クレッシェンド
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 右斜め前の席に山本太陽がいる。
 その姿を目に留める度、立川すずの顔は自然ほころぶ。
 黒く染めていない長めの髪。さほど大柄ではない身体つき。すずの席からはよく見えないけれど黒々とした大きな目がとても魅力的、なのだ。
 三年生のクラス替えで思いがけず山本太陽と同じクラスになることができた。新学期、掲示板の同じ名簿に山本太陽の名前が連なっているのを目にしたすずは暫し呆然と佇んでいた。いま自分のいる世界が現であることを確かめる為、自分の頬をつねるという超古典的荒業にこっそりトライしたりもした。頬は痛かった。夢ではないと確認できた。
 これは。
 神様がくれたささやかなご褒美なのだとすずは思う。
 ずっと片思いしていた相手と、高校生活最後の一年間を同じ空間で過ごさせてあげようという神様からの贈り物。
 すずは中学生のときから山本太陽を好きだった。好き過ぎて話しかけることもままならなかった。二年生のときに一度声をかけてもらったことがある。すずのピアノの腕前を褒めてくれた。すずの存在を知ってくれていた。それだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。
 山本太陽に恋人がいたってそんなことは少しも気にならない。
 そもそも。両思いになりたいなどというだいそれた望みをすず自身抱いていないのだから。
 けれど。
 毎日こうやって横顔を見つめたり、時折話しかけられたり笑いかけられたり。そんなことが度重なると、ほんの僅かだけれど、うっかり希望を抱いてしまいそうになる自分がいて驚くのだった。
 自分の身体を見下ろす。
 ふっくりと膨らんだ胸。お腹。それからししゃものようなふくらはぎ。
 ダメじゃん。
 そう思う。
 何たって山本太陽のカノジョは綾瀬はるか似らしいのだ。例えこの先何かのはずみでダイエットに成功することがあったとしても、顔までは変えられない。到底敵いっこなんかない。
「太陽」
 野太い声が前方から近寄って来た。
 太陽の友人で同じクラスの羽山広大はやまこうだいだ。名前の通り声も身体も、ついでに言えば態度もでかい。
 と。
 すずは思う。
 前方から来た羽山広大と視線が絡んだ。
 大方、休憩時間にトイレにでも行っていたのだろう。席はすずの左隣なのだ。彼がこうやって前方から太陽に話しかける度、すずと視線が合ってしまう。すずが太陽のほうばかり見ているからだ。
 すずはそっと視線を落とした。
 ごそごそと。机の中を探り、次の授業の教科書を出す。
 頬が赤くなった。
 よもや羽山広大はすずの山本太陽への思いに気づいていたりしないだろうか。
 恥ずかしい。
 自分のような大人しくイマイチぱっとしない、しかも何気に太めな女が。
 山本太陽に片思いをしていることを知られるなんて。
 頬が更に熱を帯びた。きっと首筋まで赤くなっているはずだ。
 恥ずかしかった。


 授業が始まるなり、左隣の男ががたがたと机を鳴らしすずのほうへ近寄ってきた。
 すずは露骨にぎょっとした。いつもそう。いつもびっくりしてしまう。羽山広大はそれに気づいているのかいないのか。
「教科書忘れた。見せて」
有無を言わせぬ口調で喋る。すずは目を丸くしたままあやつり人形のようにこくこくと首を縦に振った。
 また?
 そう思ったが口には出せない。とにかく怖いのだ。態度のみならず、姿かたちそして存在そのものが。
 羽山広大はしょっちゅう教科書を忘れている。体育大を目指していると聞いてはいるが、それでもさほど成績は悪くないはずだった。
 羽山広大が隣に来ると、すずの左側は暗く翳る。羽山広大は上背があるばかりでなく、骨格自体が大きいのだ。すごい威圧感。そういう印象。
 すずは羽山広大という男が苦手だった。
 元々すずは大きい男が得手ではない。すずもそうだが一緒に暮らす家族も身長が高くない。身体の大きな人間が傍にいるという環境、それ自体慣れないことだった。山本太陽だって。小柄だ。
 羽山広大が近づくたび、どうしてだかすずはびびる。必要以上に萎縮する。
 どうしてこのひとと山本太陽が友達なんだろうかと不思議に思う。タイプが全く違うふたり。片や小柄な爽やか系。一方は大柄むっつり系。ふたりはいつも一緒にいるのだ。部活も同じサッカー部。家も近所で幼なじみなんだそうだ。少し、いや多分に、羨ましかったりもする。
 また。知らず視線が山本太陽へと引き寄せられた。
 小さな後頭部。清潔感の漂う首筋。
 爽やかが服を着て授業を受けているみたいだ。
 山本太陽にカノジョがいたって構わない。
 こうやって。見てるだけで充分幸せだから。
 山本太陽を見ながら左手に顎を乗せ、机の隅っこで右手の指を動かした。木下牧子の合唱曲「サッカーによせて」の旋律部分。すずのなかで山本太陽のテーマ曲はこれと決まっている。力強い指の音が、板の上でとんとん鳴った。


「太陽、カノジョ、いるぜ」
 授業が終わり、ぴたりとくっつけていた机を退かす寸前。耳許で小さくぼそっと囁かれた。野太い声に。捨て台詞みたいに。
 すずははっとし隣の男の顔を見た。
 色の黒い。目の細い。短髪の。大きな男。
 ぐるぐると頭のなかをさまざまな思いが駆け巡る。
 やはり。この男には自分の山本太陽への思いを見透かされていた。知られていた。恥ずかしい。どころか忠告までされている。山本太陽にはカノジョがいるから、お前なんかが好きになっても無駄だと言われた。気がした。
 見てるだけなら自由なんじゃないの? 片思い、してるだけなら勝手なんじゃないの?
 余りにも嘘臭い言葉だ。自分に言い聞かせることはできても声に出すことはできなかった。たとえそれがすずにとっての真実であったとしても。
 羽山広大は感情のない顔で上手く言葉を発せないすずを見返している。
 このひとは。何て意地悪なんだろう。
「知ってる」
 すずは震える声で、でもきっぱりと言い返した。
 羽山広大の顔色は変わらない。さっきからずっと真っ直ぐにすずを見つめているばかりだ。
「どうしてそういうこと言うの」
 初めて眼前の男が顔色を変えた。虚を突かれた顔になった。でもそれもほんの一瞬のことだった。見落としそうなくらい僅かな時間。羽山広大は元の厳つい表情に戻ると、寸分の躊躇いもなく平然と、のうのうと、言い放った。
「好きだから」
「……」
 え、と。
 束の間すずは考える。
 好きだから?
「……山本太陽君、を?」
 遠慮がちに言ったのに。じろりと睨みつけられた。
 ちがう。羽山広大ははっきり否定した。
「立川を。好きだから」
 すずは目を見開いた。
─── 好き? あたしを?
 何、それ。
 顔も頭もかあっと熱くなった。
「ふ、ふざけないでっ」
 すずは先ほどまでふたりを結びつける架け橋のように机と机の間に開いてあった教科書を手に取ると、乱暴に羽山広大に投げつけた。
 羽山広大が痛そうな顔をした。とてもとても痛そうな顔。
「今度教科書忘れても羽山くんにはもう絶対見せないからねっ」
「─── 立川さん」
 斜め後ろから聞こえてきた声。爽やかな声。すずは固まった。
「どうしたの、広大。喧嘩?」
 山本太陽の親友と言い争っている自分。感情的な自分。すずは振り返ることができなかった。羽山広大のほうばかりを見た。
 羽山広大は投げつけられた教科書を手にすずを見返していた。そこに。すずを哀れむ色がはっきりと滲んでいた。
 すずの顔が歪んだ。


 どこに行くわけでもないのに廊下へと小走りに向かった。
「すずー?」
 同じ合唱部の友達に声をかけられたけれど、顔も上げずに教室を出た。
 音楽室に行こう。音楽室に行ってピアノを弾こう。ピアノに鍵がかかっていたら、窓から校庭を見るだけでもいい。あそこは自分が一番落ち着ける場所だから。
 ずんずんと廊下を進んだ。
 足元が霞む。
 どうして羽山広大はあんなことを言ったのだろう。すずが山本太陽を見ていることが気に入らないのだろうか。自分の大切な友人に近づくなと。そういうことなのだろうか。
 きゅっと。右腕で涙を拭った。
 近づくつもりなんかないよと。今度会ったら言ってやろうと考えた。見てるだけだもの、放っておいてと言ってやろう。だけど想像しただけだった。あの容姿を、体躯の大きさを、思い出した途端心の底から震撼した。
─── 絶対、無理。
 そう思った。やはり。その存在は恐怖だった。
 好きだと言われたことは、すずの中では揶揄われたという事実としてだけ認定されていた。
 羽山広大の告白は。
 なかったことにされていた。


□ □ □


「先輩、つき合ってるひと、いますぅー?」
 羽山広大が三年生になってすぐのことだった。サッカー部の部室で女子マネージャーのひとりに訊かれた。
「あ?」
「前のカノジョとは別れたって言ってましたよねー? いまはいるんですかぁー?」
「いないけど」
「先輩のことー。あたしの友達が興味あるみたいなんですけどー。ケーバンおしえてあげてもいいですかぁ?」
 じっと。無駄に内股かつ上目遣いな女を見下ろした。サッカー部の誰かのカノジョ。誰の、だっけ?
「ダメ」
「えー。どうしてですかぁ?」
「何で会ったこともない女にケーバンなんか」
「じゃあ、会ってみますぅ?」
「会わない。いま、そういうのいらないから。ってか、出てけよ。着換えたいんだよ」
「あー。あたし気にしませんから、どうぞー。ってゆーか。先輩、筋肉すごーい」
 触んな。
 声には出さずに目だけで脅すとさすがに怯えた顔で出て行った。
 入れ替わりに山本太陽の姿が見えた。太陽は小学生のときからの友人だ。親友と呼んでいいかも知れない男。
「すごいな」
感心した声で言われた。「口説かれてるみたいだった」
 実際口説かれてたんじゃないだろうかと。広大は内心小首を傾げた。
「相変わらずもてもてだね広大クンは。こーんな怖いツラしてる男のどこがいいんだろうね。女心は全然わかんないよね」
 太陽の笑顔は可愛らしく爽やかだ。黒いナイキのエナメルのバックからユニフォームを出し楽しそうに笑っている。男の自分から見ても胸がすうっとするほど清々しい笑顔。
「聞いてたのかよ。助けろよ」
「広大がさ、どんな反応するかと思って」
 にやついた顔が癪に障る。広大はユニフォームの襟元から頭を出すと、ちらりと服を着ていない太陽の脇腹から背中へと繋がる身体の線に目を走らせた。筋肉はついているのにとても細い。形のいい筋肉のつき方だと思う。女のコはこういう身体が好きなんだろうな。自分のような、骨太のがっしりした体型なんかじゃなくてさ。
「前は来るもの拒まずだったのにな。広大、いままでつき合った女のコって、みんな向こうから告ってきたコばっかだっただろ?」
「だったら何だよ」
「だけど。いまは事情が違うんだろうなあ、と思って。だからどうすんのかなーと思ってさ、見てた」
「何言ってるのか、ぜんっぜんわかんねえよな」
 タオルを取り出し首にかけた。ドアへと向かう。
「広大、最近忘れっぽくなっちゃった?」
「あ?」
「教科書、今週になって二度も忘れてる」
「うるさい」
「上手くいくといいな」
 思わず足が止まった。呆然と振り返り太陽の小さな頭を見下ろした。
 立川すずの姿がぽっかり頭に浮かんだ。ふっくらした頬。少し天然パーマの柔らかそうな髪。まあるいいかにも女のコらしい身体つき。彼女の指が紡ぎ出す奇跡のようなピアノの音。それから。太陽を見つめる幸福そうな瞳。
「……浮かばれないだろ」
 ぽつりと呟いた声は小さ過ぎたのか、太陽からの反応はなかった。


 立川すずのピアノを初めて聴いたのは小学校四年生の時だった。地方の民放テレビ局主催のピアノコンクールに出場していたのだ。実は広大も。広大の母はピアノ講師をしていて、その影響で何だかんだと中学校卒業まで習わされた。小学校の高学年になってからはサッカーに明け暮れる毎日で、殆ど練習らしい練習はしてこなかったので、ピアノが弾けると公言できるほどの腕前ではないのだけれど。立川すずの思い人である山本太陽も二年間だけ母親のピアノ教室に通って来ていた時期があった。
 立川すずのピアノの音を聴いた際の衝撃を、広大は今でも覚えている。
 曲目はギロックの「ウィンナーワルツ」。
 ピアノの上で音の妖精が跳ね踊っている。そんな音色だった。明らかに他の誰とも違う誰にも似ていない彼女だけが創り出すことのできる音。プログラムに視線を落としてぼんやりと時間の経過だけを待っていたような人々でさえ。はっとしたように顔を上げ耳を澄ませた。
 広大も。
「すげえ……」
 呆けたように呟いていた。同い年で同じ課題曲を弾いているのだから自分のライバルということになるのだけれど。そんな次元の話ではなかった。
 後から母親に、
「あの音を聴いてすげえと思えるんなら、まあピアノを習わせたこと、無駄じゃなかったわね」
と言われた記憶がある。
 だって。ほんとにすごかった─── 。


 その立川すずと。高校三年生になって始めて同じクラスになれた。あろうことか席まで隣同士になってしまった。
 自分の立川すずに対する気持ちは恋よりも寧ろ憧憬のようなものだと思っていた。
 けれど。日々少しずつ膨らんでいく渇仰と表現してもおかしくないこの気持ちを、ただの憧れという言葉で片づけたくはなくなっていた。
 立川すずが誰を目で追っているのか。そんなことは承知の上での思慕なのだ。
 これは。
 神様がくれたささやかなご褒美なのだと広大は思うことにした。
 ずっと陰から慕っていた相手と、高校生活最後の一年間を同じ空間で過ごさせてあげようという神様からの贈り物。そう。この片恋は、これまでぼんやりと請われるままに女のコとつき合ってきた自分への神様からの試練、もしくはプレゼント、なのだと。
 ただどういうわけか立川すずの自分を見る目は常にびくびくと怯えていた。親猫から離されたばかりの子猫のように。いまにもにゃーにゃーと助けを呼び出しそうな、そんな瞳で立川すずは広大を見る。
 何でだ?
 それだけが腑に落ちなかった。


 微かにピアノの音が聴こえてきた。音楽室のほうから。遠く風に乗って聴こえてきて、広大はぱっと顔を上げた。
 リストの「ラ・カンパネラ」だ。
 こんな難度の高い曲を歌うように弾けるのは、この学校ではただひとり、立川すずしかいないだろう。
「すず。何かあったのかな」
 立川すずの友人が話している声が聞こえてきた。ちらちらとこちらを見ている。別に広大が立川すずをいじめたわけでもないのに。
「あのコ、嫌なこととか、いいこととか。とにかく気持ちが落ち着かなくなると、あんな風にピアノを弾くんだよね。なんかね、没頭してると、動揺してたこと、全部忘れちゃうんだって」
 動揺。
─── 太陽、カノジョ、いるぜ。
 そう口に出してしまったのは、焦燥か或いは同情か。自分でも説明がつかないのだ。隣に自分がいても尚、立川すずは太陽だけに視線を注いでいた。だけどそんなこと。とうにわかっていたことなのに。
 こちらを向いてと。言いたかったのかも知れない。それにしても代わりに出た言葉があれなんだから。自分も相当へタレてると、そう思う。小学生かよ、と。そうも思う。
「嫌われたかな」
元々好かれていたわけでもないのに。口に出すと胸が苦しくなってきた。
「広大?」
 隣では太陽が心配そうにこちらの機嫌を窺っている。
 広大は投げつけられた立川すずの教科書を胸に抱えたままでいた。立川すずは本気で怒っていた。長いこと怯えていただけだった猫が、初めて爪を立てこちらを攻撃してきた。驚くこちらを尻目に猛烈な勢いで逃げ出した。ちょっかいを出すべきではなかったのだろうか。ただほんの少しでもいいから自分に懐いて欲しかった、距離を縮めたかった、それだけなのに。
 いや。嘘だなと、広大はすぐさまそれを否定した。
 ちょっとくらいは想像していた。その毛並みの艶々した頭を撫でてみたいとか、喉をゴロゴロ鳴らしてほしいとか、小さな身体を抱きしめてみたいとか。すぐ傍にいる相手なのだ。考えないわけがなかった。
─── 撃沈?
 自分でも気づかないうちに苦い笑みが零れていた。友人の太陽が怪訝な顔を見せている。
 広大は太陽から視線を逸らせ窓のほうへ顔を向けた。
 遠く風に乗って流れてくるピアノはいつまでも高い鐘の音を打ち鳴らしていた。そのうつくしく切ない響きは無遠慮に広大の中へと入り込み胸を強く締めつけた。


(完)


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© Chocolate Cube- 2007