しょっぱいチョコレイト 後.
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 家に戻ってから二度、携帯電話に先生からの着信があった。先生が自分を追ってくれることを、あれほど強く望んでいたというのにわたしは電話に出なかった。
 電話は毎日のように鳴った。朝二回と夕方三回。
 だけど。
 学校ではいつもどおりの顔を崩さない先生。感情というものを一切取り払ったような静穏で平らな表情。そこに怒り、或いは不安や動揺は微塵も窺えないのだ。先生は一体何を思っているのだろう。
 電話に出ることを躊躇していただけのわたしは、そのうち電話に出ないと決意を固めてしまっていた。
─── どうして電話に出ない? 話がしたい。
 メールをほとんど打たない先生から送られたこのたったひと言にさえ。わたしは反応しなかった。
 やがて電話は鳴らなくなった。
 一週間経ったあたりから。ぱたりと。携帯電話は鳴らなくなっていた。


 三月になった。
 三年生は卒業してしまい、学年末試験も終わり、何だかのんびりとした日がつづいていた。今年は暖冬だ、平年よりも平均気温が幾度も高いと言われていたのに、三月の半ばを過ぎたいまもまだまだ肌寒かった。わたしは空き教室にいた。少子化に伴う生徒数の減少で使われていない教室がこの学校にはいくつかある。そのうちのひとつ。北向きのこの部屋は陽が当たらないので身体の芯まで冷える気がするのは尚更だった。わたしをここへ呼び出した張本人は約束の時間を五分過ぎてもやって来ない。ここは二階だから、下を歩くひとの頭頂部がよく見える。校門へとつづく道。それを眺めて時間を潰していた。
「仙道」
 声がしたほうを見ると、学生鞄とスポーツバックを肩に掛けピンク色の四角い小さな箱を手にした榊原が立っていた。
「遅い」
 はは、と。軽い調子で榊原は笑うと、ピンク色の箱をこちらに向かって放り投げた。コントロールは悪くなかった。それはわたしの両手にすっぽりと納まった。
「やるよ」
「え」
「一昨日渡せなかったから」
「……」
 ホワイトデイ? バレンタインのお返し?
「わざわざ呼び出したのって、これくれる為?」
「うん。そう」
「ありがとう……」
 複雑な気持ちで掌の箱に視線を落とした。
 この小さな箱に、意味はあるのかないのか。わたしは顔を上げ、表情だけで榊原に問うた。
 榊原はまたくしゃっと顔を崩して笑った。大らかな笑い方だ。
「単なるお返しだよ。そんな心配そうな顔すんなって」
「そうなんだ。ごめん。一瞬自惚れちゃった」
「ま、いいけどさ。何か教室では渡しづらかったから」
 わたしは綺麗にラッピングされた掌の箱をまた見つめた。
「ああ。そうだね……」
 バレンタインデイに一緒に歩いていたのがいけなかったのか。わたしが涙を流したりなんかしてたのが強烈な印象となってしまったからなのか。わたしと榊原は暫く噂の的になっていたようだった。
「カレシと仲直りはしたのかよ?」
 わたしは曖昧に笑いながらゆっくりと、首を横に振った。
「だろうと思った。ずっと元気ないもんな、仙道。なんで仲直りしねえの?」
「なんでかな」
「今でも好きなんだろ?」
 これまた曖昧に。頷いて見せた。榊原は後ろ頭を撫でながら大きく溜め息を吐いた。
「実はさ。俺、あのチョコレートケーキ、食えなかったんだよね」
榊原が苦しそうな口調で告白した。いつかは言わなくてはならないと、自分を戒めていたかのような語勢がそこにはあった。
 え、と驚きわたしは目を見張った。
「なんで? おいしくなかった?」
「や、そうじゃなくてさ」
榊原は言いにくそうに。それでもゆっくりと話し始めた。
「中身見ちゃったらさ。なんか、食えなくて。仙道、初めて作ったっつってただろ? 確かにさ。見た目そんなよくなくて。いかにも初心者の作ったケーキって感じで。でも、なんつーか。仙道、カレシの為に一生懸命作ったんだなあ、でも、なんでか、渡せなかったんだよなあ、って考えたら、こう、目茶苦茶切なくなっちゃってさ」
「切なく……」
 榊原には似合わない言葉だ。本人には失礼だから口にも顔にも出さないでおく。
「だから。やっぱ返そうと思って。そのまま台所に置いといたんだけどさ」
 かあちゃんが食ってやがんの。
「え」
「朝起きたらさ。ねえんだよ。何で消えちゃったんだってびっくりしてたら、かあちゃんが、あんた食べないから、あたしが食べてあげたわよー、なんて言うんだ。偉そうにさ。絶句したよ。もう絶句」
 少し間を空けてから、あはは、とわたしは声を上げて笑った。榊原もそのときの様子を思い出したのか、口許を緩めていた。
「うまかったって。かあちゃん、そう言ってた」
 うまかった。
「あー。ほんとに? ありがとう」
「まあ、そういうこと。だから、もう一回チョコレートケーキでも何でも作ってさ、あげればいいんだよ。そんでカレシと仲直りしろ」
命令するみたいにきっぱりと言い置いてから榊原は背中を向けた。
 ドアのところまで歩くと、いきなり振り返って人差し指をこちらに向けた。ぴっと。刺すように。
「言っとくけど。それ、手作りじゃねえからな」
「わかってるってば」
「じゃ、な」
「うん」
ばいばい、と。右掌をひらひらと泳がせた。
 消える直前、榊原が誰かに向かって頭を下げるのが見えた。榊原の、
「失礼しまーす」
につづく、
「早く帰れよ。下校時刻過ぎてるぞ」
の声でそこにいるのが誰だかわかってしまった。ひと息に全身が強張った。
 君塚先生は開けっ放しになったドアを教室の中を見ないままに閉じようとしたが、人影に気づいたようで、顔をすっと上げこちらを向いた。
 視線が絡んだ。
 視線が合ったのは本当に久しぶりだった。授業中、わたしは先生の顔を見ないように努めていたし、最近は学年末で日本史の授業そのものがなくなってしまっていたから。顔を合わせることさえも滅多にないような状態だったのだ。
 暫く茫然と見つめ合っていた。やがて先生が唇を開いた。何か問い質しそうな顔になっていたはずのに、わたしの掌の包みに気づいた途端、口を噤む。すっと。視線を逸らし、そのまま行ってしまおうとした。
「待ってっ」
 先生の足が止まった。でもこちらは見ない。引き止めておきながら何を言えばいいのかわからなかった。なので言葉を発するまでにずいぶんと間が空いてしまった。
「どうして、逃げちゃうの?」
 先生がゆっくりとわたしのほうに顔を向けた。
「……逃げる?」
何言ってるんだ? とでも言いたそうな不本意な表情をしていた。「逃げてるのはそっちじゃないのか」
「わたし。逃げてなんかないよ」
 先生は自分の左右に視線を送った。誰もいないことを確認しているようだった。冷静なんだなと感心する。もちろんこれは嫌味だ。先生は教室に入り、後ろ手に扉を閉めた。
「……電話に出ないのは、逃げてるっていうのとは違うのか」
「最近はかけてきてないでしょ。それに話がしたいんだったら、電話なんかじゃなくて直接話しかけてくればいいじゃない。学校では毎日会えるんだから」
 先生の顔から表情が消えた。当たり前だ。自分でもびっくりしていた。先生に向かってこんな口の利き方をしたことはかつて一度もないことだった。
 言ってから気づいていた。わたしは先生に人前で話しかけてほしかったわけでも、冷静な先生を本気で疎んじていたわけでもなかったのだ。
 ただわがままをぶつけたかっただけ。
 それだけ。
 恥ずかしい。
 胸の内はすでに後悔でいっぱいだった。でも一度口をついて出た言葉を今更取り消したりはできない。
 先生は唇を歪めてふ、っと笑った。
「それができれば苦労はしない。わかって言ってるんだろう?」
 息を、呑んだ。
 先生ってこんな言い方するひとだったっけ? ちょっと怖い。でも元々はこちらが蒔いた種でもあった。
「……先生、怒ってるの?」
 急にしおらしい態度になる自分が情けない。
「いや、怒ってはいない」
「じゃあ……」
と口にしたとき。
「君塚せんせーい」
 廊下のそう遠くないところから、甘い声が聞こえてきた。先生は声のしたほうにちらりと視線を向けると顔を顰めた。
「隠れて」
 わたしに向かって言う。
「え」
 意味がわからなくて棒立ちになっていると、先生はつかつかとこちらに歩み寄って来た。繊細な指を持つ掌がわたしの両肩に置かれ、強い力で押さえつけられた。乱暴な所作だった。マジで怒っているのだろうかと。びっくりして間近にあるその顔に助けを請うた。
「先生?」
「いいから」
 わたしは先生のなすがままに埃の溜まった教壇の陰に身体を沈めた。ほとんど抱きかかえられていると言っても過言ではないような格好だった。
 先生の顔が、息遣いを感じられるほど間近にあった。肩には掌の温もり。首の後ろには腕の硬質ささえも感じられる。心臓がうるさいくらい鳴っていた。先生に聞こえたらどうしようかと。そればかり思っていた。
 廊下を誰かの足音が行き過ぎる。ばたばたと早足で。生徒がいなくなった校舎にその音は途轍もなく大きく響き、そのうち聞こえなくなっていった。
 強張っていた先生の身体からすうっと力が抜けた。と同時にこちらの肩からもその掌が外された。その袖口から。いつものコーヒーの匂いとは違う嗅ぎ慣れない匂いがして、それは思いがけずわたしを動揺させた。
「先生……」
 先生がちらりとこちらを見る。顔が近過ぎる。学校にいる時間に、こんな距離で話したことは一度もなかった。わたしはもごもごと口を動かした。
「先生、……煙草?」
「あ? ……ああ」
先生はシャツの袖口に鼻を寄せた。「なんだ。そんな匂うか?」
「煙草、吸うの?」
 声に狼狽が滲んでいるのが自分でもわかった。学校でも先生のアパートでも、先生が煙草を吸う姿など目にしたことがない。灰皿があったという記憶さえもなかった。つき合っているつもりでいたのに、そんなことも知らなかったのかと本気で狼狽えていた。
 先生は落ち着いた様子で、ああ、と頷く。
「そうなんだ。大学時代に吸ってて。卒業してから、二年、三年くらいか、ずっとやめてたんだけどな。実はここんとこまた、吸ってる」
 わたしは俯いた。自分がまだ達していない年齢を生きた先生の過去バナシを聞くのは結構辛い。全然知らないひとみたいな気がしてしまうから。
「そう、なんだ。知らなかった」
「……」
「……」
 視線を感じて顔を上げた。こちらをじっと見つめている先生と目が合った。優しい目だった。さっきまであんなにむすっとしていたのに。ひどく戸惑った。身を硬くするこちらの様子が余程おかしかったのか、先生は歯を見せて笑った。
「元気にしてたか?」
 そんなことを訊く。
「うん」
「そう、か」
 と。またばたばたと足音が響いてきた。音の消えていった方向から。甘い声の主が引き返してきたのだとわかった。ふたりで身を寄せ合い固まった。がらりと。ドアが引かれる音がした。
 息を詰め、すぐ傍にある先生の顎に視線を当てた。少しだけ伸びた髭。もともとは薄いのに。きっと今朝、或いは昨日も、髭を剃ってこなかったに違いなかった。何だか先生らしくない。よく見ると、いつもは綺麗に切り揃えられた髪の毛も伸びっぱなしになっている。わたしの知っている先生は、どちらかと言うとまめに散髪に行く清潔な人間だったのに。
 見ると指先にも。チョークの色が残っていた。透明感のある爪が白とピンクの粉を纏っているのをじっと見ていた。
「やだ、君塚先生ったら、どこ行っちゃったのかしら?」
 細川先生の声だった。君塚先生はここにはいないと判断したのか、すぐにぴしゃりと扉を閉めると、またどこかへ行ってしまった。
 一気に肩から力が抜ける。
 何をしてるんだ先生たちは。にわかに呆れていた。
「かくれんぼ?」
訊ねると先生は、
「まあ、そんなもんだ」
と笑った。
「どうして細川先生はあんなに必死で先生を探してるの?」
 先生はこちらの質問に一瞬きょとんとし、それから肩を揺らして笑った。
「誰かさんが、細川先生にもらったチョコレートを勝手に開けたりするからだ」
「え……?」
「細川先生にもらったチョコレート。受け取ったらまずい空気がぷんぷん漂ってたからな。返そうと思って鞄に入れたままにしてたんだ。なのに誰かさんがあんな風にしたから」
「あ……」
 先生の鞄に。ひっそりと身を隠していた茶色い包み。あの包みをびりびりと引き裂いた感触は、後ろめたさと一緒にまだ手の先に残っていた。
「仕方ないからホワイトデイにお返ししたんだ。一緒に働いてるし無視できないな、と思って。きっと期待させちゃったんだろうな。昨日からあの調子なんだ。ふたりでどこかに出かけましょう、食事に行きましょう、ワインのおいしいお店があるんですけどどうですかって。そりゃもうすごいよ。断る隙を与えてもらえないんだ」
「……」
「正直参ってる。お返しなんかしないで知らんふりしとけばよかった」
「ご、ごめんなさい」
謝りつつも、「だけど、先生、あのとき、そういうこと説明してくれなかったから」
ついそう言い返していた。
 先生は一旦考え込んでから、
「そう、か。そうだな」
と頷いた。
 その思慮深い横顔を見ながら、もし過去に戻ることができて同じことが繰り返されたとしても、先生はやっぱりわたしにきちんとした説明はしてくれないだろうなと思っていた。細川先生の自分への気持ちを。こんな場面に出くわさない限りはわたしに話したりはしなかっただろう。
 先生はそういうひとなのだ。
 なのにただのわたしのわがままで、これまで築いてきた関係をここまでこじらせた。
 どうすればいいのだろうか。怒っていないとさっき先生は言ったけれど。もう一度訊くことも憚られて項垂れた姿勢のままじっと銅像のように固まっていた。
 外から聞こえていた下校中の生徒たちの声も。全く聞こえなくなっていた。広い校舎はただしんと、耳が痛いくらいに静まり返っていた。
 だらりと床近くに下ろされた先生の指先はぴくりとも動かない。
「先生……」
「うん」
 ここに気持ちがあるのかないのか。わからない抑揚のない声だった。
「あたしね」
「ああ」
「あの日、チロルチョコだけじゃなくてね。本当はチョコレートケーキも作って行ってたの」
 先生がこちらを見るのがわかった。ゆっくりと。
 わたしも先生の顔を見た。
「いまも、あるのか?」
「え?」
「そのケーキ。いま、どこにあるんだ?」
 喋っている言葉の意味がよくわからなくて、束の間先生の顔を見つめていた。
「あ、ああ。あのね、もう、ないよ」
「どうして?」
「だって、ケーキ、腐っちゃうじゃん」
 先生はきょとんとしてから、ああ、と笑った。
「そうだな」
「それに、あれ、榊原にあげちゃったし」
 先生の顔から一瞬だけ笑みが消えた。本当によく見ていないとわからないくらいの微かな時間で、指先を鼻のつけ根辺りに当ててまた普通に笑っていた。
「そうか。そう言えばあの日、一緒にいたな」
 あの日。
「え」
「ん?」
「先生、あの日、あたしと榊原が一緒にいたとこ見たの?」
「ああ。見たよ」
「追いかけて来てくれたの?」
「一応な」
「一応って何? どうして声かけてくれなかったの?」
 思わず先生の腕を片方掴んでいた。しゃがんだ姿勢でそれをするのは体勢的にちょっと辛い。バランスを崩して倒れそうだった。
 先生の顔はもう笑ってはいなかった。
「できるわけ、ないだろう」
 先生の瞳をじっと見つめる。小粒だけれど。綺麗な茶色い瞳だ。
「声をかけられないのは承知で、追いかけたんだ。外が真っ暗で心配だったから。榊原と一緒にいるとこを確認したあと、すぐに引き返した」
 何も言い返すことができなかった。先生は、わたしの掌に納まっている小さな包みに視線を向けた。
「それ。榊原にもらったんだろ?」
 こっくりと。声も出せずに頷いた。
「つき合ってるのか?」
 少しだけ苦しそうな、でも真面目な声で訊かれた。わたしは大きく目を見開き弾かれたように顔を上げた。
「どうして?」
「違うのか?」
「そんなわけ、ないじゃん」
 わたしはもう泣いていた。ぼろぼろとみっともなく泣き始めていた。眼鏡と頬骨の間にぬるい涙が溜まり気持ち悪かった。
 先生は首を傾げた。
「俺たちは、まだ、つづいてると思っていいのか?」
「どうしてそんなこと言うの? 先生は、わたしと、別れたかったの?」
「いや、だから。それはこっちの台詞だろう」
 わたしは首を横に振った。
「やだ。絶対別れたくない」
「だけど、仙道、つまらないって言って部屋を飛び出したきり、電話には出ないし、メールも返ってこないし、こっちはてっきり愛想尽かされたものだとばかり思ってた」
 わたしは先生の腕に取り縋って首を横に振り続けていた。言いたいことは山ほどあるのに、声を出すことができなかった。
 先生は宥めるような優しい声で話し始めた。
「ずっと仙道にいろんなこと我慢させてたのはわかってたんだ。分別のある顔してても内心無理してるんだろうなってことも、正直気づいてた。こっちはいいんだ。生徒に手を出すような真似をした時点で職をうしなうのは覚悟してたし。あのとき、初めて仙道がアパートに現われたとき。どうかと思うくらい自分に歯止めが利かなかった。だけど。仙道はそういうわけにはいかないだろう。高校を退学になんかさせられない。だからあれこれ約束事を決めたんだ」
 わたしはもうこれ以上ないというくらい先生の腕を強く掴んでいた。ここでもし教室に誰かが入ってきたら完璧にアウトだ。先生もわかっているのに。その手を外そうとはしなかった。
「無理させてることはとうにわかってたのにな。なのに、急に感情をぶつけてきた仙道をどう落ち着かせればいいのかわからなかったんだから相当情けないだろ? つまらないって言われたり、他の女のひとと似合ってるって言われて傷ついたり。こっちもいい加減ガキなんだよ。仙道は、仙道が無理しないと手に入らないものをこっちが持ってるって言ったけど、そんなことは全然ないんだ。寧ろ逆だ。こっちだって、十代には戻れない。そんなこと考えてたら、そのうち電話に出てもらえなくても当然かな、って思えてきたんだ。まあ、ふられても仕方ないかって。妙に納得してた」
「何よ、それ。そんな簡単に諦めちゃうの? 信じらんない」
「そっちのほうが仙道の為にはいいのかな、って思ったんだ。俺といると無理ばっかさせるのはわかってるから。そっちが本音だ」
「わたしの為とか言わないでよ。そんなの……」
 全然わたしの為じゃない、と言うのはもうむせ返っていて言葉にならなかった。
 頭を大きく撫でられた。
「悪かった」
 ひーん、と。声を上げてわたしは泣いた。仙道、と。先生の声は拝み倒すようなそれになっていた。
「頼むから、そんな風に泣かないでくれ。それにこの状況は非常にまずい」
「先生」
顔を上げると、なんだ? と静かな声が降ってきた。
「また、わたし、先生のとこに遊びに行ってもいいの?」
「……いいよ」
先生は穏やかな顔で頷いた。「だけど、卒業までは今までと同じつき合い方したかできない。それは絶対譲れない。……それでもいいのか?」
「いい。もうあんなわがまま、絶対言わない」
 先生は笑いながらこちらの前髪を掻き上げ、眼鏡を外した。
「……そんなに気張ることはないよ」
華奢な指先が涙を拭う。「仙道、本当は泣き虫なんだな。知らなかった」
 先生の目尻が大きく下がった。
 ああ。先生が笑ってる、と。嬉しくなった。
 唇が優しく眦に落ちてきた。それから頬にも。先生の吐息が耳にかかる。その日わたしたちは初めて学校で唇を合わせた。
 遠くでチャイムが鳴っていた。




「ああいうことはもう二度としないからな」
 憮然とした表情で先生が宣言した。
 先生は教室でキスしたことをあれから何度も思い出しては冷や汗を掻いているのだと言う。わたしがここを初めて訪れたときと同様。ブレーキが利かなかったらしい。青いね、先生、と揶揄うと、真剣に苦い顔をされた。
 日曜日。
 わたしは先生の部屋を訪れていた。バレンタインデイに持って来ていたのと同じチョコレートケーキを携えて。二回目に焼いたケーキは初めて作ったそれよりは、幾分かマシな仕上がりになっていた。
 本当は土曜日の昨日来たかったのだけれど、先生に絶対ダメだと止められた。部屋の掃除をしたいし散髪にも行きたいからと。
 先生はわたしと連絡が取れない間ずっとやさぐれていたらしかった。
 煙草も。そういうことだったのだ。また禁煙しなくちゃな、と苦笑していた。
「先生って、いじけると案外性質悪いんだね?」
「だから。いい加減ガキだって言ったろう?」
「だけど、わたしの為とかって言ってたのに。自分がやさぐれてたらどうしようもないよ?」
「いや。もう。その話はいい」
 先生が淹れてくれたコーヒーをマグカップに注ぐ。先生はハート型のケーキを目の前にしたまま、なかなかフォークを動かさなかった。
「どうしたの?」
訊ねると、
「色々思うところがあって」
と、曖昧に言葉を濁した。もしかしたら榊原にあげちゃったチョコレートケーキのことを思っているのだろうか。榊原とは何でもないよ、と言いたかったけれど。不遜な気がして名前を出すことができなかった。
 先生がハート型の下の尖った部分にフォークを当てるのをじっと見ていた。
 マグカップをふうふうと吹きながら先生の顔を見つめる。先生はゆっくりと小さなチョコレート色のスポンジを口に含んだ。そうしてから笑った。
「うまい」
「ほんとに? よかった」
 こちらも笑いながらコーヒーを口に含んだ。
 先生の淹れてくれたコーヒーは少しだけ苦い、大人の味がした。


(完)

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© Choaolte Cube- 2007