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 あたたかな、雪
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 寂れた町の、いまにも崩れそうな木造アパート。青い塗装が剥げ落ち錆びてしまった手摺りには、極力触れないようにバランスを取り、かんかんとうるさく鳴る鉄階段を霞美かすみは上る。すぐ傍をどぶの臭いのする黒く浅い川が流れている。今日はいつにも増して臭いがきつい。いっそ川ごと町ごとアパートごと、ここら一体の土地が全て消えてなくなればいい、と霞美は強く思うのだ。そうすれば、郁生いくおのこともきれいさっぱり忘れてしまえるだろうから。
 インターホンなど設置されているはずのないアパートだ。薄いベニヤ板を貼り合わせただけのドアをノックする。返事はない。鍵など端からかかっていない。ネジのゆるくなったドアノブを回すと、湿気た臭いとともに、
「おー」
と、軽い男の声が霞美のほうへ流れて来た。「何だ、お前、また来たの」
 部屋の中にいるというのに黒くぶ厚いダウンを着ている。新月に近い三日月のように目を細め笑う男。この男の顔を拝むたび、どうして自分はここに来るんだろうと、もう何千回悩んだかわからない結論の出ない質問を、今日もまた霞美は自分に投げかけるのだ。
 こんな男。とっとと縁を切ってしまわなければ。そう思うのに。ここへ来ることをかれこれ一年近く霞美は止められないでいる。
 いわゆる婚活の一環であるパーティーの帰り、友人と立ち寄った居酒屋で霞美は郁生と出会ったのだ。はっきり言ってその日のパーティーは最悪だった。出された食べ物は冷え切っていたし、アルコールは薄い砂糖水のような味しかしなかった。
「男も不作だったよね。金返せっつーの」
 友人は吐くように言い捨てたが、霞美も同じ気持ちだった。あらかじめパソコンに入力していた条件をクリアした男ばかりではあったのだ。年収は一千万円以上あり、職業は医者か法律家か実業家。ただ外見があまりにも悪過ぎた。髪の薄さもお腹周りも年齢も。入力項目以外のもの全てが気に入らなかった。
 あの日は友人も霞美も持ち合わせがなかった。パーティーの会費に新調したバーバリーブルーレーベルのワンピースに美容院代。使っても使っても際限がないほど、鯛を釣る為の海老代はかさんでいく。
 ジョッキになみなみ注がれたビールを呷る。ねぎまが二本で210円。安っぽい店だった。お見合いパーティーが行われたホテルに比べればはるかに質の劣る店。そうだ、そもそもあの居酒屋に入ったのが間違いだったのだと霞美は悔やまずにはいられない。
 郁生は同じ作業現場で働く男数人と店に来ていた。濃い灰色のひどく汚れた作業服に身を包んだ男たちの群れ。自分には関係のない世界の住人だと思っていたのに。目が合った瞬間その瞳の色に惹きつけられた。緑色なのか灰色なのかよくわからない、昏い海の底のような目。その大きな目を時折三日月のように細めて笑っている男。痩せて頬のこけた野良犬のような男だと、霞美は思った。
「なあ、出ない?」
 誘われたのはトイレを出てすぐの狭い通路だった。ひょっとしてナンパ? 霞美はその時、おそらくは非難の目を郁生に向けたはずだ。
「出ようよ。あんたの友達、そんな酔ってないし、置いて帰っても大丈夫っしょ」
 郁生の口調には断られたらどうしようという気配はまるでなかった。断られてもよいとどこかで思っていたのかもしれない。
「あんた、ずっと、俺の顔ばっか見てただろ?」
 郁生に手を引かれるまま霞美は夜の乾いた空気の中を早足に歩いた。
 どうとでも── 。
 安い木造アパートの、平べったい布団の上で、霞美の真新しいワンピースを脱がせながら、郁生は言った。
「どうとでも言ってよ。あんたのいいように、好きなように、動くからさ」
 そんなことを言う男を、霞美はその日まで知らないでいた。
 白く清潔な男達は、大抵は自分の快楽の為だけにただ淡々と軟弱なからだを縦にのみ使い、シーツが皺になることさえないまま行為が終わるのが常だった。
 郁生と抱き合った後はいつもべっとりとふたりの汗の染みがシーツに残る。立ったまま性交できるということも、霞美は郁生によって教えられた。
 霞美の欠けている部分に郁生はぴたりと当てはまった。それは初めからそうだったのではなく、郁生が霞美の為に形を変えてくれている。霞美にはそう思えてならなかった。
 物珍しさもあったのかもしれない。
 郁生の何もかもが霞美には新鮮だった。キスも。セックスも。仕事も。お金の使い方や暮らしぶりも。
 高校中退で家を出て、ずっとバイトと派遣で生きてきた、と郁生は言った。
「家族は?」
 という霞美の問いかけに、ひとりっこで母親はいない、高校生のときに父親が再婚し、新しい家族と折り合いが悪くて家を出た。本当かどうかはわからないけれど、何てことない顔で説明してくれた後、
「あんたはいい家のお嬢さんって感じがするね」
 そう言って郁生は笑った。三日月の目で。霞美を見ながら。
「そうね」
 霞美も否定しなかった。そのとおりだと思ったからだ。
 唯一好みが合うと言えるのは、映画くらいのものだった。
 外で観たことは一度もない。郁生のような男といっしょに歩いているところを会社の誰かに見られたり噂になったりしたら結婚なんかいまよりもっと縁遠くなってしまう。それが霞美の本音。いつも決まってこの部屋で、郁生の借りてきた、或いは手持ちのDVDを観て時間を潰す。
 結婚というものに興味をうしなったかのように見える霞美に対し、あの日居酒屋に置き去りにされた友人は、ほどほどにしときなさいよ、と時折眉をひそめ言った。うん、わかってる、と霞美も難しい顔で返す。友人はいまも積極的に結婚相手を見つけるべく行動している。ただ、未だ特定の相手を見つけられずにいるようではあった。
 どうにかしなければ、とは霞美だって思っている。
 郁生といっしょにいたところで未来像など描けない。霞美に愛の言葉を囁くこともなければ執着もせず、時には他の不特定多数の女と交わった気配を漂わせたまま平気で霞美と向き合えるような、そんなどうしようもない男なのだ。
 おそらく別れるのは簡単だ。ここへ自分が来なければいいだけのことだ。それが最善の終わり方だと、霞美だってわかってはいる。


「信じらんないな。この映画、観たことねえの?」
「見逃したのよ」
 郁生が手にしているのは数年前にアカデミー賞を受賞したハリウッドの映画だった。ポーランド人のピアニストが戦火を生き延びる話。
 霞美は郁生の汗の匂いの染みついた布団を被りじっとしていた。
 郁生はDVDをセットすると、暖房のスイッチを入れ、カップラーメンのお湯を沸かす為に薄暗いキッチンに立った。この部屋に不似合いな真っ白いファンヒーターは、一年前の冬、自宅の倉庫で眠っていたものを、霞美が家族に内緒で運んで来たのだ。隙間風が遠慮なく吹き込んでくるアパートに住んでいながら、郁生は暖房を持っていなかったから。
「ずっと布団の中に入ってれば死にやしねえよ」
そんなことを言って霞美を唖然とさせた。
 この部屋には何もない。霞美はまだうっとりと愉悦に溺れたからだを布団で覆いながら狭い部屋を見回した。
 本当に何もないのだ。
 冷蔵庫も。炊飯器も。洗濯機でさえもないのだった。無論風呂もついてはいない。大抵は仕事帰りに銭湯へ、休みの日は台所の流しでからだを洗うと、信じられないことを当たり前みたいに言う男。
 あるのは。
 大量のDVDと本とテレビとレコーダー。少しの衣類とそして布団。
 喉に何かが込み上げてくる。それは切なく霞美の胸を締めつける。
 あなた、どうして生きてるの?
 何のためにここにいるの?
 何度も口にしようとした問いかけを良薬のように苦く霞美は飲み下す。
 テレビの中ではまだ平和な世界で暮らしている主人公が瞼を閉じ、酔いしれるようにピアノを奏でている。


 先週の日曜日、母と街へ出た帰り、信号待ちで停止した助手席の窓から、霞美は郁生を見かけたのだ。
 郁生は女といっしょにいた。
 若い女だったが、うつくしいとか可愛いとかお世辞にも言えない残念な顔立ちをしていた。つるんとした陶器に切れ込みを入れたような細い目。それをさらに狭め、大きな口を開き豪快に笑う女。地味なくせに太陽みたいな笑い方をする女だと、霞美は思わず目を奪われた。
 すいかのように丸く膨らんだお腹を突き出し、分厚い毛糸のタイツを履き、手には二歳くらいの女のコが、ぶら下がるようにくっついていた。
 雪がちらちらと舞っていた。
 郁生と女と大きなお腹と少女の頭に、綿のように大きな楕円の雪が舞い降りては溶けていく。
 郁生が黒いダウンを脱ぎ、女の頭にそっと翳すのが見えた。そこだけあたたかな雪でも舞っているような郁生の視線に、窓に当てた指先が一気に冷たくなった。
 まるで映画のワンシーンを鑑賞しているみたいだと、霞美はぼんやりとそんなことを考える。
 やがて車は走り出した。


 ずるずると麺を啜る音がする。
 三分経っても五分経っても蓋を開けない霞美には見向きもしないで郁生は麺を啜り画面に視線を当てている。
 映画が始まってしまうと郁生は絶対口を開かない。何を問いかけても何を言っても絶対喋らない。
「この前の日曜日、郁生が女のひとといるのを見たの」
 だからこれはひとり言だ。
「お腹の大きな女のひとと小さな女のコといっしょにいた」
 テレビの画面に目を当てていた。麺を啜る音が消え、郁生が箸を置くのがわかった。
「郁生、幸せそうな顔、してた」
 ドイツ軍が攻めてきていた。ユダヤ人に向かって銃や火炎を平気で放つ残酷なシーンが流れている。
「……妹、だよ」
 静かな声で郁生は言った。
 驚いて見た郁生の顔に、火炎のオレンジが映っている。
「妹?」
 ひとりっこだと言っていた。あれは嘘だったのか。
「父親の、再婚相手の、連れ子」
 連れ子。
 義理の妹。
 新しい家族と折り合いが悪くて── 。
 霞美のほうを見ない郁生の目。痩せこけた頬。
「いく、つ」
「俺より三つ下」
「結婚してるの」
「当たり前だろ。お腹の子供、三人目だぜ」
 あなたどうして生きてるの── 。
 何のためにここにいるの── 。
 がくがくと。握った指の関節が震えそうになる。
「あのひと、この町に、住んでるの」
「そうだよ」
 愕然と。郁生の顔を見つめた。郁生は一度も、霞美の顔を見なかった。
 そうか。
 霞美はそっと。視線をテレビの画面に戻す。
 そうだったのか。
 ばかな男── 。


 涙が止まらなくなった。
 あれから郁生は口を噤んだきり何も言わない。霞美も訊ねることはしなかった。
 郁生という人間は、心がないのだと思っていた。そう思っていれば楽につき合える相手だった。
 投げやりでいい加減な、月日の上っ面だけをなぞるようにただ生きているだけの男の内側で、まさか、誰にも言えない降り積む雪のように繊細な恋情が、ひっそり息づいていたなんて。
 嗚咽が洩れた。
 折りしも映画はクライマックスを迎えている。主人公の男がドイツ兵の前でピアノを弾いている。耳に入るピアノの音色がいっそう霞美の心臓をかきむしる。
 霞美は膝を抱え咽び泣いた。
「なんだよ。そんな泣くような場面かよ、ばかだな」
 は、っと。郁生は言い、笑った。
 ばかはそっちだ。
 わかんないの。
 あんたの代わりに泣いてんのよ── 。
 口にして、郁生を凍りつかせてみたかった。
 霞美の喉からは、もはや泣き声しか出ない。
 自分にも。あんな、あたたかな雪のような視線を降り注いでくれる男が、いつか現われてくれるだろうか。
 そうならいい。
 だけど。
 あたしは郁生がよかったのだ。霞美は拳を握り涙を流す。
 あたしは郁生のあたたかな眼差しがほしかった。ずっとずっとほしかった── 。
「かーすみちゃーん。いったいどうしたんだよー」
 ふざけた調子の声。
 郁生に、頭から抱きしめられた。嗅ぎ慣れた郁生の体臭が霞美を満たす。このまま死んでもいいとさえ思える幸福。
 泣けて泣けて仕方なかった。
 もう二度とここへは来ない── 。
 痩せこけた郁生の腕に抱きしめられながら、霞美は心を決めていた。

(完)

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