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消灯
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 二階建ての古い小さなアパート。二階の廊下を映し出す薄暗い外灯。ひび割れの目立つ足元のコンクリートを見詰めながら白いインターホンを押した。やや間を空けて四角いスピーカーから、はい、と柔らな線の細い声が聞こえてくる。
「俺。蓮(れん)」
「あ・・」
 声のトーンがひとつ落ちる。かちゃかちゃと音がしたかと思うと目の前の扉が開いた。薄いピンク色のチェックのパジャマに身を包んだ、おかっぱ頭の女が顔を出す。
「今日、泊めて」
 出し抜けにそう言う俺に、女は少しだけ目を丸くしてそれでも扉を大きく開けて俺を招き入れる。俺の胸の辺りまでしかない小柄な女の頭からはシャンプーの香り。その脇をすり抜け玄関に入った。
「飲んでるの?」
「うん。ちょっと」
「どうして自分のトコに帰んないの?そんなに遠くないじゃない」
「面倒臭いんだよ」
 俺は勝手知ったるなんとかでずかずか上がり込むと腰を折って冷蔵庫を開け、麦茶の入った細長いガラス瓶を取り出した。水色のプラスティックの蓋をくるりと回す。
 どうして帰らないの、と言ったくせに女はすぐさま、
「お風呂は?入る?」
と、母親みたいな口をきき始める。
「いや、いい。明日の朝、シャワー貸して」
「お腹は?空いてないの?」
「全然」
俺は首を振る。「気ぃ使わなくていいから、座ってれば?」
「・・・うん」
 じゃあ、そうする、と頷くと女は背の低いテーブルの前に腰を降ろした。視線をテレビに向け、映し出された今期最高の視聴率、と謳われる学園ドラマを眺めている。短く切り揃えられた後ろ髪から覗く、細く白いうなじを見詰めながら俺は麦茶を口に含んだ。おかっぱ頭、と口にすると女がひどく嫌がるその髪型。
「違うの。ショートボブって言うの」
 唇を尖らせ抗議するのだ。
 本当は似合ってる、と思うのだが素直に口に出したことはなかった。
 女は俺のコイビトとかカノジョとかそういう類の存在ではない。俺の母親の、二十歳近く歳の離れた妹だ。俺よりみっつだけ年上の俺の叔母さん。名前を佳乃(かの)、という。


 幼い頃、俺と両親の暮らすアパートは母親の実家と同じ町内に有った。母親はしょっちゅうひとりっこの俺を伴って実家に帰っていたので、必然的に俺と佳乃は一緒に遊ぶことになる。佳乃は俺の叔母であり、姉であり、良き遊び相手だった。
 佳乃は俺の言うことなら何でも、うん、いいよ、と聞いてくれた。ぼく、これがほしい、と佳乃の大切にしているおもちゃを欲しがったときですら、うん、いいよ、蓮にあげる、と微笑むのだ。歩くの疲れたおんぶして、と言えば、うん、いいよ、と小柄な身体で俺をおぶってくれた。今日ぼく、泊まる、佳乃と一緒に寝ていい?と問えば、うん、いいよ、でもお姉ちゃんに泊まってもいいかちゃんと確認してからね、と大人ぶった口調で受け容れてくれた。
 佳乃と一緒の布団に入ると、佳乃からは母親とも祖母とも、ましてや父親とも、そして俺とも全然違う甘いふわりと包み込むような匂いがした。俺は幼かったのでそれを子供の女の匂いだと思っていた。
 佳乃は俺に対していつだって寛容で、俺は佳乃と一緒にいる時間はいつも幸せで満ち足りていた。
 幼い子供の一番好きなひとは大抵の場合「おかあさん」なのだろうが、俺はその頃佳乃が一番好きだった。佳乃のことが大好きだったのだ。
 

 ブラウン管に視線を当てながら時折声を立てて笑う佳乃の横に俺も座る。
「何?これってそんな面白いの?」
「すっごく人気あるのよこのドラマ。蓮、観たことないの?」
「ない」
「あ、土曜日の夜だもんね。蓮が大人しく家にいるわけないか」
 佳乃はみかんの皮を剥きながら言う。「今日もおんなじ大学のコと飲んでたの?」
「いや、今日はバイト先のやつらと」
「ふうん・・」
 佳乃の親指がオレンジ色の皮の下に入り込む度、ぴっ、と果汁が飛ぶ。テーブルの上に無数の小さな粒が広がった。
 全部剥き終え白い筋を取ると、はい、と言って手の中の橙色の塊を俺の前に置く。頼んでもいないのに、当たり前みたいにそうする。佳乃はまるで俺のおかあさんみたいだ、といつも思う。みっつしか違わないくせに。
 佳乃はコイビトの諸井(もろい)さんに対してもこんな風なんだろうかと俺は時折訝しむ。


 佳乃は地元の短大に行き、卒業と同時に上京した。本当は短大ではなく東京の四年制大学に行きたがっていたことを身内の中で俺だけが知っている。専門的に勉強したいことがあったようだが、当時すでに定年を迎えていた自分の父親のことを思うと結局最後まで言い出せなかったらしい。そして就職は地元を、と望んでいたにもかかわらず、ことごとく採用試験に失敗し、どういうわけかうっかり受けた東京の地方銀行にだけ採用された。うっかり受けた、と佳乃は言った。
「世の中何ひとつ自分の思いどおりにいかない」がその頃の佳乃の口癖だった。少しも悲観的ではない言い方でそう呟くのだ。大学進学や就職以外の何が思いどおりにいかないのかは、訊ねたけれど答えてもらえなかった。
 高校生になっても俺は佳乃の部屋に入り浸っていた。母親に連れられて来るのではなく、自分の意志でそうしていた。当時回りの友人は皆同じ年頃の女のコに夢中だった。俺もそんな風を装い、時折他のコとつきあったりもした。
 けれど本当に夢中になれた相手は佳乃だけなのだ。 
「俺も東京に行っていい?」
 夕闇の暗い部屋で俺は佳乃にそう訊いた。佳乃の出発の前々日だったと思う。視力の落ちかけていた俺の目に暗がりの中の佳乃の顔はぼんやりとしか映っていなかった。どういうわけか互いに電気を点けようとはしなかった。
「それって、来年東京の大学を受験するってこと?」
「うん」
「ばかね。そんなのあたしに訊いてどうすんの?自分で決めなきゃだめだよ、蓮」
 素っ気無く笑いながらそう言った。
 佳乃は相変わらず俺のすることに寛容だったけれど、甘くはなくなっていた。
「何だよ。佳乃は来て欲しいとか思わないわけ?」
「思わないよ」
はっきりと答える。「だって、蓮はあたしのカレシじゃないでしょ?甥っ子でしょ?いつまでも一緒にいられるわけじゃないんだよ。どうしてそんなこと言い出すの?」
佳乃の声は震えていた。
「そんなこと、口に出したりしないでよ」
 コドモだった俺は佳乃の台詞に打ちのめされてしまって、佳乃がどんな顔をしていたのか確認することも、どんな気持ちでそんなことを言ったのか問い返すこともできないでいた。
 いつまでも一緒にはいられない。
 そう言われたのに俺は執拗にも翌年東京の大学に進学した。
 そしてふらりとこの部屋に現れては泊まって行く。
 他愛のない話をして、その後別々の布団に寝る。
 佳乃は電気を全て消す。普段は豆電球を点けて寝るのに、俺が来たときだけ、灯りを全部落とすのだと言う。その理由を聞いたことは一度もない。
「おやすみ、蓮」
 そう言って電灯から伸びる細い紐を引っ張り部屋を一息に夜陰に落とすのだ。


 みかんの粒を口に運びながら、それを俺に与えてくれた佳乃の指先に視線を合わせた。
 綺麗に切り揃えられた爪がみかんの汁で照っていた。佳乃はマニキュアをしない。
 佳乃はその年齢にそぐわない倹しい生活をしている、と俺はいつも思う。
「もしかしてじいさん達に仕送りしてんの?」
と、一度訊いたことがある。まさか、と佳乃は笑った。ぜいたくが性に合わないの、と言った。
 でも、俺はどんなに質素な生活をしていても、どんなに自分を飾らなくても、佳乃くらい綺麗な女はいないと思っている。すっぴんでいても肌理の細かい白い肌は凛として美しかった。
 ドラマが終わってしまうと、佳乃は台所に立ち、手を洗った。
 石鹸は使わずに水だけで洗い終えると流しの扉に掛けてある清潔なタオルで手を拭う。テレビのリモコンを手に取り翳すと部屋は途端、静寂に包まれた。
 佳乃は俺に向き合って座った。
「何?」
 俺は作り笑いを浮かべる。突然膝をつき合わされて戸惑っていたのだ。
「蓮。大事な話があるの」
 穏やかではない顔で佳乃はそう告げた。


「あんた、まさか、佳乃と変なことになってるんじゃないでしょうね」
 盆に帰省した折に母に突然言われた。俺は言葉を失う。暫しふたりでにらみ合った。
「変なこと、ってなんだよ・・」
「なってないの?」
「・・なってないよ。おかしなこと言ってんなよ」
 母はふう、と大袈裟に溜息を落とした。
「そうじゃないならいいけど。向こうでも仲良くしてるみたいだから心配なのよ」
 母はまだ四十を少し過ぎたばかりだ。俺の友人達の母親に比べると随分と若い。本人もその辺りはかなり意識しているようで若作りに余念がなかった。「大学生の息子さんがいらっしゃるようには見えない」と言われるのがもはや母の中で手放し難い快感になっているのだとうそぶく。
 けれど心配そうな邪気に溢れた母の顔は、実際の年齢よりも母を老けて映し出した。そんな顔付きだった。
 俺はおかしいのだけれど。本当にどうかしてると自分でも思うのだけれど。
 この瞬間、俺は佳乃と変なことになってもいいんじゃないかと、本気で思った。ずっと、そんなことになってはいけないと自分を戒めてきたのに、その母親のひと言で、何だか長年縛られていた呪縛から解かれたような心持ちになったのだ。
 その所為だとは言わないが。
 酔いに任せて一度だけ佳乃を抱こうとしたことがあった。
 いつもどおりに友人と酒を飲んだ後にここへふらりとやって来て、佳乃が消灯する前に自分の為に敷いてくれた布団の上に佳乃を押し倒した。突然のことに、え、と佳乃は声を上げ目を見張った。
 唇を合わせると容易に舌は佳乃の中に滑り込んだ。佳乃は弱々しい力で抵抗をしてきた。
 首筋に顔を埋めると子供の頃と同じ匂いがした。何だ。これって子供の女の匂いなんかじゃなくて佳乃の匂いなんだと初めて知った。
 「蓮、怖い、やめて」
佳乃は俺の肩を押し返しながら消え入るような声で囁いた。「お願い、やめて。怖いよ、蓮。こんなことしたらもう戻れなくなる」
「戻れなくてもいい」
「蓮・・」
 俺は唇を何度も首筋に這わせながら言った。
「佳乃と一緒なら、俺は何もいらない。佳乃だって本当はそう思ってるくせに」
 世間に背いても、両親から見捨てられても、自分が今手にしているもの全てをなげうってもいい、とさえ思った。佳乃とふたりならどこでだって生きていける。
 そう思っていたのに。
 俺はその日最後までことを終えることができなかった。どんなに頑張っても俺は佳乃とひとつになれる状態には至らなかったのだ。直前になると凋落してしまう自分に焦りどんどん深みに嵌ってしまった。
 何がそうさせたのか。
 セックスの経験がなかったわけじゃない。
 アルコールの所為だったのだろうか。実は潜在意識下ではこうなることを望んでいなかったのだろうか。それとも身体に流れる血が俺の意思を無視して諫止したのだろうか。今以ってわからない。
 その日真っ暗な部屋で俺は布団を頭から被って寝た。とてつもなく惨めな思いに支配されていた。俺の背中の向こうで佳乃はずっと泣いていた。
 それから暫く、多分三ヶ月くらいだったと思う。その間佳乃の部屋には足を運ばないでいた。
 堪らなくなって会いに行くと、既に佳乃には諸井さんというコイビトが存在していた。
 それでも俺はこうして何食わぬ顔で佳乃の所へ来ているのだ。折に触れて佳乃の胸の白さだとかそのてっぺんを口に含んだときの感触だとか、俺の下でしなった細い身体だとかを思いだすくせに。
 あの夜のことには互いに触れないままでいた。自分は特別なのだとどこかで高を括っていた。


「もう、こんな風に来ないで欲しいの」
 諸井さんが、気にしてるの、と佳乃は真っ直ぐに俺の目を見てそう言った。
「何て?」
 乾いた唇で訊いた。カーテンで覆われた窓の向こうからは物音ひとつしない。
「いくら叔母と甥でもふたりきりでひとつの部屋にいるのは気になるって、言うの」
 一度も会ったことのない男の話を聞かされてもどう応えたらいいのかわからない。銀行の受付けに座っている佳乃を見初めたという二十七歳の真面目なサラリーマン。
 俺はこれまで全てを緩やかに受容してくれた佳乃からの、初めての拒絶の言葉にただ狼狽えた。
「もし諸井さんがいるときに蓮が来たら誤解されると思うの」
「諸井さん、ここに来るの?」
 思わず目を見張る。
「来るわよ」
「・・・」
「言ってる意味、わかるよね?」
「・・・」
「だから、もう、蓮には来ないで欲しいの」
「佳乃は・・」
「え?」
「佳乃は、諸井さんを好きなの?」
 ずっと疑問に思っていたことだった。佳乃は俯くと膝に落とした自分の手許をじっと見詰めていた。
 少し考えている風に間を空けて、呟くように言った。
「・・好きになれると思う」
「それって、今は好きじゃないってことじゃないか」
 喉元まで込み上げている思いは嫌になるくらい熱いのに、出てきた声はひどく冷たく部屋に響いた。
「・・・」
「何で?何で、好きでもない男とそんなことできるんだよ」
「蓮、聞いて」
 弾かれたように佳乃が顔を上げた。
「何だよ」
「あたし、普通に暮らしていきたいの」
「は?」
「普通に結婚して、普通に子供を産んで生きていきたいの」
 蓮と生きていく勇気が、あたしにはないの。唇も声も指先さえも震わせてそう言った。
「蓮もそうでしょう?」
「・・・」
「そういうことなんでしょう?」 
 俺は身体が急激に冷えていくのを感じた。すうっ、という音すら聞こえてくるようだった。
 部屋の中はどこまでもしめやかだった。
「もう、来ないで欲しいの」
 きっぱりと告げる佳乃に俺は
「・・うん。わかった」
 そう頷いてテレビを点けた。他に発するべき言葉など何もなかった。テレビではすでに次のお笑い番組が始まっていたが、そこに映し出された司会の男が何を言っているのかわからないくらい頭は真っ白になっていた。
 ここへ来るなということは、おそらくはもう、佳乃とは会えないということになる。
 佳乃は俺が今日ここへ来てからずっと、この話をいつ切り出そうかと考えていたのだろうか。そう思うと虚しかった。
 空っぽだと思った。ただ空漠としていた。
 明日からどうやって生きていこう。そんなことを考えていた。


 俺は時折あの夜の、佳乃の涙の意味に思いを馳せる。
 あの夜一線を越えることができていたら、今頃ふたりはどうなっていただろうかと想像する。
 それは余りにも果てがなかった。
 佳乃が戻れないと言った世界に佳乃はすでに帰還していた。俺だけが未だそこに佇んでいた。背負いきれなかった罪を目の前にただ茫然と立ち尽くしていた。
「もう電気、切るね」
 布団に横たわる俺の頭上で声がした。
「・・・うん」
「おやすみ、蓮」
 いつもと同じ声で佳乃が言う。
「おやすみ」
 俺が応える。 
 ぱちんぱちんと電灯の紐を引く音がした。
 そうして部屋から灯りが消えた。


(完)

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© Chocolate Cube- 2005