HOME / NOVEL 彼女にむかって吹く風 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 男は爆弾のような不安を胸に抱えひとり震えておりました。 初め不安は小指の先ほどに小さく存在すら漠然としていたのです。 不安はその存在を誇張するように日増しに成長していきました。どうやら彼の幸福を肥やしに大きくなっているようなのです。彼がそのことに気付いたのはけれど最近のことでした。 今、彼の小さなピンク色の心臓は、成長しすぎてしまったそれに押し潰されそうになっています。少しでも何かの拍子にまた別の悩みが圧し掛かってきたならば、間違いなくパンクし、そこらじゅうに鮮やかな赤い血を巻き散らしてしまうことでしょう。 梅雨は明けました。 空は高く薄い水色一色です。 生温い風が時折男の首筋を撫でるように通り過ぎ、滲んでいた汗が滴ります。男は女の吐息のようだと思いました。そうしてまたふっと眠っていたはずの不安が起き上がりむくむくと膨らみ始めるのです。 男は数年前まで普通の美容師をしておりました。カリスマとは到底呼べない普通の美容師です。腕は良かったのです。彼に足りないのは積極性と世の中を渡る上での器用さでした。美容業界で生きていくためにメイクの勉強も始めました。彼は誰かを綺麗にすることにこの上ない悦びを見い出していましたから。それが自分の使命だ天命だと信じて疑っていませんでしたから。 仕事をしながらの学校通いです。職場に迷惑をかけたくはありません。削ったのは睡眠時間です。寝る間を惜しんで努力する。そうすればまた誰かひとり、殻を破り生まれ出で立つ蝶のように美しい人間を作り出すことができる。頭の中はそれだけでいっぱいでした。彼はかように真面目で、その手先の器用さとは対照的なまでの不器用な生き方しかできない人間だったのです。 男はひょんなことから途轍もない財産を持った中年の女と出会うことになります。女には夫がおりました。女と夫はすでに戸籍上の繋がりだけと成り果てていたようで、女は男を誘惑します。 「私に奉仕なさい。代わりにあなたにはお店を一軒あげましょう」 いわゆるパトロンというやつです。 真面目な男ではありましたが、女の囁きにいとも容易く屈してしまいました。この大都会で自分の店が持てる。女と出会う前の彼にとって、それは全く想像の中だけの叶わぬ夢物語でありました。手中できるチャンスをどうしても逃したくはなかったのです。 男の指は魔法の指でした。 操るだけではありません。感じることもできるのです。指先で髪や肌に触れただけでこれから自分のなすべきことが瞬時に頭に浮かぶのです。浮かぶと同時に指は仕事を始めます。有能な十本の指なのです。 元来の才能と彼自身気付いていないその器量で男はマスコミで取り上げられるようになりメディアにも露出し、一躍有名になりました。 店は二軒三軒と瞬く間に増えていきました。 階段をひとつ上がるたびに不安は大きくなりました。もしかしたらこの階段を、自分は上っているつもりでいるけれど、本当は転げ落ちているのではないか。あるいは何か些細な過ちを犯しただけで壊れてしまうガラス細工の階段なのではないか。彼は足元を見ることすらできないほど怯え、やがて心の安定をうしなっていきました。杞憂なのです。けれどそれが彼の真実でもあるわけです。 彼の不安は、ひとつはいつか元の普通の美容師に戻ってしまうのではないかということでした。元々始まりが虚構だったのですから、そうなってもなんら不思議ではないような気がするのです。何故元の普通の美容師に戻りたくないのかと男は自分自身に何度も問いかけてみました。普通の美容師に戻ればこのような不安に苛まれることもないではないかと。自問自答は毎日のように繰り返されました。 答えは出ません。 人間とは真に富と名誉を欲するイキモノだと。そして自分もその人間のひとりであるということに。 男はまだ気付いていないのです。 もうひとつの不安はパトロンの女がいつか自分から離れていくのではないかということでした。愛してなどいないのです。感謝の念だけは例えようもないほどありはしますが、愛とは全く別物なのです。彼はベッドの中で自分自身が役に立たなくなることが怖くて怖くて仕方ありませんでした。 パトロンと知り合ってから十年という年月が経っていましたから。女の容貌と肉体の崩れは落下の一途を辿っていたのです。 奉仕できなくなればパトロンは離れていくでしょう。そうなればひとつめの不安に逆戻りです。 彼はもう自分が何をしているのかそれすらわからなくなっているようでした。 不安と追ってくる時間とに塗り固められていく生活の中で。 指は魔法を使う術をうしなってしまいそうでした。 ひとりの若い女が公園のベンチに腰かけているのが目に留まりました。 Tシャツにジーンズというラフな格好をしています。 三つ編みにした細い髪が肩の上で可愛く跳ねていました。小さな顔にかけられたオレンジ色の丸い小粒なサングラス。その下の瞼はいつもどおり閉じられたままでした。あたかも空から吊り上げられたかのように背筋をぴんと伸ばして座り、手には白く細長い杖がしっかりと握られています。 日の高い日中のことです。 鬱蒼と緑の葉の生い茂る大きな木陰のベンチは、いかにも涼しそうに見えました。 男は若い女に見覚えがありました。 最近はひどい肩こりに悩まされていましたから。腕のいいマッサージ師として紹介されたのが目の前で凛と佇むこの若い女だったのです。 彼女の指もまた魔法を使えるようでした。 すうっと。 また。 撫でるように風が吹いていきます。 ぼんやりとただ座っているだけに見える若い女ではありますが、彼はおそらくはそうではないだろうと思いました。 女は全身の皮膚で、見えない空気を感じ取っているのです。いいえ。空気だけではありません。おそらくは視線も。 女の神経が少し離れた位置にいる自分に注がれていることに男は気が付きます。 どうしようかと迷います。 このまま知らぬ振りで通り過ぎることも確かにできるでしょう。けれどそれでは少し寂しいような気もするのです。若い女とほんの少しだけ会話を交わす時間を取ってみるのも悪くはないかもしれないと男は考え始めていました。 突然声をかけてはいけないと、驚かしてはいけないと、彼は軽く土を踏みしめ足音を立てて歩み寄りました。 「こんにちは」 女は聞こえた声を脳に運び自分の記憶と照らし合わせているようでした。やがて口許を緩めます。怪訝な顔から柔らかな微笑へ。警戒心の一切取り払われた見ていて清々しい微笑みでした。男を安堵させる笑みでもありました。 「こんにちは」 「隣に座っても構いませんか?」 「どうぞ」 線の細い声でした。 ゆっくりと腰掛けると、そこにはびっくりするくらいひんやりと冷たい空気が滞っているではないですか。男は感心しました。若い女の視覚以外の感覚で探し当てた居場所です。 「僕が誰だかおわかりになりますか?」 「ええ」 女はくすっと笑い男の名前を口にしました。 「すごいな。声だけでわかるものですか?」 「大抵はわかります」 女の背筋はぴんと伸びたままでした。 男はそっと女の顔を盗み見ます。顎の華奢な、イマドキの女のコらしい顔形をしていました。スタイルも、背は高くスリムで決して悪くはありません。その若い女に白い杖は途方もなく不釣合いに見えました。ジョン・レノンのような丸いサングラスも決して似つかわしくはありません。 小さな顔には化粧がきちんと施されています。以前、うかと質問してしまったことがあるのです。誰に化粧をしてもらっているのかと。自分でしているのだという答えに男は心底驚いたものです。 若い女は自分がじろじろ見られていることに直ぐに感づいてしまうことでしょう。視覚をうしなった人間に対しそうするのはとても失礼なことのように思えました。男はすっと視線を逸らしました。 若い女の神経が今どこに向っているのか男にはわかりませんでした。自分のようでもあり、遠く離れたところにいる人々のようでもあり。今、頭上で葉擦れの音を立てている風のようでもありました。 若い女は敏感でした。本当は全て見えているのではないかと疑ってしまうほどでした。いいえ。自分達とは違う別の、何か特別な感覚を備えているようでもありました。 初めて彼に触れたとき、 「ずいぶん疲れていらっしゃいますね。特に肩から腕にかけてと手が…。なんだか泣いているみたい」 泣いている。 そう言って、魔法の指は肩から指の先までを丹念にほぐしていきました。 肌に触れただけで年齢や性別がわかるのだと女は言いました。男の年齢もずばりと言い当てました。 「職業もわかりますか?」 「そこまでは…。でも、指の先まで使っていらっしゃるようですから。なんでしょう。最近はパソコンを使われる方も増えていらっしゃいますけど…」 んー。と、若い女は指を、手を、腕を動かしながら真剣に考え始めました。その顔はひどく無防備に見えました。若い女の力は思いのほか強く、彼は少し驚きました。そして彼女の指が辿ったさきの凝りが、疲れが、すうっと抜けていく様にもまた仰天したものです。大したことはしていないかのような動きでありながら、十本の白い指先は彼の全身を隈なく弛緩させていくのです。 「ヒントをください」 「ヒント、ですか?」 見ると、若い女はいたずらっ子のように笑っていました。オレンジ色のガラスの下の瞼は閉じられていましたが、その先の睫は細かに揺れているのが見て取れました。 「鋏を使います」 男は相手には見えないと知りつつもつい手を動かしながら答えていました。 若い女の唇が、あ、という形に開きました。 「それはヒントというか、もう答え、ですね」 「ですねえ…」 「美容師さん?理容師さん?」 「美容師です。と言っても、髪を切るだけではなくて、メイクもします」 「そうなんですか?」 女の顔がぱっと輝きました。まるで、あたかも彼の手に因って美しく仕上がった自分の顔を見たかのような表情でした。 その日は何も言わなかった若い女が、自分にもし何か特別な日が訪れたならば、そのときはメイクをお願いしてもかまいませんか、と口にしたのはそれから三度目の施術のときでした。 特別な日とはどんな日なのだろうかと男は考えました。 やはり女であるからには初めてのデートであるとか結婚であるとかそういう日のことだろうかと、思いをひっそり巡らせたりもしたものです。 若い女はハタチになる前に視力をうしなったのだと言いました。 近視はすすんでいたものの、眼鏡の度数もそれほどではなく、ある夜、ひどい頭痛にのた打ち回り、病院に運ばれ、翌日にはもう自分の視界には闇しか広がっていなかったのですと、まさしく青天の霹靂のようにそれはやってきましたと、淡々と、明るく、別の誰かのことを話すように若い女は説明してくれました。 「わたしよりも、両親の絶望が大きすぎて。両親の嘆く様子に絶えられなくて家を出ました」 自分も一緒に深い悲しみの沼に引き摺り込まれてしまいそうでしたと、若い女はそれでも朗らかに語りました。 では、あなたに絶望や失望はなかったのですかと、男は思わず訊ねておりました。意気込んだ醜い声でした。若い女の、その身に降りかかった出来事にそぐわない明るさがひどく不気味に思われたからでした。 そして自分の抱える不安など、なんと瑣末なことなのか。そう思えてなりませんでした。責められているような気すらしたのです。 口にしてから後悔しました。まるでコドモだと思いました。 男の全身を羞恥が覆います。 赤くなった顔を若い女に見られなくてよかったとほんの一瞬安堵し、いや、きっと彼女は悟っているに違いないとも考えました。 視力をうしなってすぐの自分の気持ちを言葉で言い表すならば、それは絶望や失望とは全く種類の違う、恨みと言ってもいい気持ちだったのではないかと若い女は言いました。それは黒々と自分の心全てを染め抜いていましたとつづけました。 「恨み?」 「はい。そうだと、今でも思います」 「誰に対する?」 若い女は小首を傾げました。 「今でもわかりません。…強いて言うなら、わたしの生きる道はこちら側だと導いた何か、でしょうか。それが何なのかわかりませんけど。でも、人間ってそういう何かに抗えずに支配されて生きてますよね?努力だけではどうにもならない力がこの世には確かにあるとわたしは思うんです。導かれたほうで精一杯生きていくしかないというか…」 懸命に言葉を探しながらつづけます。「死も考えました。もう自分はこれまでと同じ生活を送ることはできないのだと思うと生きる気力はことごとく削がれていきましたから。でも、死ぬこともできなかった。だって、見えないんですから」 何も。 本当に何も見えませんでした。 そう言って若い女は笑いました。 「歩くことすら怖かった。目の前に突然何が飛び出してくるのかわからなくて足はすくんでばかりいました。とにかく、この生活に慣れなくてはいけないとそこから新しい生活が始まりました」 弟と妹が自分を救ってくれましたと若い女は、これまでにないほどにこやかに微笑みました。そして、自分の化粧も髪型も、服装も、身なりについてはすべてふたりにチェックしてもらっているのだとも言いました。 「あの…」 若い女の声がほんの少し小さくなりました。 「はい?」 「わたしの化粧は、おかしくはないですか?」 男は若い女を微笑ましく思いました。 「いいえ。少しも」 もしも自分が、若い女の特別な日に、例えば、恋に落ちた相手との初めてのデートの日にメイクをするとしたならば。 まず下地はどんな風に仕上げようかと男は考え始めました。 彼女はぬけるように肌が白いから、少し明るめのカラーにしたいとどこからともなく声がしました。ピンクのコントロールカラーと、それから、コンシーラーも使いたいと思いました。目許はどうしようかと男は思い巡らします。ラインを強調する必要はないように思いました。サングラスの色は薄いピンクに替えて、パールを瞼に散らしたらどうだろうかと頭の中でその様をくっきりと浮かび上がらせることができました。 でも、やはりその肌に触れてみないことにはわからないと男は思いました。 気が付けば先ほどから、十本の指先がうずうずしているのでした。 髪型も。 その三つ編みをほどいて髪質を実感してみないことにはわかりません。 男の指が労働を求めていました。 魔法を使いたがっているようでした。 木陰は相変わらず日が翳り涼しかったのです。もうじき店に戻らなくてはなりません。 男は女の横顔をもう一度眺めます。 風がすうっと、通り抜けました。 若い女は顎を少しだけ上げ、風と向き合うような仕草を見せました。 彼女にむかって吹く風にだけ、季節の匂いや、温度、音さえも孕んでいるように見えました。 「もうじき、店にもどらないと…」 男は言い訳のような口調で言っていました。 「そうですね。わたしも…」 若い女に男は最後の質問を投げかけてみました。 あなたを見えない世界に導いた何かに、今も、恨みを残していますかと。男は遠慮を忘れて質問していました。 若い女はくすりと笑いを落としました。本当に可笑しくて仕方がないといった風に。 「わたし。とても腕のいいマッサージ師なんですよ」 その顔はとても誇らしげに見えました。 暫し男はその光るような表情に見惚れていました。吸い込まれるようなきらめきを放っているかのようだったのです。 参ったな、と。男は苦笑するしかありません。 「確かに、そうだ…」 ぼくも腕のいい美容師です。 そう胸の内でだけ呟き、男はベンチから立ち上がりました。 「じゃあ、また」 「はい。また、お待ちしております」 ふたりは軽く挨拶をして別れました。 公園を出るとき、男はもう一度若い女を振り返りました。 その凛とした佇まいを確認したいと思いました。 けれど大きな樹の下には、誰も座っていない空っぽのベンチがあるだけでした。 (完) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ HOME / NOVEL |