まあ、色んな男がいるからさ。あたし達が見抜いてあげるから、ね? かれん」

「佐藤君はそんなひとじゃないよ」

「佐藤、くん?」

 しおりちゃんがきょとんとした顔になる。

「うん。佐藤く…」

─── げげっ。しまったっ。

 あたしは自分の失敗に気が付き両手で口をぱっと覆った。

「え? 佐藤君? 佐藤君って、あの佐藤明良くん?」

「え? あの佐藤君って誰?」

「や、あの、ちが…」

「やだ。ひかる、覚えてないの? 一度、かれんがうちに連れて来たでしょ。ハーフみたいなめちゃくちゃ可愛い男のコ」

「あー。うっすら。すっごくカッコいいひとだな、って思ったのは覚えてるけど」

「え、だから、あの…」

「ええええ。かれん、あの男のコとつき合ってるのぉ? や、やだやだ、信じらんない。それってどういう展開よぉ」

「そんな、しおりちゃん、本気で驚いたらさ、かれんちゃんにとっても失礼だよ」

 全くだ。

「だから、まだ…」

「あのコ、今、モデルやってるでしょう? あっちでもこっちでもよくポスター見かけるわよ。売れっ子なんじゃないの?」

「モデル?」

ひかるちゃんがぽつんと呟く。「モデルって何?」

「十代の男のコ向けの雑誌のモデル、だよね。雑誌の名前なんだっけ、かれん」

「…クラス…エー」

 なんで真面目に答えてるんだ、あたし。これってきっと姉妹関係における条件反射だね。

「あ。それってうちのクラスの男のコもよく見てるよ。あと、かれんちゃんの部屋にもあったでしょ?」

 な、なんで知ってんのっ。ひかるちゃんっ。

「え。あんた、カレシが載ってる雑誌、買ったりしてるの?」

「や、だから、まだそのときはつき合ってなかったし…」

「え。あのAkiってモデル?」

ひかるちゃんの目がこぼれんばかりに見開かれた。「ええええ。あの男のコがかれんちゃんのカレシっ?」

「ちょっと、あんた絶対騙されてるって」

「だから。騙すって何? あたし騙して佐藤君に何の得があるの?」

「じゃなかったら、身体目当てに遊ばれてる?」

「やだ、ちょっと、ひかる、中学生のくせに何てこと言うのよ」

 あああああ。もう。収拾つかないよ、ほんと。女三姉妹はこれだからっ。カシマシイって、昔のひとはよく言ったもんだ。



「佐藤君っていうとさ、”sofu”っていう言葉、思い出すんだよねえ…」

 しおりちゃんがしみじみと言う。微笑みながら。

 あー。しおりちゃん、覚えてたんだ。

「何?”sofu”って?」

 ひかるちゃんのほうはあの頃まだ小学校二年生だったから、あんまり記憶に残ってないみたいだった。



 小学校四年生のとき。

 社会科の班ごとの研究発表の宿題で佐藤君の家に行ったときのことだ。

 一旦部屋を出た佐藤君が戻ってきた途端、

「平澤、今日、うちで晩ご飯、食べてけよ」

 そう言った。もの凄くつっけんどんな口調で。

「じいさんが、そう言えってさ」

と、自分は嫌々言わされてるみたいに付け加える。ちょっとだけむっとした。佐藤君、最初からずっと全然喋んないし。あたしと一緒にいるの本当は嫌なのかな、と思ってたとこだったから、

「どうしようかな…」

俯いて、大きな紙に目を落としたままぽつりと答えた。宿題はまだ半分もできていない。

「食ってけよ」

今度は強く言われた。「じいさん、俺とふたりだけじゃ、寂しいんだ、きっと」

それに、女の客が珍しいんだってさ。そんなことを言った。ませガキ。

 寂しい。

 家族と一緒に家にいるのに寂しい、というのが、当時のあたしの胸にはひどくこたえた。おそらく、その言葉が途轍もなく怖かったのだと思う。

 うちは五人家族で、しかも女が四人もいるから、ほんと、耳が痛くなるくらい家の中は賑やかだったのだ。寂しいどころかたまにひとりでお留守番、なんてことになったらうきうきわくわくするくらい嬉しかった。

 そういえば、その嬉しさも短時間だったら、という条件付きだな、とぼんやり思った。一時間を過ぎ、二時間を超えると、留守番の楽しさはやがて不安に代わる。物音ひとつに怯えたりするようになる。ひとりだけ置いていかれたような例えようのない孤独に包まれてしまうのだ─── 。

「食ってく?」

 再び訊かれ、あたしはついこっくりと頷いていた。

「家に電話してもいい?」

 あたしが言うと、佐藤君はにこりともしないで部屋の隅に置かれた子機を取り、差し出した。ほんとに無愛想だった。途中、佐藤君のおじいさんと変わった。

 佐藤君のおじいさんは礼儀正しくとても大人らしい、おじいさんの見本みたいなひとだった。頭は少しだけおでこのあたりが薄くなっているけれど、髪の毛は黒色にところどころ銀色の線が入っていて案外ふさふさしていた。痩せていて全体的に骨ばっている。顔は佐藤君にはあまり似ていないかも知れない。

 何よりその笑い方がおじいさんらしかった。鼻を中心に顔全体に皺が寄るのだ。本当に楽しそうに、思慮深そうに微笑むのだった。

 夕食は三人ですきやきを囲んだ。

 佐藤君は相変わらず無口で、おじいさんもあたしにばかり話しかけていた。

「野菜はいいから、お肉をたくさん食べなさい」

と、家では到底聞かれないようなことを言われた。でも、佐藤君の箸がお肉にばかり伸びると、

「こら、野菜もちゃんと食べなさい」

と叱るのだった。あたしは、ああ、やっぱりこのふたりは家族なんだなと安堵し、佐藤君は膨れっ面になった。

 その後、散歩がてらふたりに送ってもらった。佐藤君にうちの場所を覚えてもらうためにもちょう度よかった。

 翌日は、あたしの母が佐藤君を夕食に誘った。

 でも、佐藤君は言下に首を横に振り、

「sofuがひとりで待っていますから」

そう言ったのだ。あたしは胸を衝かれてしまった。佐藤君はコドモじゃないみたいだと思った。

 けれど、その場にいた他の四人はきょとんとしていた。

 ”祖父”と言いたかった佐藤君の発音が、”s”も、”f”も息がすうっと綺麗に抜けていて、英語みたいに聞こえたのだった。

 佐藤君の顔に困惑の色が滲むのがはっきりとわかった。自分の日本語のどこが変だったのか懸命に考えている表情になった。

「あ、あの、佐藤君ね、おじいさんとふたり暮らしなの。だから…」

 日本に移り住んでから一年とちょっと。佐藤君はコドモ独特の吸収力からなのか、完璧に近い日本語を話せるようになっていた。

 それでも時折、ふとした拍子に英語の発音が顔を出す。天井のライトを”light”と発音して、教室を一瞬だけ静まり返らせたこともあるし、昨日も書く文字を間違えるたび、”shit!”と小さく呟いていた。

 あたしの言葉でようやくみんな、”sofu”と”祖父”が繋がったみたいだった。

「あら。そうなの。残念ね。でもおじいさんがおひとりで待ってらっしゃるんなら仕方ないわね」

 母はあっさりとそう言い、おやつにも出した手作りのパウンドケーキを佐藤君に持たせた。あたしはもしかしたら佐藤君は嫌がるんじゃないかと思ってどきどきしたけれど、当の佐藤君は、

「ありがとうございます。これ、おいしかったです。すごく」

コドモらしい笑顔を見せて母をノックダウンさせた。

 まだ明るかったので、今日はあたしが佐藤君を送っていくことにした。このときも、ひとりで帰れるとか言われたらどうしようと少しだけどきどきした。

「平澤の家のひとって、平澤のことが好きなんだな」

 唐突にそんなことを言われた。佐藤君の口調は好意的だったのだけれど、何だかコドモっぽいと言われてるみたいで少しだけむっとした。

「え?そうかな…」

「そうだよ。日曜日に家にみんながいてさ。入れ替わり立ち代り平澤の部屋に様子を見にきてさ。色々話をしていったじゃん。心配なんだよな、平澤のことが。家族って感じだよ」

 は、恥ずかしい。変な家族だと思われたに違いない。あたしは赤くなって俯いた。

「なんか、いいよな。そういうの」

「……」

「もう、送ってくれなくていいよ。ひとりで帰れるから」

案の定そう言うと、また明日、と小さく言い置いてからさっと駆け出した。筆記用具を入れてきた鞄と、パウンドケーキの入った紙袋を小脇に抱える佐藤君の後ろ姿をあたしはいつまでも見送っていた。



「小学校四年生の男のコの口から”祖父”って言葉が出てくるなんて思ってもみなかったから、びっくりしちゃって、だから、すごく覚えてるんだよね」

しおりちゃんはくすっと笑った。「しかも、ハーフみたいな顔してるから余計不釣合いだったよね」

「しおりちゃん、笑わないで」

「ごめん、ごめん」

「覚えてないなあ…」

 ひかるちゃんは自分の記憶力が薄いことを認めたくはないようで、むっとした口調で首を傾げたりしていた。

「でも、すごく感じのいいコだった」

そうか。かれん、あのコとつき合ってるんだね。

 しおりちゃんがしんみりとした声音で言う。きっと反対はされてない。嬉しいような、でも、自分のしていることは間違っていないかを確認したいような、不思議な気持ちが生まれてきた。

「まあ、せいぜいふられないようにがんばって、かれんちゃん」

「ひかるちゃん…」

応援されてるんだか、けなされてるんだかよくわからないな。「お願いだから、デートについてきたりしないでよ、ね?」

そこのとこはしつこいくらい釘をさしておいた。

「それから、おとうさんとおかあさんにも、まだ言わないでね」

 念を押すように言うと、しおりちゃんとひかるちゃんは顔を見合わせてひひ、と笑った。裏に色んなものを含ませた笑みだ。絶望的な気持ちが一気に押し寄せてきて泣きたくなった。

 このふたりときたら。

 全く信用できないんだから。

 ああ。きっと時間の問題だ…。

 わたしはふたりから視線を外し、窓の向こうを見つめると、唇をへの字に曲げて大袈裟なため息を落としてみせた。

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