※こちらはNovel内にある作品「初夏」シリーズに連動したお話となっております。予めご了承ください。

 欲しい
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 欲しい。
 あのひとが。
 とても、欲しい。
 涼しげな目許をくしゃりと崩して笑うひと。
 逞しい血管を浮かべた大きな手で、軽々バスケットボールを掴むひと。
 あのひとが、欲しい。
 何としても手に入れたい。
 出会ったときからずっと、それだけを望んでいる。


 爪を綺麗に短く切り揃え、その先にヤスリをかける。ひとつひとつ、丁寧に。四十五度の角度を保って、しゅっしゅっと。並ぶ四つの爪をじっと見つめ、ふうっと息を吹きかけると、霧のような粉が舞った。
 来週の金曜日から学校は冬休みに入る。前日の終業式の日が、男バス女バス合同の、毎年恒例、三年生の追い出し会だ。その買い出しに、明日の日曜日、出かけることを決めたのは、少し前のことになる。桜木先輩と部活の後、話し合って、決めた。
 口許が緩むのを抑えられない。
 あのひとと。ずっといっしょにいられる。ずっと、桜木先輩の顔を見ていられる。そのことが、こんなにも胸躍るほど嬉しい。
 ふたりきりというわけにはいかないけれど、構わなかった。それでもよかった。少なくとも明日は、あの例のカノジョより、あたしのほうがずっと長い時間を桜木先輩とともに過ごせるだろうから。
 ブロック型のヤスリで、今度は爪の表面を磨く。
 桜木先輩といっしょにいるとき。指先を見られる機会が多いことに気づいたのは、わりと前のことだ。バスケの指導をしてもらうとき── 普通は男バスのひとに指導してもらうことは殆どないんだけど。口実を作っては、頻繁に見てもらっている── も。追い出し会の打ち合わせをしているときも。
「バスケしてると、爪、伸ばせないよな」
 何かの拍子に、そう言った。こちらの短い爪のことを言っているのだと気づいて、とても幸福な気持ちになった。自分の好きな相手に、一部分でも関心を持ってもらえる、その幸せ。
 こんこん、と。
 控え目なノックの音が聞こえた。すぐ下の妹の、マナだ。音だけで、わかる。
「入っていいよー」
 言うと、遠慮がちに扉が開いた。最近、急に丸みを帯び、大人びた身体つきになってきたマナの顔の表情は、けれどまだまだ小学生のように幼い。
「どうしたの?」
「明日、模擬テストがあるんだけど。ここ、わかんなくて」
中学校一年生の数学の教科書を広げて見せる。「お姉ちゃん、わかる?」
「うん。見せて」
 マナの顔に頬を寄せると、何だか甘ったるい匂いがした。たぶん、お砂糖たっぷりの甘いお菓子を食べたあとの匂い。このコはお小遣いの大半をお菓子に消費する。体型はだから太め。あたしとは違う。
 あたしには妹がふたりと、弟がひとり、いる。両親はどうしても男のコがほしかったみたいだ。妹弟が三人もいると、あらゆることを我慢しなくてはいけない。あたしはマナが生まれてからずっと、いろんなことを諦めてきた。欲しいものもしたいことも。
 代わりに、どうしても欲しいもの、トクベツなものは必ず手に入れる、決して容易に諦めたりしない、ということを覚えた。目の粗いふるいにかけ、小さな粉もやや大きめの粒子も潔く振り捨てて、残った大きなひと粒ふた粒だけを手にしっかりと握りしめる。
 そうして手に入れたのが、例えばこの自室だった。中学校三年生になるまで我慢した。小さな妹と弟が騒ぐ中で勉強するのは相当な苦行だったけれど、三年生になるまではと耐えていた。もう少し早いうちに口にしていたなら、きっと、ぜいたくだと一蹴されていたに違いないが、ぎりぎりまで我慢したあたしに、両親はあっさりひとり部屋を与えてくれた。
「……わかった?」
 シャーペンの芯を左手の人差し指で押し、右手の親指でボタンをノックしながら、あたしは言った。
 マナはあたしが書いた公式を何度も目で追ったあと、
「うん」
と頷いた。きちんと確認してから返事をするのが、このコの長所だ。曖昧にしたりいい加減にはしない賢明さ。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「がんばりなよ。マナは賢いから、西高も狙えるね」
 あたしは誇らしげな顔の妹の頭を撫でる。そうしながら、まだ知り合ったばかりの頃の桜木先輩を思い出していた。あたしの頭にこんな風に触れてくれていた先輩の、大きな手。そういうことをしなくなったのはいつくらいからだったろうか。気づいたら距離が空いていた。桜木先輩にカノジョという存在ができた頃からだったかもしれない。
 そうしたくてもできないのだ、きっと。やはりカノジョに遠慮があるのだろう。
 マナは、あたしの顔をじっと見てから言った。
「お姉ちゃん、きれいだね」
「え? ああ」
あたしは爪を翳して見せた。「これ? いま磨いてたからね」
「ううん、そうじゃなくて」
「……」
「爪も綺麗だけど。顔も。お姉ちゃん、高校に入ってからすごく綺麗になった」
 あたしは、そう? と首を傾げ、そうしてからまたマナの頭を撫でた。
「ありがと。褒められると、たとえ相手が妹でも嬉しいもんだね」
 
 
 桜木先輩と出会ったとき。あたしにはつき合っているひとがいた。中学校のときの男バスの一年先輩で、そのカレは西高に進学していた。あたしも本当は西高を目指していたのだけれど、学力が足りなくて、それで南高へ来たのだった。
 一年以上も親しくつき合っていた西高のカレより、桜木先輩をずっとずっと好きだと感じるまでに、そう時間はかからなかった。ひと目惚れ、と言ってもよかったかもしれない。
 飾らない喋り方。気さくな笑い方。笑うとくしゃっと垂れ下がる涼しげな目許。血管の浮き出た手の甲。
 会うたび、桜木先輩を欲しいと思う気持ちは強くなった。自分だけのものにしたい。あの大きな手で触れられたい。そう思うようになった。
 西高のカレとは、だからすぐに別れた。別れるとき、多少のいざこざはあったけれど、もうどうしようもなかったのだ。欲しいものは欲しいし、いらないものはいらない。好きなひとができたと伝えてもなお縋ろうとするカレに、最後は嫌悪すら覚えていた。
「また、わからないことあったら、訊いていい?」
 マナが幼い顔で無邪気に訊ねる。
「いいよ。でもお姉ちゃんに訊く前に、自分でもう少し考えるようにしたほうがいいね。いまの問題だってそんなに難しくはなかったでしょ?」
 マナはえへへと笑いながら肩を竦めると、
「そうする」
言って、部屋を出て行った。たぶん。また来るだろうと、あたしは閉じたドアを暫し見つめた。
 マナは自分に甘い。賢明だけれど、今ひとつつめが甘い。だから太るのだ。
 再び机に向き直り、ヤスリを手に取った。磨けば磨くほど艶の出る爪。マニキュアなんか塗らなくたって充分綺麗だ。


 桜木先輩に好きなひとがいるのは知っていた。村井先輩が、よくそのことで桜木先輩をからかっていたから。
 同じクラスの、目鼻立ちのはっきりとした、背の高い、とても綺麗なひとだった。
 そのひとと両思いになったらしいと、村井先輩から聞かされたときは、声も出ないほどにショックだった。
 正直、負けてないつもりでいたから。桜木先輩に一番近い位置にいるのは自分だと、そう思い込んでいたから。
 だって。あの頃、あたし達は本当に仲が良かった。部活の後、カラオケに行ったり、ファミレスやコンビニに寄ったり。桜木先輩と帰る方角が同じだったあたしは、ふたりきりになる機会も、他の、桜木先輩に片思いしている友人よりも多かった。桜木先輩のカノジョになるのは時間の問題だと、自惚れでなく、確信していたのに。
 何が足りなかったんだろう。あのひととあたしの差って何だろう。考えても考えても。答えなんかみつからない。
 桜木先輩はあたしの気持ちにさえ気づいていないみたいだった。失敗した。いっそ告白してしまえばよかったのかもしれない。
 だけどまだ、大丈夫。
 爪を目の位置より高く掲げ、光に照らした。
 桜木先輩とカノジョにはまだ決定的な何かが足りない。見ただけでそれはわかる。
 桜木先輩のカノジョ。綺麗だけれど全く隙のない気の強そうな顔をしたカノジョ。
 きっと勿体ぶっているのだろうと思う。或いはただ単に臆病なだけなのか。
 そして知らないのだ。
 十代の男の子の、吐き出しても吐き出しても際限なく次から次へと湧き出してくる欲情を。まるでこちらが尊い者にでもなったかのように崇められ求められる喜びを。
 あのカノジョはまだ知らない。
 あたしだったら、と。あたしは自分の両手の指先を見つめる。薄いピンク色につやつやと輝く爪。
 あたしだったら先輩の思うとおりのことをしてあげる。好きなようにさせてあげる。望みどおりに。何でも。
 爪を磨くヤスリのセットを、帆布でできたボックスの中に丁寧に仕舞いシェルフに片づける。そうしてから、ベッドに身体を横たえた。


 タイミングが悪かったのだ。
 告白のタイミングも。それからあのときも。
── あたし二番目でも構いません。
── あたし、別に二股でも構わないんです。桜木先輩と一緒にいられるんだったら、あたし。
 もう少し後に、村井先輩と野々村先輩が現れてくれていたらよかったのに。どうしてあのタイミングで現れるのだろう。この恋は、どうにも上手くいかないことが多過ぎる。
 ぎりっと。思わず磨きぬいたばかりの親指の爪を噛んでいた。
 あのとき。
 真摯な瞳の裏側に走った迷い。
 ほんの僅かな間だったけれど、桜木先輩の瞳の中には迷いがあった。指先で触れられるほど近い距離に、数センチ先にあった、先輩の欲。
 タイミングが悪かった。
 目的がこちらのからだであってもあたしは構わない。その時間だけでも桜木先輩を身近に感じることができれば、それでいい。
 初めはそうでもすぐに心を通わせる自信はあるのだ。
 それにしてもうまくいかない。そこまで辿り着くことさえできない。いったい何をどこでどう間違えてしまったのだろう。こんなにもあのひとが欲しいのに。
 自分のからだを両手で抱きしめ、瞼を閉じる。
── 雨宮。
 桜木先輩の、「雨宮」と呼ぶ声が好き。自分より年下の女のコへのいたわりを含んだ優しい声。大切に扱われている心持ちがする。それだけで、とても幸福な気持ちになれる。
 いつか見かけた、ふたり並んで歩く後ろ姿が思い出されて、胸が痛んだ。カノジョの黒い髪が、肩先で揺れていた。笑っているのだとわかった。斜め後ろから見えた桜木先輩の頬骨はずっと上がったままだった。垂れた目許がちらちらと見えた。桜木先輩は楽しそうだった。
 好きなのだと思った。
 桜木先輩はあのカノジョを好きなのだ。
 苦しい。
 本当に欲しいただひとつのものが。どうしても手に入らない。
 どうすればいいんだろう。
 このまま。ただひたすら指をくわえ、ふたりの仲睦まじい様子を眺めつつ、小さな隙間から零れ落ちてくるチャンスを待つべきだろうか。
 それとも。もっと積極的に仕掛けるべきか。
 ずっと悩んでいるけれど。結論は出ない。
 手を伸ばし、ベッドの隅に放り出していた携帯電話を手に取った。
 あのひとにメールを打つ。明日のこと。明後日のこと。うざがられても返事がなくとも。先輩のなかのあたしの存在が消えることがないように。あたしは毎日メールを送りつづける。
 緑色にうっすら光るボタンの上を、器用に動く指の先。その、親指の爪の先のほうが少しだけへこんでいるのが目について、ざわりと背中が粟立った。
 光沢のある爪に自分でつけた小さな疵。それは思いがけずあたしのなかの野蛮な気持ちを刺激して、手にしていた携帯電話を、あたしは乱暴に投げつけた。

(完)

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