恋い焦がれ
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 嵯峨迅太さがはやた。通称ジンタ。
 ジンタはわたしの幼なじみ。小学校三年生のときに隣県からうちの近所に引っ越してきた。当時のジンタは女のコと見紛うばかりの愛らしい顔立ちをしていた。ぽっと咲いた白い花のような。そこにいるだけで周りのひとをあたたかな気持ちにするような。初めて嵯峨のおじさんとおばさんに連れられて挨拶に来たジンタを見たとき、
「あら、なんて可愛いお嬢さんなのかしら。うちの里香りかと同い年なのね。学校に慣れないうちは大変だから、仲良くしてあげるのよ、里香ちゃん」
とわたしの母が思わず口にしてしまったほどだ。母親の後ろに隠れもじもじしているジンタはそれくらい可愛らしかったのだ。
 それがいまやすっかり有名になってしまったバンドのギタリストなのである。小学校六年生の頃、友達のお兄さんの弾くエレキの音色にひと目、いやひと耳惚れしたのがきっかけだった。後はもう一直線、「俺はプロのギタリストを目指すんだ」と、恥ずかしげもなく豪語するギター少年となってしまったのである。頭は真っ赤。耳にはピアスの穴がいくつも開き、じゃらじゃらと首も手首もアクセサリーだらけの奇抜な男のコとなってしまった。うちの母なんかはあからさまに眉を顰めていたけれど。大人になり一層うつくしくなったジンタはそんな格好でさえよく似合っていた。
 まさか本当にプロのギタリストになるなんてね。驚き。
 ジンタってばお勉強はできないし、愛らしい顔そのままに性格も消極的で、傍から見てるとちょっと心配なとこもあったんだけど、好きなものにはとことん一途で一直線、夢に向かって果敢に突き進むタイプの結構泥臭いやつだったんだね。よかったね夢が叶って。わたしはずっとジンタだけを見てきたからね。心からそう思えるよ。
 ジンタは作曲も手がける。バンドの曲だけじゃなく有名なアイドルの曲を作ったりもしている。
 幼なじみのわたしとしても鼻が高い。
 ジンタがプロになった頃、ジンタの後を追うようにしてわたしも上京した。暫くは近くにアパートを借りていたのだけれど最近はずっとジンタの部屋にいる。朝も昼も夜もなくずっと。この部屋でジンタに寄り添い、ときにジンタの帰りを待ち侘びている。
 たまに田舎の実家に帰ることもあるけれど。
 母はこんな風になってしまったわたしを嘆いている。
「里香ちゃんは小さな頃から大人しくて親の言うことをちゃんときくほんとに素直ないい子だったのに。どうしてこんなことになってしまったのかしら。大学があるのに勝手に上京して……。きっと嵯峨さんちの迅太くんが悪いのよ。彼が里香を誘惑したのよ、決まってるわ」
 この頃の母は少しおかしくなっている。隣にいるわたしの話などきちんと聞きもしないで父親にぐちぐちねちねちと愚痴り、とにかく始終泣いてばかりいるのだ。父は父で元々不細工な顔をむすっとさせたまま全く口を開かない。たまに何か言っていると思ったら、よくわからない言葉をこれまたぐちぐち連ねている。そんな人たちと一緒にいてもつまらない。
 別にいいんじゃないのー。二十歳をとっくに超えた娘が男の子と同棲してたってさ。ちっとも不思議じゃないと思うんだけど。そりゃあ、わたしはひとり娘だし。昔から頭だけは良かったし。父や母がどれだけわたしを大事にしてくれていたのかも、そしてその将来にどれだけ大きな期待を寄せてくれていたのかも、わからないでもないんだけど。
 ここ最近は実家に帰るのがほんと憂鬱。母に泣かれるのも勿論嫌なんだけど。それだけじゃなく、あそこはいまのわたしには居心地の良過ぎる場所なのだ。安寧と安穏。何だかふわふわといつだって眠くなる。ジンタの部屋に帰るのがひどく億劫になる。やばいじゃんって。そう思う。ダメだよ。まだ若いんだから。ぬくぬくと親の庇護の元暮らすだけじゃ人間成長しないんだよ。都会の厳しい風にも吹かれなきゃね。

 
 ジンタがギターを抱えている。ジンタ自慢のギターだ。この部屋には何本ものギターが立て掛けられているけれど、ジンタの一番のお気に入りはこれ。リッケンバッカーのビンテージモノ。いつだったかここへ訪れた友達に嬉しそうに自慢していたっけ。ギターにどんな価値や違いがあるのか、正直わたしにはよくわからない。素人にはどれもこれも同じ音にしか聞こえないのだ。でもまあ、ジンタの嬉々とした顔を見ているだけで幸せだからいいんだけど。
 ジンタが哀しいメロディを奏でている。ポロンポロンと元気のない音。
 どうしてだろうアンプに繋いでいないギターの音は小さく哀しく響いて聴こえる。
 邪魔すんなって怒られても構わないからわたしはぴたりとジンタの隣に寄り添いその音に耳を傾けた。
 ジンタは最近ハードな曲を作らなくなった。大人しめな曲ばかり。どうやらこのところ調子があまりよくないみたい。テレビ関係者のひとがひそひそ話してるのをこっそり聞いたことがある。もしかしたら落ち目なのかも。芸能界は浮き沈みの激しい世界だからね。
 だけど大丈夫だよ、ジンタ。
 わたしがいるから。
 ジンタがどんなに世間から相手にされなくなったとしても大丈夫。わたしはずうっとジンタの傍に居るからね。
「寒いな」
 ジンタは言うと、ギターを置き。そのままベッドに潜り込んだ。わたしもすかさず隣へと身体を滑り込ませる。
 ジンタの胸は温かい。
「好きだよ、ジンタ」
 言うと、ジンタが笑った。ふっと。口許を緩め嬉しそうに恥ずかしそうに笑ってくれた。
 ジンタの剃っていない髭がちくちく当たる。
 わたしとジンタは幼なじみ。
 わたしはジンタのことをずっとずっと好きだった。
 かっこつけでナルシストで勉強はからっきしダメだったけど。わたしはジンタが初めてうちに来たあの日。ジンタにひと目惚れしたのだった。小さな頭も細い顔の形も頼りない顎の骨格もすうっと高い鼻梁も長い睫も大きな瞳も全てがわたしの好みにぴたりと一致していた。わたしの欲しいもの全てがそこにはあった。
 ジンタとご近所さんになれて、いまこんな風に一緒に暮らせていること。それがどれほど幸せなことか。あんなヒキガエルみたいな顔の父と結婚した母にはきっとわからないだろう。神様にいくら感謝してもし足りないくらいだ。
 初めて身体を重ねた日のことをわたしはよく覚えている。
 とてもとても暑い夏の日だった。わたしとジンタは高校生になっていた。別々の学校に通っていたから一日中一緒にいられる夏休みはふたりにとってとても貴重な時間だったのだ。
 両親の留守を狙ってジンタの部屋で抱き合った。
 涙と汗と唾液と血液とジンタの放った体液と。
 そんなものを互いの身体に染み込ませるようにしてわたしたちは夢中で交じり合った。
 若かったなあ。といまにして思えばあの熱情に感心しちゃう。
 寝息を立て始めたジンタの睫にそっと触れてみた。
 睫が微かに震えた。
「好き」
 あの夏の日から五年。
 わたしはいま尚、ジンタに恋い焦がれている。


「お願いしますよ秋本あきもとさん。俺、ギターの腕自体は全然落ちてないんですよ。もうあのバンドに戻りたいなんて言いませんから。どこか紹介してもらえませんか。ツアーのバックバンドでも歌番でもスタジオだけの仕事でもいいです、何でもしますから。俺、ギター以外ほんと何にもできないんですよ。お願いします。俺、秋本さんしか頼るひといなくって」
 ジンタはやっぱり何かやらかしてしまったらしかった。だから。ここのとこあの部屋にいることが多かったのだ。
 コメツキバッタみたいにぺこぺこ頭を下げるジンタを秋本さんというひとは一瞥しただけですぐに視線を逸らせた。
「まだ早いよ、嵯峨君。あんな事件起こしといてそうそう簡単に戻れるほどこの世界は甘くないよ。そりゃギターの腕がいいのは認めるけどさ。作曲の才能もね、あるよ、確かに。だけど仲間の奥さんに手ぇ出したらダメだよ。その上、まあ、君が直接したことじゃないとはいえ、あんなことになってさ。もうあのバンド自体ダメなんじゃないの。解散でしょ。レコード会社もプロダクションもとにかく大損害なんだよ。それって全部君の所為だよね。いまそういう君に恨みのある奴らがみんな君を潰しにかかってる状態なんだよ。だから。そうだな。あと三年くらいは大人しくしてたほうがいいんじゃないの。君の田舎、どっか西のほうなんだって。そっちに帰ったほうがいいんじゃないのかな」
「お願いしますよ、秋本さん」
「ってか。君、また痩せたね。いくらミュージシャンはスリムなほうがいいっていったって。それ、いくらなんでも痩せ過ぎでしょう。顔色も良くないし。ほんと、一度、ご両親のところに帰ったら? 悪いこと言わないからさ」
 ジンタは下げた頭を上げなかった。秋本さんという人が姿を消すまで腰を曲げたままだった。たぶん。涙を堪えているんだと。そう思う。
 わたしは何だか悔しくて、そこにジンタを残したまま秋本さんの後を追った。
「待ってください」
 まさかわたしが追ってくるなんて想像もしていなかったのだろう、秋本さんはぎょっとした顔で振り返り、でもそれだけだった。首を傾げながら、さっさと行ってしまった。
「だけど、あれですね。嵯峨君。ちょっと可哀相ですね。あんなナリしてるけど、結構真面目なやつなんですよ。それにギターバカだから、この世界でやっていけなくなったらマジで暮らしていけないでしょうねえ」
 秋本さんの付き人みたいなひとが言うと、秋本さんは煙草に火をつけつつ頷いた。
「そうだな。でもこの世界、人間関係には厳しいからね。あんな事件、起こしちゃ、ね。もうダメだろうねえ。それにこう言っちゃあれだけど、ギタリストなんて吐いて捨てるほどいるしね」
「だけど、彼は知らないって言ってるんでしょう、その、例の幼なじみの女のコのこと」
「うーん。だけど、日記がさ。残ってたらしいよ。それを女のコのご両親がマスコミに公表しちゃったからさ」
「ああ、あれ。読みましたよ自分も。すい分事細かに書かれてましたよねー」
「嵯峨くんは全部嘘だって言ってるみたいだけど。あれが全部妄想とは思えないだろ? それに仲間の奥さんに手ぇ出したのは事実だしさ。二条にじょう君は一生嵯峨君を許さない、って言ってるし。やっぱりこの世界に戻るのは難しいだろうねえ」
 秋本さんは思い出したみたいに首を捻りわたしのほうを見た。首を傾げ前へと向き直ると、自分の両腕を抱きしめた。
「ねえ、ハマちゃん、ここちょっと寒くない」
「ああ。冷房、効きすぎてますよね」
 わたしは何だか居たたまれなくなってジンタの元へと小走りに戻った。


 ジンタの部屋がダンボール箱だらけになった。
 とうとう引っ越すことに決めたらしい。
 どこに引っ越すのかは聞いていない。でもおそらく都内のどこか。ここはウレてる時分に借りた家賃の高い部屋だから、収入の途絶えてしまったいま、いつまでも居座るわけにはいかなくなったのだろう。今度暮らすのはいまみたいな瀟洒で広くて便利のいいマンションじゃなくて古ぼけたアパートか何かに違いない。1Kのアパート。主要駅から徒歩35分とかそんな感じ?
 田舎には帰れないと、ジンタは言った。
「帰れるわけないよなあ。俺がいま帰ったりしたら消えかけてる火に油注ぐみたいなもんだろ。親にこれ以上嫌な思いさせられないよ。あんな田舎じゃ、歩いてるだけで後ろ指さされるっつーの」
 ジンタは言いながら荷物を詰める。細い痩せこけた身体で働いている。ジンタは最近になってまた痩せた。あの事件以来、ジンタは殆ど食事を取っていない。肉はもう一生食べられないと泣いていた。眼窩は落ち窪み頬骨は尖り皮膚の色艶はうしなわれ骸骨みたいな顔になっている。自慢の赤い髪も根元から黒いものが見えていて、前はそういうのみっともないってこまめに美容院に行ってたのに。いまはそれすらほったらかしだ。洗髪もしていないのだろう。何だか脂が浮いている。花のように愛らしいジンタはどこへ消えたのだろう。
 ジンタの動きが長いこと止まっている。どうしたんだろうと覗いてみると、かいた胡坐の上で雑誌を開いていた。
「ちくしょう。小泉こいずみのやつ。なんだってこんなデタラメ……」
 雑誌の見開きページには、『人気バンド複雑四角関係の顛末』の文字が躍っていた。
『G・嵯峨(23)とVo・二条(28)の妻(28)不倫』
『わたしのジンタを返して! 捨てられた嵯峨の恋人深夜の凶行』
『嵯峨の目前で行われた殺人! そして自害!』
『目撃者が語る! 嵯峨の部屋は血の海だった!』
『嵯峨の元恋人の日記を遺族が公開・遣り切れない思いを切々と告白』
 開いたページには、当事者それぞれの写真と名前が載っていた。高校の卒業写真に違いない制服姿の女。わたしの父にそっくりなヒキガエルみたいな顔をした女。小泉里香(23)。わたしと同姓同名だ。彼女の親はいったいどういうつもりで自分の娘にこんなアイドル歌手と間違えそうな名前をつけたのだろう。
 胸の痛みを堪えつつわたしは記された事件の内容を一文字一文字ゆっくり目で追った。
 ジンタは同じバンドのボーカリスト二条さんの奥さんと不貞関係にあったらしい。ある夜。ふたりの不倫現場に踏み込んできた人間がいた。二条かと思いきやそうではなく、先のヒキガエルみたいな女、小泉里香だった。小泉里香はジンタと同郷で幼なじみ、更には高校生の頃からジンタと肉体関係があったという(ただこの肉体関係という部分について、ジンタははっきりと否定していた。一方的に付き纏われていただけだと言っている)。小泉里香は部屋に入ったときからすでに凶器を手にしていた。端から二条の妻を殺すつもりだったのではなく、あくまで脅すつもりだったのではないかと警察では見ている。どちらにしても被疑者死亡の事件なのだ。
─── ジンタと別れてっ。ジンタを返してっ。あんたにはちゃんとご主人がいるじゃないの。帰ってよっ。お願いだからジンタから離れてっ
─── 何、この女。この踏み潰されたカエルみたいな女、これがあんたの元カノなの? ずい分趣味が悪いのね。
─── 違う。この女、ストーカーなんだよ。昔からそうなんだ。おい、小泉、何やってんだよ、お前こそ帰れよ。って。おい。そんなもの振り回すなよ。どうしたんだよ、おい、小泉、よせって、おい。
 小泉里香はジンタの眼前で二条の妻を刺した。倒れた後も呆けたように動けなくなったジンタを尻目に何度も刺した。そして。自分の首をも掻き切った。
 話しはそれだけでは終わらない。
 小泉里香は日記を残していた。自分とジンタが結ばれた夏の日から今日までの軌跡を。赤裸々に綴っていた。それを、小泉里香の両親がマスコミに売ったのだ。謝罪のひとつもない、いつまでも里香との関係を認めないジンタへの憤りが、そうさせたらしかった。
「なあ、小泉。俺、知ってたよ。お前がさ、昔から泥棒みたいな真似、してたの。勝手に俺の家に上がり込んで俺の部屋漁ってたの。うちの親が警察に行くって言うのを俺必死になって止めたんだぜ。だって、お前こんな顔でその上犯罪者になったりしたら、生きていくの、余りにも辛過ぎるだろ。可哀相だと思ったんだよ。いつだったか、俺のベッドの上で眠り込んでたこともあったよな。真夏に裸で。気持ち悪い女だと思ったよ。気味悪いと思ったよ。あのとき警察に行けばよかったんだよな。そしたらいつまでもお前にストーカーみたいな真似させなくて済んだんだ。まさか。家を出てこんなとこまで追いかけてくるなんてな」
─── 出てけよっ。何考えてんだよっ。気持ち悪いよ、お前っ。
 烈火の如く怒鳴るジンタの顔が頭を過ぎった。高校生のジンタだ。ジンタは怒りながら恐怖にがたがたと震えていた。女が。留守中に自分の部屋に上がり込んだ女が、自分のベッドで裸でぐうすか寝ているのだ。頭がどうかしているとしか思えない。ジンタでなくとも怖くなるだろう。震撼とするだろう。
 裸の女は泣きながら、でも何も言わずに服を着ると部屋を出て行った。階下で出会ったジンタの母親に「お邪魔しました」と消え入りそうな声で挨拶までした。
 あれはあたしの記憶? 違う。ジンタから聞いた話だからだ。だからまるで自分が体験した出来事であるかのように頭に思い描くことができるのだ。
 それにしてもこの小泉里香という女。殺す相手を間違えている。どうせ一緒に死ぬのなら。わたしだったら相手にはジンタを選ぶ。おそらく踏み潰されたカエルみたいな顔と言われ逆上したのだろう。浅はかな女だ。
 仮に女を殺したのなら。自分の首を掻き切るような真似は決してしない。女が死んだことを諸手を上げて喜ぶだろう。ただそれだけだ。どうして憎たらしい女と心中の真似事なんか。絶対しない。
 ジンタはまだ週刊誌の上の小泉里香と話をしていた。声を震わせ、涙まで流している。
「なんで殺したんだよ。俺、あの人のこと、マジで好きだったんだよ。向こうは完璧アソびだったけど。俺はそれでもよかったんだよ。向こうがアソビでも、一緒にいられるだけで幸せだったんだ。なのに、何で、お前、……」
 ジンタは長いこと泣いていた。嗚咽し。泣いていた。わたしは段々悲しくなってきた。
 やがてジンタが顔を上げた。
「だけど。よかったよ。お前、死ねて。な。犯罪者になってまで生きつづけるの、辛いだろ。俺に感謝しろよ、な、小泉」
 言うとジンタは雑誌を閉じた。
 それを重ねた本の上に乗せ、紐で縛る。縛りながらも尚ジンタは泣いていた。時折トイレに向かい、嘔吐している。ダメだよ、ジンタ。それ以上痩せたら、もう─── 。
 出てきたジンタは部屋をぐるっと見回した。何かを探し当てようとするみたいな目つきで。
「小泉。お前はまだこの部屋にいるんだろ」
 どきっとした。
「いるよ。わたし、ずっと、ジンタといるじゃん」
 いそいそとジンタに近寄り言ったけれど。ジンタはわたしを見ない。見ないままに話をつづける。
「姿見えなくたって、わかるよ。お前が傍に来たら、俺、それだけでぞっとするもん」
昔からずっとそうだった─── 。
「え。何言ってるの、ジンタ」
「悪いけど。俺はここから出るよ」
「出る? わかるよ。今度はどこへ行くの?」
「俺、日本を出るよ。イギリスに行く」
「イギリス?」
 イギリスなんか行ってどうするの。ジンタ英語なんか、全然話せないじゃん。成績もずっと2とかよくても3ばっかだったじゃん。しかも10段階評価でだよ?
「日本じゃもう俺の居場所、どこにもないからな」
 ジンタは諦めきった表情で言った。
「警察で何度も訊かれたよ。どうして彼女を見殺しにしたのかって。どうしてお前が刃物振り回すのを止めなかったんだって。本当は共犯じゃないのかって。そんなことまで言うんだぜ? 笑っちゃうだろ?」
 ジンタは自嘲気味に笑った。笑いながら自分の右手と左手を眼前に翳した。慈しむように見つめている。
「できるわけないよ。俺、手に傷なんかつけたくないもん。ギター弾けなくなったら困るもんな」
 ジンタは昔のバンド仲間でいまはイギリスに渡っている知人を頼って向こうへ行くのだと言った。インディーズバンドのサイドギタリストとして一からやっていくのだと。ギターが弾けるならどこでもいい。これまでの印税やら何やら、取り敢えず金には困らないと笑った。やがて浴室へと消えた。シャワーの音が聞こえて来る。わたしはまだ事態を呑み込めず立ち尽くしていた。
 浴室から出てきたジンタの裸の身体はみすぼらしかった。そんなんで海外でなんかやっていけるの、って言ったけど。ジンタは聞いちゃいないのだ。古着のTシャツとジーンズをさっと身に着け詰めた段ボール箱はそのままにギター1本と小さなボストンバックだけを抱えて部屋を出て行こうとする。ギターは例のお気に入りのモノ。リッケンバッカーのビンテージモノだ。
 わたしは懸命に止めた。玄関を出る間際、ジンタは振り返り言った。
「荷物はうちのお袋が明日来て始末するから。お前も元気でな、小泉。もう、ついてくんなよ」
「そんな、ジンタ、わたし、イギリスへなんか行けないよ」
「俺は生きるよ。お前のいなくなった世界で生きる。肉だって、向こうへ行ったらじゃんじゃん食ってやる」
 もうすでに死んでしまったみたいな風貌のジンタが言う。でもその瞳にはすっかり生気が宿っていた。輝いていた。ジンタは再び生き抜く術を取り戻したのだった。
「俺を恨むなよ、小泉」
 恨む? どうして?
 首がくすぐったい。どうしてだろう。わたしは自分の首に触れてみた。ぬめった感覚。掌にべっとりと広がる粘り気のある液体。体温と同じ程度に温かかった赤黒い液体はすぐに冷たく乾いていった。茶色くなった。
─── 死ねよ、お前。
 ジンタの指がわたしの両手を掴んだ。たったいま殺したばかりの女の血で汚れてしまったわたしの両手を。刃物を掴んだわたしの両手を。自ら包み込んでくれた。
─── お前、もうこれ以上生きてても仕方ないよ。そうだろ?
 わたしはうつくしいジンタの唇から吐き出される暴言に唖然としていた。それでも両手を握られたことで恍惚となっていた。後はもうジンタの成すがままだった。すうっと熱い感触がした。ジンタがわたしの首を撫でたのかと思った。幸せだと思った。途端、ジンタの顔に赤い斑点が散らばった。
─── 痛いよ、お前。
 痛い? どうして? こんなにも好きなのに? いつもジンタのことだけを思ってるのに?
─── 俺はずっと重かった。お前の気持ちが重かった。あからさまで一方的で押しつけがましくて。ああ。やっと俺は解放される。
 ドアの閉じる音ではっと我に返った。弾かれたように駆け出す。
「待って、ジンタ、わたしも行く」
 わたしは慌ててジンタの後を追った。何年もそうしてきたように。恋い焦がれて止まないジンタの傍にいつづけたいと思った。
 外は茹だるような暑さと陽射しだった。白い世界。蝉が鳴いている。眩暈がした。どこにもジンタはいない。わたしは親を探しまわる迷子のようにぐるぐるとそこらじゅうを徘徊した。暑い。わたしはジンタを見うしなった。絶望した。身体じゅうから力が抜けていく。感覚がなくなる。溶けそうだった。溶けてなくなりそうな身体で思うのは、田舎の実家のことだった。帰りたい。あの家に。あの家に帰り、わたしにそっくりな父が唱える何がしかの言葉で救われたいと、初めて切望した。


(完)


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© Chocolate Cube- 2007