ピアニッシモ
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 立川たちかわすずは椅子から立ち上がると小さなハンドタオルを手に取り、古くなって艶のうしなわれている鍵盤の表面を撫でるように拭いていった。
 小さな音がぽろぽろと零れ落ちる。これ以上音が零れるのを止めるようにえんじ色の布を鍵盤の上に被せ、さらに蓋も閉じた。鍵もきちんとかけなくてはならない。これは学校のピアノだから。古びた鍵を鍵穴に差し込んだ。
「立川先輩。お世話になりました。お先に失礼します」
「あ。お疲れさまー」
 振り返って笑顔で言う。可愛い後輩たちは礼儀正しくきちんと頭を下げ腰を折りお辞儀をしていく。三年生は夏休み中に開催された某テレビ局主催の合唱コンクールが終わったと同時に引退してしまった。すずたち二年生がこれから部を引っ張っていかなくてはいけない。
「すず。どうする?」
話しかけてきたこちらは同級生の友人だ。「みんな、スタバに寄ってくんだって。あんたダイエット中だって言ってたじゃん? 行く?」
 すずはうーんと、暫し考え込んで、
「やめとく。まじでね、これ、ウエストきついんだ。スタバに行ったら、わたしコーヒーだけじゃすまないもんきっと」
スカートとブラウスの間に指を突っ込んで言った。それでも一応頭のなかではカロリー計算を繰り返しおこなってみる。うーん。やっぱりカロリーオーバー。絶対ダメ。
「あは。オッケー。仕方ないね。でもまた誘うから」
「うん。ね、ここ戸締りしとくから、先帰っていいよー」
「サンキュ。じゃ、よろしくね」
 すずは片手を挙げて帰っていく友人達に手を振った。みんなかなりスカート丈が短い。下にはちゃんと見えてもいい黒い一分か二分丈のスパッツを穿いている。みんなの長く細い脚を見送ったあと、自分の脚にも視線を移して溜め息を吐いてから窓の鍵を確認して回った。
 すずは物心ついた頃にはもうピアノが弾けていた。指先はころころと小さな宝石のような音を紡ぎだしていた。耳は、聞こえてくる音全ての音階を聞き分けていた。
 ように思う。
 本当に気付いたらそうだったのだ。
 そして。
 ころころと太めだった。それはほんとに昔から。こちらも気付いたらそうだった。取り返しのつかないことになっていた。
 中学生になってからはダイエットとの戦いだった。体重はそれなりに落ちたけれど、でもなんとなく太めちゃん。身体全体がぽちゃぽちゃしてる。多分、これは一生変わらない。
 ピアノと脂肪はずっとお友達なのだ。
 ピアノ以外の音楽にも触れたいと、歌なんかもいいんじゃないかと、高校生になってから合唱部に入った。なのに、結局特異なピアノの腕前を買われ伴奏を任されてしまったのだ。
 いやです、なんて。そんなことをはっきりと言えるタイプではなかった。あっちゃー、そりゃないよ先生、と心の中では涙ながらに思いつつ、表面ではにこにことはいわかりましたと優等生ちゃんな返事をしてしまっていた。
 まあピアノ、好きだからいいんだけどね。それにときには伴奏のいらないアカペラの歌を歌うこともあるわけだし。そういうときはソプラノ担当だ。すずの声は声量があり高くて柔らかい。透明感があると言われたこともある。脂肪がたくさんついてるせいかな、体質と声質は似るのかな、と自分ではそんな風に思っている。
 窓の外を見ると、サッカー部が部活を終えて引き上げてくるところだった。日はかなり落ち、空は濁ったようなオレンジ色だ。
 思わずばっ、と窓にへばりついて山本太陽やまもとたいようの姿を探していた。それはもう条件反射みたいに。
─── いた。
 耳が隠れるくらい男のコにしては長めの、染めていない黒い髪。身長はそれほど高くない。スポーツ選手にしては低目かもしれない。そしてひょろひょろと痩せた体。顔はよく見えないけれど、友達数人とかたまって笑っているみたいに見える。そう。山本太陽はいつも笑っている。
 へへ。ラッキー。
 何が嬉しいのか自分でもよくわからないが、頬が緩む。
 山本太陽は、すずが中学生のときからずっと好きな男のコなのだ。
 くりくりと大きな黒い目と、運動神経がよく活発で、何よりいつだって朗らかなとこに惹かれていた。
 ほとんどひと目惚れ。
 中学生のときから一度も同じクラスになったことなんかないけれど、向こうがすずの存在を知っているかどうかもわからないけれど、気持ちは変わらない。
 山本太陽にはカノジョだってちゃんといるのだ。他校の女子。つき合いは長いらしい。噂では綾瀬はるかによく似たスリムで色白のか弱そうな女のコだということだった。
 すずは太陽の姿が見えなくなったところで音楽室を後にした。
 思わず歌を口ずさんでいた。
 曲は一年前に出た合唱コンクールで歌った歌、「サッカーによせて」だ。谷川俊太郎さんの歌詞も、木下牧子さんの曲も大好きだ。無論すずは伴奏担当だったけれど。でも、どのパートを歌うこともできるのだった。歌詞の内容はサッカーにあまり関係していないけれど、山本太陽を見かけたあとは、ついこの歌を歌ってしまう。明るく弾むような印象の曲が山本太陽を連想させるから。


 すずはときどき思うのだった。
 神様が突然自分の前に現れて。
 音楽の才能と引き換えに、別のトクベツな何かをあなたに授けましょうと告げてくれたなら。
 魅力がほしい。
 きっと自分はそう応えるだろう。
 あのひとを。
 山本太陽を振り向かせるだけの。
 山本太陽の瞳を惹きつけて止まないほどの女の魅力を。
 わたしにください。
 どうか魅力を。
 神様─── 。


 昇降口は暗かった。
 灯りは点っているけれど、暗い。
 それでもまだすずは上機嫌だった。山本太陽の笑顔は見ている者を幸せにする。
 と。靴箱の影から誰かがひょいっと顔を出した。
 目がばっちりと合う。
 黒いくりくりの瞳。
 思わず歌を止めていた。この瞬間まですずは自分がまだ歌を歌っていることに気付いていなかった。
「あ」
「あ」
 山本太陽だった。
 すずは自分の顔が瞬時に赤くなるのがわかった。
「びっくりした」
「え」
「天使の歌声だ」
「……」
 ええええええ。
 うろたえるすずとは対照的に山本太陽はにこにこと近寄ってくる。
「ピアニストの立川さん」
「ピッ」
 ピアニストっ?
 すずはぶんぶんと顔の前で右手を振った。半袖から覗く二の腕がぷるぷると揺れた。
「ピアニスト」
「あ、あたし、ピアニストなんかじゃ」
 山本太陽は白い歯を見せて笑った。
「あれだけ上手に弾けたらピアニストだよ。俺、中学校の時、初めてテレビで立川さんのピアノ聴いて本気でびっくりした。そしたら同じガッコーに立川さんいたからまたまたびっくり。二度驚かされたんだ」
「……」
 ぽかん、と山本太陽の顔を見上げた。
 すずは中学生の時に全国学生ピアノコンクールの中学生の部で入賞している。テレビでも一度だけ放映された。すずたちの年代のコが目にするとは思えない番組ではあるけれど。
 あれを。
 この山本太陽が聴いていたとは。
 高校生になってからは一度もコンクールの類に出てはいない。部活を始めたからだ。
 でも何度も人前で弾く機会はあった。文化祭然り、始業式然り、卒業式然り。
 困惑するすずの顔を見て山本太陽はあはっと屈託なく笑った。
「俺、昔、母親に無理矢理ピアノ習わされて二年でやめたんだ。サッカー始めたから。でも、つづけとけばよかったって、今でも思うことあるよ。大抵は立川さんのピアノを聴いたあと」
 すごいね、と山本太陽は言った。
 視線をすずの指先に移して。じっとすずのぽっちゃりと白い手を見つめていた。
 太陽ー、と。
 呼ぶ声が昇降口の外から聞こえてきた。野太い声だった。
「あ。はーい。今、行くー」
太陽は応えると、「ごめんね」
とすずに謝った。
「突然話しかけて。俺、山本っていうんだけど、知ってた?」
 すずはこくんと頷いた。胸の奥底から込み上げてくるものがあって、声はうまく出なかった。
「知っ、てる」
知ってる。山本太陽くん。すずがずっと片思いをしてきた相手。
 太陽ー、どこだよー。と、また声が聞こえてきた。
「すぐ行くー」
 山本太陽は、じゃあね、とすずに言うと踵を返して行ってしまった。
 去り際に、にっこりと、朗らかな笑顔をすずに見せて行ってしまった。
 
 
 暫くぽかんとひとり、山本太陽が出て行った昇降口の向こうをみつめていた。薄紫の帯の広がる空をみつめていた。
─── すごいね。
 すごいね、と。山本太陽は言ってくれた。
 広げた両掌に視線を移す。
 身長はそれほど高くないのに手ばかり大きいのがすずの特徴だ。肉付きもいいのでとても可愛いとは呼べない手だ。広げた指の頭から爪が顔を出したことは一度もない。ピアノを弾く以外に取り柄のない、色気の感じられない手だった。
「へ。へへ」
 すずは笑ってしまった。
 掌にぽたぽたと涙のしずくが落ちていた。
 山本太陽は立川すずの存在をちゃんと知ってくれていた。
 嬉しかった。
 たったそれだけのことが涙が出るほど嬉しかった。
 大きなぽちゃぽちゃとした手が愛しくてたまらなくなった。
 すずはその手で涙を拭うと靴を履き替え学校をあとにした。
 唇はやはり歌を口ずさんでいた。


(完)


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