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第三章  「ねえ、これって恋だと思う?」  7.
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「普通じゃ、ない、こと?」
 祥子は掠れた声で訊き返した。平静を装ってはいたが、心臓は一段と早く打っている。
 天はシーツに埋めた顔を上げようとしない。目を合わせたくないのだ。祥子の戸惑いを察して、たった今自分が口にした言葉を後悔しているのだろう。おそらくは。
 普通じゃないこととはどんなことだろうか。祥子は見慣れない天井をじっと見つめ考える。
 このビジネスホテルは建てられたばかりらしく、部屋は狭いが、内装も家具も真新しく清潔だった。壁紙の色はアイボリー。天井も同じ素材だ。はめこみ式の照明が全部で三つ、等間隔に並んでいる。天の鼓動が祥子の胸に響いていた。首筋に触れる髪の柔らかい質感。漏れ聞こえる吐息。合わせた身体の重みと染み込んでくる温もり。自分を抱きしめてくれる天の存在全てが、祥子は愛しかった。天の後ろ頭をそっと撫でる。
「いいわよ」
 回された腕の筋肉が微かに動いた。
「そらの好きなようにしてくれて構わない」
 どんなことをされるのか全く想像もできないくせに祥子はそう言った。言った途端、羞恥も恐怖もきれいに消え去っていた。
 天が顔を上げた。困ったような表情で祥子を見下ろす。額に額をくっつけてきた。
「……いい、の?」
「いい」
 ふたりでじっと見つめ合う。何だか可笑しくて互いにどちらからともなく吹き出し、笑い合った。
 ひと頻りそうしていた。やがて天は身体を起こすと、祥子の腕を浴衣の袖から抜いた。優しい所作で右腕と左腕を交互にそうした。下着も取りさられる。祥子の腰の下から、解いたばかりの腰紐をすっと引き抜いた。
「手、出して」
 腰紐を手にした天が見下ろしたまま言った。祥子が右手だけを差し出すと、天は苦く笑った。
「ちがうよ。両手出して」
「あ……」
 意味を察して、両手首をおずおずと差し出す。急に現実味を帯びてきた行為に顔が火照り始めた。
 天は紺色と黄土色の縞模様の腰紐で器用に祥子の両手首を縛ると、その紐の先をヘッドボードの上の、壁から伸びるランプの蔓に巻きつけた。両手首を縛られ、万歳をさせられたような格好でベッドの上に裸でいる自分が、にわかには信じられなかった。 こういう行為は生まれて初めてだ。
 祥子はじっと天の顔を見つめていたが、目を当てているだけに過ぎなかった。湧き上がる恥ずかしさにもう何も考えられなかった。
 天は祥子の両膝をそっと抱え上げ胸の上で折る。天がどこを見ているのかを察して祥子は狼狽え、顔を仰け反らせた。そこを見られたことなら何度だってある。口づけられたことだってある。でも、顔を隠すこともできず身動きも取れないこの状態で、常にない動揺からか、祥子の全身はわなないていた。
 両手が自由にならないという行為が、これ程人を心許ない気持ちにさせるとは。
 身を捩りながらも、それとは逆に、微かな昂揚感が身体の芯に芽生え始めているのを祥子は自覚していた。この昂ぶりは何なのだろう。知らないことを知ることへの期待だろうか。あるいは天にこうされることを祥子も待ち望んでいたということだろうか。ああ、そうかもしれない、と祥子は思う。ほんのりと芽生えていた熱は、祥子の中で瞬く間にうねり、膨らみ、やがて胸中に渦巻いていた不安や恐怖さえをも凌駕していった。
 このまま天とふたり、行けるとこまで行きたい。もう二度と帰ることのできない場所まで辿り着きたい。目茶苦茶にされたい。天から離れられないようにしてほしい。そう。もう二度と他の男の人のことなんかで気持ちが揺れたりしないように、しっかりと繋ぎとめてほしい。
 祥子は目を閉じ切実にそう願う。
 どれくらいの時間そうしていたのか。
 天は祥子の脚をシーツの上に下ろすと、祥子の縛られた手首に腕を伸ばした。
「そ、……ら?」
 天は笑っていた。
「やっぱ、無理」
 苦笑混じりに言うと、祥子の両手首を解放した。
「ごめん、祥子さん。変なことさせて」
 祥子は黙って首を横に振った。じんじんと痺れる両手首に視線を当て考える。呆気ない幕切れ。落胆と失意。宝箱を目の前に差し出され、喜び勇んで蓋を開けようと手を伸ばした瞬間、ひょいと目の前から取り上げられる、それに似た後味の悪さを覚えていた。
 天は祥子の傍に身体を横たえると、腕枕をするように祥子の首の下に腕を通し、脱がせた浴衣を祥子の身体に巻きつけ優しく抱きしめた。
「……どうして?」
 祥子は天の胸に顔を埋めて訊いた。知らず責める口調になっていた。
「何でだろ? 俺にもよくわかんないけど。……できなかった」
「あたしじゃ、だめってこと?」
 祥子相手では物足りないということだろうか。天の掌が抱き寄せた祥子の頭を撫でる。
「ちがうよ。っていうか、祥子さんは、俺にとって特別すぎてダメ」
「特別?」
「うん。祥子さんには変なことしちゃいけないって思ったよ。俺とは住む世界が違うっていうか……」
 祥子はむっとした。
「何よ、それ」
「だって、祥子さん、きれいなんだもん」
 きれいとは清潔の意味だろうか。
「そんなこと言われてもちっとも嬉しくない」
 祥子は歯痒くて仕方なかった。天の胸に額を擦りつけて言った。
──してもよかったのに。
 えっ、という天の困ったような声が聞こえた。祥子の鼻先にある天の胸が小刻みな震動を繰り返す。笑っているようだった。
「お願いだから、そういうこと言わないでよ。一生懸命気持ち、抑えてんのにさ」
「あんまり、優しくしないで」
「何で?」
「そんな風に優しくされるとつけ上がっちゃう」
「いいよ、つけ上がっても」
 側頭部に天の唇が触れる。何度も愛しそうに口づけられる。こんなにも大事にされているのに。こんなにも優しくされているのに。なぜなのだろう、互いに近づけそうで近づけない焦燥感で祥子の胸はいっぱいになる。掌に力を込め抱きついた。
「そら、訊いていい?」
「ん?」
「何を、しようとしたの?」
 祥子の髪を撫でていた手の動きが瞬間止まった。天は頭を起こし、祥子の上になったほうの耳許に唇を寄せると、いたずらっぽく囁いた。
「な、い、しょ」


 シングルの狭いベッドの上でふたり、長いこと横になっていた。
 空調はほどよく利いていて、寒くも暑くもない。ただ、少し乾燥しているのか、喉が痛かった。 廊下を歩く足音。排水の流れる音。外で大声を張り上げる酔っ払いの喚き。大勢の跳ねるような笑い声。それらをただ聞くとはなしに耳にしていた。静寂な時間の流れにいつしか安らぎが戻ってきていた。先程までの熱が嘘のようだ。中途半端に遮断されてしまった熱は、もうすっかり薄まっている。
 天はずっと祥子の髪を優しく撫でさすっていた。それでも祥子は訊ねる。
「……起きてる?」
「うん。起きてるよ」
 いつもの天の声が聞こえてきて安心する。
「ねえ、そら」 祥子は囁くような声で訊ねた。
「そらはいつも教会で何をしてるの? 牧師さんと話をするだけ?」
「うーんとね」
天はそっと身体を仰向かせた。「犬がいるんだ。アッシュっていう犬。名前はかっこいいでしょ? でも普通の雑種でね、すっごい鈍くさいやつなんだ。そいつを散歩に連れてったり、後、近所に家具工房があるから、そこで遊ばせてもらったりしてる」
「……遊ぶ? 家具工房で?」
「うん。いらない木で何かテキトーに作ったりしてる。ときどき手伝ったり。俺、器用だから、結構重宝がられてるんだ。そこね、教会の信者の人がやってるから」
「へえ……」
 意外だった。犬を可愛がる天というのも想像できなくはないが、何となく幼い頃に虫を平気で殺していたという話と合致しない気がした。それに、こちらにちゃんと天の居場所があるという事実が、当たり前のことなのに微妙な違和感をも覚えて、どうにも実感が持てなかった。 祥子は天の温もりを額に感じながら、重くなった瞼を閉じた。たまらず欠伸を洩らす。
「祥子さん、眠いの?」
「うん。眠い」
祥子はコドモのように甘えた声で頷いた。「もう、このまま寝ちゃっていい?」
「え……」
 天は間の抜けた声を出すと、やおら祥子を仰向かせた。上から瞳を覗き込んでくる。
「それはね、ちょっと無理」 ふっくらとした薄桃色の唇の端が上がり、きれいに形作られる。
「俺、そこまで優しくはなれないよ」
 天は言うと、祥子の唇に自分のそれを柔らかく重ねた。祥子も微笑みながら受け止める。
──この時間がいつまでもつづけばいい。
 胸が押し潰されそうなくらい強くそう願いながら、祥子は天の動きに懸命に応えた。
 

 翌朝も快晴だった。
 昨夜、祥子はあまりの寝苦しさに、寝入っている天から逃がれるように隣のベッドに移った。シングルのベッドで大人ふたりが寝るには、天の長い腕と脚が途轍もなく邪魔だった。なのに、目覚めたら、天の寝顔が横にあった。昨日の朝と同じだと思った。
──全く……。
 何て甘ったれなのだろうか。
 でも、可愛い。眠っている天の鼻の先をちょんと突ついてみたが、反応はなかった。 祥子はベッドから降りると、カーテンを開け放し、開閉不能な大きな窓から外の景色を眺めた。 太陽はすでにそう低くない位置にある。外の空気はとっくに動き始めているようだった。
 駅前ばかりが拓けているようで、その向こうはそれほど高くない住宅などの建物が広がっている。遠くには工場の煙突も見える。ここが天の故郷なのだとふと思った。天はこの街を好きなのだろうか。祥子と暮らすあの場所よりはおそらくは思い出深いだろう。昨日はそんな話はしなかった。
「ん……」
 背中から天の声が聞こえた。窓から差し込む日差しが眩しかったのか、まだ寝ていたはずの天がごそごそと動く気配がする。振り返ってみると、天は瞬きながら薄目を開けていた。
「おはよう、そら」
 聞こえているのかいないのか。天は開いた瞼を閉じると、もう一度寝入ったように動かなくなった。
「そら?」
 名前を呼ぶと、今度は勢いよくがばっと上半身を起こした。
 途端、全身から力が抜け、まるで寝ぼけているみたいにふらふらと首を揺らし始めた。置きぬけの髪の毛は爆発したみたいにぐしゃぐしゃだ。浴衣もはだけて、かろうじて腰紐が繋がっているだけのような状態で、着ているんだかいないんだかよくわからない。せっかくの美貌が台無しじゃないの、と呆れ、笑った。
 天が項垂れていた頭をゆっくりと起こした。こちらに顔を向ける。眩しそうに眉根を寄せつつ少しだけ瞼を開いた。祥子を認めた途端、たちまちその目尻が嬉しそうに下がった。
「おはよう、祥子さん」
 顔全体がくしゃくしゃっと、可笑しいくらいにほころんでいた。



第三章「ねえ、これって恋だと思う?」(了)

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