いつも手をつないで 19.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 校門を出ると学校から続く歩道は舞い降りた扇形の銀杏の葉に埋め尽くされていた。その上を磯崎涼一は眉を顰めながら慎重に歩く。葉っぱだけなら構わない。だが、ところどころに黄土色の実が混ざっていて強烈な異臭を放ち鼻孔を刺激していた。靴の裏についた銀杏の実の匂いはなかなか落ちてはくれないのだ。
 涼一は足元にばかり目線を向けて歩いていた。
 ふと気が付くと自転車の車輪が自分と並行して進んでいる。顔を上げると広瀬達也が少し心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
 突然の質問に
「何が?」
 涼一はきょとんとしてしまった。
「何か、背中に哀愁が漂ってたぞ」
顔に似合わないことを言う。
 涼一は笑うと
「いかに銀杏の実と共存すべきか考えてたんだよ」
「は?」
「お前は平気みたいだけどな」
 達也の自転車のタイヤには潰れたオレンジ色の実がべっとりとこびりついていた。達也は全く気にしていない。こいつのこういうとこは見習いたいものだと思う。
 達也は自転車に跨ったままで涼一と並んで進みながら訊いてきた。
「お前、今日直接塾に行くの?」
「ああ。一旦帰ってから行くと面倒臭いから、このまま行く」
「そっか・・」
達也はペダルに足をかけると、「じゃ、後でな」
強く踏み出した。
 涼一は軽く手を上げて達也の黒い学ランに覆われた背中を見送る。あいつの後ろ姿には哀愁は全く漂っていないよな、と思いながら。


 果南は夏休みの終わりに日本を発った。
 見送りには行かなかった。
バレエ教室の人間や、学校の友達も来ると言っていたので、俺は行かないよ、という涼一の言葉に果南はいいよ、と笑って頷いた。


 涼一は歩道に連なる銀杏の並木を見ながら、二年生の時に一度だけ果南と手を繋いでここを歩いて帰った日のことを思い出していた。
 あの時この木は何色の葉を身に纏っていただろうか。全く覚えていない。
 思い出せるのは果南の幼い頃とは全く違う指先の感触とぽろぽろ涙を零して泣いている顔だけだ。


 昨日自宅のパソコンに果南からメールが届いていた。
 厳しいレッスンに身体が慣れてきたことや、英語がよくわからないのでバレエ史や人体のしくみについての講義が退屈で仕方がないこと、日本から来た同じ留学生と少し打ち解けて話ができるようになってきたことなどが書かれてあった。
 最後に、
『涼ちゃん。あの約束絶対忘れないでよ。あたし、ほんとに待ってるからね。絶対だよ』
そう書かれてあった。
 涼一はパソコンの画面を見ながら苦笑してしまった。毎回書いてあるのだ。ちゃんとそう念押ししないと涼一が忘れてしまうとでも思っているのだろうか。


 夏休みのあの日。
 果南と一緒に手を繋いで、陽の落ちかけた海岸沿いを歩きながら涼一は
「俺が向こうに行く」
 凛然とそう言った。
 果南の足が止まる。道路にまで舞って来ている浜の砂粒が靴底に擦れて、じゃりっと音を立てた。
 果南の目も瞼も真っ赤になっていた。果南はずっと泣いていた。涼一は果南の呆けたような顔を見詰めながらもう一度告げた。
「俺が向こうに行くから」
 果南は言葉の意味が直ぐには理解できなかったようで少し唇を開けて首を傾げた。涼一は真剣だった。
「ずっと考えてた」
「涼ちゃん?」
「絶対無理だと思ってた」
けれど、口に出したら実現できそうな気がしてきた。「果南がずっと向こうで暮らすんだったら、俺が行くから」
「行くっ・・て?」
「大学に入ったら休みの度に会いに行く。俺が卒業してもお前が帰って来なかったら、俺がお前のいる所で暮らすから」
「それって・・・」
「だからもう泣くな」
「・・・」
「ずっと一緒にいたいとか、離れたくないとか、無理なことばっかり言って泣くなよ」
「涼ちゃん・・」
「今は無理なんだよ。俺達、まだ全然ガキだろ?」
「・・・」
「でも、もっと大人になったらさ、絶対何とかできると思うから」
涼一は繋いでいないもう片方の果南の手も握った。「だから、もう泣くな」
「うん・・・」
 そう答えながら再び果南は大粒の涙を流し始めた。
「・・・泣くなってば」
「だって、涼ちゃんがそんなこと言うなんて、信じられないよ」
「何で?」
「涼ちゃん、いつだって、諦めてるみたいな顔してたから」
「・・・」
「・・あたしがいなくなったら直ぐに今のふたりのことなんか忘れちゃうと思ってた。それでいいと思ってるんだって。そう思ってた。涼ちゃん、ずっとそんな顔してたから」
 涼一は果南の鋭さにあっ、と舌を巻く。
 そうだ。自分はずっと自分達の関係はこの夏で終わりだと諦観していた。そんな風に見通していたほうが気持ちが楽だったから。
 けれど心の奥底ではどうにかしたいともがいてもいた。
 この繋いだ手を離したくない、と本当は、心底切望していたのだ。
「忘れられるんだったら楽なんだろうけどさ」
「・・・」
「やっぱ、できそうにないから・・」
 涼一は言うと果南から目を離して再び歩き始めた。今にも込み上げてきそうな嗚咽をぎゅっと胸の中に押し込む。
 夕陽に照らされた波高はきらきらと輝いていて、眩しかった。海も空も橙色に染まっていた。中心にある大きな丸い太陽は少しずつその姿を水平線に隠し始めていた。
「・・・て言うかさ」
「うん?」
「お前が日本でもやっていけるくらい有名なダンサーになればさ、それが一番いいんだからな」
 果南は少し考えてからそうだね、と言った。笑いながら繋いだ涼一の手の甲で涙を拭った。
「・・・がんばれよな」
「うん」
 果南は珍しく力強い返事をした。
 ふたりはそれからスタジオワンに向かった。
 バレエ教師は何も言わずにふたりを迎え入れると、バーレッスンだけでもしていくようにと果南に言い、涼一にも見学して行くように勧めた。
 涼一は果南の少しずつほぐれていく身体の柔軟さに見惚れながら、やっぱり果南は柔らかな鋼の持ち主だと、そんなことを思った。


 涼一は足を止めると黄色い葉を際限なく降り散らす大きな木を見上げる。
 秋の様相を呈した木々の枝から覗く、雲に覆われた空を見詰めながら今日家に帰ったら真っ先に果南に返事を打とうと思った。
 果南はどんな表情で自分からのメールを読むのだろうか。想像してみようとしたけれど、涼一の頭に思い浮かぶのは泣き腫らした目をしたあどけない果南の顔だった。
 涼一はふっ、と唇を緩めると足を踏み出した。先程よりも少し早足で歩く。
 もう足元は気にならない。気にしない。
 真っ直ぐ前を向いて歩を進める。頬に当たる弱い風は昨日よりも冷たくなっていて、街の空気は少しだけ冬の気配が漂い始めていた。


(完)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL

|||||||||||||||||
© Chocolate Cube- 2005