真冬の空(おまけ

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 昼休み。
 待ち合わせたのは屋上へとつづく踊り場。
 対面の窓から燦々と陽射しの降り注ぐ温かい場所。桜木とふたり、階段の最上部に座りお昼を食べた。その後、紺色の鞄に忍ばせておいたチョコレートを取り出し手渡した。
「あげる。食べてね。一応手作り、だよ?」
 自分でもどうかと思うくらい素っ気無い口調で言っていた。
 小さな赤い箱を手にした桜木が首を傾げる。口許が、ちょっとだけにやついている。本当は嬉しいんだけど、あからさまには喜ばないよ、っていう気持ちが露骨に現われてる顔。無理にかっこつけた顔、してる。
「これ、手作り?」
「うん。そうだよ」
「なんか、凝ってるな。店で売ってるやつみたいじゃね?」
 中を開けてもみないうちからそんなことを言う。
「ラッピングのこと?」
 赤い箱に、その箱より小さな、ピンキング鋏で切った英字新聞を被せ、ラフィア・コードを巻き、小さなペーパーフラワーを飾った。こういうのは雑貨屋のラッピングコーナーに行けばいくらでも手に入る。だけど。男のコである桜木には珍しいのかもしれない。じっとその横顔を眺めてると目が合った。涼しげな目許が、おかしいくらいくしゃっと垂れ下がる。
「開けてみて」
 ごつごつと骨ばった大きな手。長い指先が不器用な動きでリボンを解く。
「なんか変な感じすんな」
「変?」
 どういう意味? 思わず指先から横顔へと視線を移した。
「野々村から手作りのチョコレートもらえるなんて、変な感じだよ。さすがにバレンタインにチョコくらいはもらえるだろうとは思ってたけどさ。正直手作りは期待してなかったな」
 な。何てことを。
「……失礼ね」
 ぷっと膨れると、桜木は笑った。
「いや、でも、嬉しいよ。ありがと」
「……うん。まあ、あたしも似合わないことしてるな、とは思ってる」
「そ?」
「気が向いたから、作ってみたの」
「気が向いたから、ね」
 く、っと、笑った。苦笑ぎみに。桜木はそれでも嬉しそうだった。
 本当は嘘、なんだけどね。気が向いたから、なんて嘘だった。下準備も万端、何度も練習して挑んだのだ。母と姉に怪しまれるくらい頑張った。女同士で交換すんの、とでたらめを言ったけれど信用してもらえたかどうかはわからない。特に姉は不揃いなチョコレートをいくつも頬張りながら、紗江の愛を感じるわー、などとわけのわからないことを呟いていた。
 照れ臭いから、桜木には絶対言わない。何度も試作したことは秘密、だ。
 赤い蓋を開けると、緑、茶、白、と、三種類の粉をまぶした四角いチョコレートが行儀よく並んでいるのが目に入る。それはゆうべ包んだときに目にしたままの配列だった。崩れたりずれたりしていない。よかった、と。こっそり安堵する。
 桜木が、お、と声を上げる。
「すごいな。店で売ってるやつと、変わんないって」
「そんなことないよ……」
 あんまり露骨に褒められると恥ずかしいんだってば。
「食ってい?」
子供みたいに嬉しそうな顔でこちらを見る。
「いいよ」
 桜木が摘んだのは緑色のチョコレートだった。茶漉しでふるった抹茶をかけてある。
「……うまい」
「そう?」
「甘いし、柔らかい」
 市販のチョコレートを溶かし、たくさんの生クリームと少しの蜂蜜を混ぜ合わせて冷やし、固めた。甘いのは蜂蜜で、柔らかいのは生クリームが入ってるから。
 うまいよ、と言いつつ、桜木はひとつ食べただけで箱の蓋を被せてしまう。
「食べないの?」
「いっぺんに食べるともったいないだろ? 家に帰ってからひとつずつ味わって食う」
 英字新聞とリボンを丁寧に掛けてから紺色の鞄のファスナーを開けた。
「……他のコからももらった?」
 そんなに気になってるわけでもないのに。ちょっと意地悪く訊いてみた。
「いや。もらってないよ」
 鞄の中を覗いている桜木が、何の話? といった顔で答える。
「ほんと?」
「ほんと」
「……ふーん」
 立てた膝に肘を乗せ頬杖を突き、顎を突き出した。
 今朝、登校途中の桜木が、他校の女子ふたりに呼び止められているのを目撃した、とさっちんから報告があった。桜木、もてるねーと感心した顔で言っていた。ピンク色の包みを手渡されていた、らしい。その横には村井君もいて、冷やかすように背中を突ついていたという。それを受け取ったのか返したのか、そこまでは見てないよ、とさっちんは言っていたけれど。
 思わず横目で桜木の鞄を見た。あの中にピンクの包みは入ってるんだろうか。……。
 まあいいや。
 突いていた手を外し代わりに頬をぺたんと乗せた。
 桜木はそうそう簡単に他の女のコに心を移すようなやつじゃない。それはもう、充分過ぎるほどわかってる。
 ふと。
 ひとりの女のコの姿を思い浮かべた。ショートカットの。真摯な瞳で桜木を見ていた女のコ。
 もう。関係ない、ってわかってるのに。それでも時折瞼の裏に現れる。
 二学期の終業式の日。ふたりの間に何があったのかは聞いていない。訊けばちゃんと答えてくれるだろうことはわかっているけれど、訊けないでいた。桜木はあれから二度、メールアドレスを変えた。
「雨宮さん……?」
 携帯電話を向かい合わせ、新しいメルアドを受信しながら、あたしはそれを口にするだけで、もう精一杯だった。桜木も、
「うん、まあ」
と、言いにくそうに答えただけだ。それも、一月の初めのことで、それ以降桜木のメールアドレスが変わることはなかった。
 桜木がいるのとは反対のほうを向いていた。
 三学期の学校は、校舎全体が静かだと思う。受験で自由登校になってしまった三年生がいないからだろうか。しんと乾いた音まで聞こえる気がする。瞼を閉じ耳を澄ませてみても。人のいる気配を感じない。
 ここはほんとに温かだ。ぽかぽかしてて、眠ってしまいそうなくらい心地いい。
 髪に、そっと桜木の指先が触れた。
「紗、江」
 優しい、ひだまりみたいな声。くすっと笑った。顔は背けたままで。
「さーえちゃん」
 くすくすと。笑いが零れる。肩を揺らしながらそっぽを向いていた。頭を撫でていた桜木の手が、脇腹に降りる。そこを摘むようにしてくすぐり始める。
 思わず悲鳴を上げていた。
「ちょっ。ちょっと、やめてよ」
 笑いながら桜木のほうを向いた。不遜にもまだ制服の脇を摘もうとする桜木の右手を握った。今度は左手が伸びてくる。
「やめてってば」
きゃあきゃあ笑いながら身を捩った。「くすぐったい。くすぐったいの、ダメなんだってば、もう、やめてよ」
 これじゃほんとにバカップルだ。誰か来たらどうすんの。
 不意を突くように、桜木の動きが止まった。上から、顔を覗き込んでくる。
 抹茶とチョコレートの匂いのする息が、そっと近づき唇の端を掠めた。頬に柔らかく触れ、そうしてから少し距離を取った。
 黒々とした瞳。そこから数センチ下のつるんとした頬に、小さなほくろがふたつある。これくらい近づかないと見えない小さなほくろ。そのほくろがぼやけて見えなくなった。今度は近づき過ぎてわからなくなった。
 桜木の唇が、むような仕草でこちらの唇に合わさる。


 冬休みに入ってすぐ。
 約束どおり、桜木の家に行き、泊まった。
 桜木しかいない桜木の家。
 いけないことをしていると思う、少しの罪悪感と、多くの時間を桜木と過ごせるというわくわくするような高揚感と、その夜ふたりの間でおこわなわれることへの、正直言えば恐怖心と。たくさんの思いであたしの内側はいっぱいいっぱいだった。
 ふたりで晩ご飯を作って食べた。といってもそんな凝ったものなんかじゃなく、市販のルーを使ったカレーライスと、ちぎったレタスにゆで卵とプチトマトを飾っただけのサラダという、誰でも作れちゃうメニュー。それをふたりしてああでもないこうでもないと言い合い、はしゃぎ合い、しながら作った。あの時は、お互い演技がはいっていたように思う。その後ふたりで行うことを意識しないように、わざと無邪気に子供っぽく明るく振る舞っていた、と思う。ゆっくりと時間をかけてカレーライスとサラダを食べ、片づけをした。お風呂に入り、それから二階の桜木の部屋へ行こうと、あたし達なりに計画を立てていたのに。片づけている最中にキスをしたら、止まらなくなった。何度も何度も唇を合わせ、抱きしめ合った。
「二階に行こう?」
 苦しそうな桜木の声。背中を這うもどかしそうな掌の動き。そのひとつひとつがあたしの気持ちを揺さぶる。自分が首を縦に振ったのか、横に振ったのか、或いは反応できずにいたのか、それさえも覚えていない。心臓が耳許で鳴っていた。
── ふたりとも初めてなんでしょ? 初体験ドウシはねえ、大変だと思うよー。
 奈々子に言われたときはぴんとこなかったんだけど。あたしはそれがどういうことなのか、嫌というほど知る羽目になった。
 本当に大変だった。
 格闘。
 そんな単語が何度も頭に浮かんだ。
 いま思っても、あの時のあれは恋とか愛とかそういうのとはかけ離れた行為だった、と断言できる。色気なんか、あったのは最初の内だけで、あとは格闘技の練習をしているかのようだった。
 痛みに堪えきれず悲鳴を上げるあたしに、桜木が怯む。じゃあ、今度はこうしてみる? うん、そうする。いや、でも、ダメ。やっぱり痛い。じゃあ、こうしてみようか。その繰り返し。
 途中、何度も泣きそうになった。
 ゆうに三時間近くを要した行為── 結局死ぬほど痛かった── を終えたとき、正直別の意味で感動して涙が出そうになったほどだ。汗で張りついた前髪をくっつけ合い、笑った。そうしてもう一回、おさらいするみたいに、抱き合った。
 翌朝。
 狭いベッドで目を覚ましたあたしの身体に硬い腕と脚が絡まっていた。誰かにこんな風に抱きしめられて目が覚めるなんて変な感じだ、と思った。桜木の鎖骨が目の前にあった。そっと唇を寄せると、桜木の皮膚の匂いと体温とを強く感じた。昨日はあんなに汗ばんでいたのに。さらっと乾いた皮膚を唇で優しく噛んでみた。桜木が大きく身じろぎする。
「紗江、ちゃん……」
 小さく名前を呼ばれたので、頭をシーツにつけたままそっと顎だけを上げてみたけれど。桜木はまだ夢の中にいるみたいで、瞼は閉じられたままだった。
 桜木の胸に髪の毛を擦りつけ、あたしも瞼を閉じた。
 幸せだな、と思った。
 月並みだけれど。泣けそうなくらい。幸せだった。


 甘い味のする唇が離れていく。
 にっこり微笑む男の顔を容赦なく睨みつけた。
「外でこういうことはしないでって、いつも言ってるでしょ?」
「あー。そうだっけ?」
「そうだっけじゃない」
 ごつん、と。軽く肩口を叩いた。そこでようやく桜木が身体を離す。
 あ、と思う。
 口では強気なことを言っていても、距離が開くと急に寂しく感じてしまうのは何でなんだろう。あれ以来、ずっとそうだ。
「もうふたりでお弁当なんか食べないんだからね」
「え? 何で?」
「何で、って……」
「俺は毎日でもここで野々村といっしょに食いたいって思うけどね」
 ぬけぬけと言う。頬が、熱くなった。
「よく言うね、桜木」
「ほんとだって」
 ふたりで鞄を肩に掛け、階段を下りる。これから教室に戻って授業を受けるなんて、変な感じだ。他の級友たちがいる場所へ戻るのかと思うと、たったいま自分達のしていた行為がばれてしまいうんじゃないかという恥ずかしさと不安とでいっぱいになる。誰にも何にも。わかるわけ、ないのに。
「あのね、桜木」
「うん」
「……チョコレート。食べてね」
「うん。食うよ」
 俯いて歩いていた。あたしと、桜木の上履きが、交互に視界に映っている。あたしの上履きにはサインペンで黒々と名前が書かれているけれど、桜木のほうは、古くなって掠れてしまっている。
「……嘘、なんだ」
「嘘?」
「気が向いたからっていうのは嘘。ほんとは、たくさん練習したの」
 だから。ちゃんと食べてよね。そういう思いを込めて言った。
「あー。うん。わかってるよ」
 思わず桜木の顔を見た。桜木は真面目な顔で前を見ていた。
「野々村のことは。ちゃんとわかってるつもり」
「……」
 桜木が首を傾げるようにしてこちらを向く。またキスでもするつもりだろうか。反射的に避けようとすると、耳たぶを掴んで引っ張られた。少し、痛い。桜木の息が、耳に触れる。
 何か囁いた。
 何?
「したい」
 は?
「したくなった」
「……」
「……野々村は? ならない?」
 なっ。
「何言ってるのー」
 思わず叫ぶように言って、その手から逃れた。
 真っ赤になってうろたえるこちらとは正反対に、桜木は真面目な顔で腕を組んでいる。
「いや、まじなんだけど」
 思い切り鞄で二の腕をはたいた。
「いてっ」
「もう絶対桜木となんかお昼ごはんたべないんだからねっ。ていうか、もう学校ではふたりきりにならないっ」
「はあ? 何で」
「キスなんかするからそういうことになんのっ」
「……あ」
「ばっかみたい」
 桜木を追い越し、みんなのいる教室に向かった。
 桜木は。
 何て甘い男のコなんだろう。本人に自覚があるのかどうかわからないけれど。チョコレートに隠された蜂蜜や生クリームよりももっともっと甘い。秘密のような味のする男のコだ。
 その味を知ってしまったら。もう二度と離れられないんじゃないの?
 そう思うと怖い。
 よけい顔が赤くなった。
 奈々子とさっちんが女子トイレから出てきたのが見える。声をかけると、同じような仕草でふたり同時にこちらを向いた。鞄を肩にきちんと掛け直し手を振った。普段と変わらない顔が、できているだろうか。少し不安を覚えながらふたりに近寄った。

(完)
 

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