夜のなかの
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 イッキとふたり、手をつなぎ歩いて帰った。
 まだ冷たさの残る春の夜風に吹かれながら。
 時折ぽつんぽつんと思い出したように姿を見せる薄桃色の桜を愛でながら。
 こんなシチュエーションは初めてだ。
 手をつないで歩くなんて、普段のあたしたちからはちょっと考えられない。
 イッキはどちらかというと照れ屋さんで、いっぽうあたしはあたしでイッキとコイビトドウシらしい振る舞いをすることに未だ途方もない躊躇いを覚えてしまう。
 イッキの髪の毛に一片、桜の花びらがついていた。取ってあげようかどうしようか、そんなことさえ迷うのだった。イッキの側の掌はイッキの手中にあるし。反対側の手を伸ばしてまで払うほどのことでもないんじゃないかと、くだらないことでうだうだと思案に暮れるのだからどうしようもない。
 行動を起こせない理由は他にもあった。
 隣に並ぶイッキの口が、急に重くなったからだ。その重さは握った手を通さなくとも、ふたりの間に今ある空気だけでひしひしと伝わってくる。
 さっきまでうるさいくらい喋っていたのに。あたしのくだらない冗談にも、酔っているからか殊更豪快に声を上げて笑ってくれていたのに。
 アパートが見え始めたあたりから突然押し黙ってしまったイッキ。だからこちらもつい身を硬くしてしまうのだ。
 髪の毛に触れることなんか。
 とてもじゃないけどできっこない。
 アパートの階段を上がる。
 古びた階段。
 静かな夜のなか、錆びた階段はかんかんと音を立てる。ふたりで並んで上るにはちょっと狭い。それでもイッキは手を離してくれない。なので手を伸ばし、前後斜めになって上った。
「イッキ?」
 斜め後ろの角度から見上げ、恐る恐る声をかけた。お気に入りのジーンズを穿き、チェックのシャツを羽織っている。イッキは凝った格好はあまり好まない。ジーンズだって、お気に入りのものが見つかると長いことそればかりを穿いてたりする。少し癖のある伸びた髪を耳にかけていた。頬骨から顎にかけての綺麗に整った線がよく見える。名前を呼んでも返事もしない。恨みがましい思いでじっと見澄ました。
「どうして急に静かになっちゃったの?」
「……うん」
 こちらを見ようともしないで、ただぽつりとうん、と言った。
 うん、ってなんだ?
 酔いがすっかり醒めてしまったのだろうか。やっぱりイッキは素っ気無い。溜め息が洩れる。
 自分の部屋の前に辿り着いたイッキはポケットをごそごそと探り、鍵を取り出した。キーホルダーもつけてもらえない銀色の鍵。ドアが開く。中は当たり前だけど真っ暗だった。目にした瞬間、何ていうか、どきっとした。
「入れ」
 イッキがむっつりとした表情のまま、そんな言い方をする。相変わらず無愛想。
「うん」
 一歩足を踏み入れただけでイッキの部屋の匂いがして胸がきゅっと苦しくなった。イッキの匂いだけで苦しくなるなんて。あたしはちょっとヘンタイがはいってる。
 ああ。
 やっぱり来ないほうがよかったかもしれない。胸に湧き上がるのは、しても仕方のない後悔ばかりだ。
 イッキが後ろ手にドアを閉める気配がした。すっと視界の端にごつごつと大きな手が伸びてきて、思わずびくっと身体を揺らした。伸びた手は電気のスイッチを押す為のものだったらしく、部屋がぱちぱちと瞬きしながら明るくなった。
「何怯えてんの、お前」
 呆れたような怒ったような声が聞こえてくる。
「え? やだ。全然。そんなことないよ?」
「ふーん。そ」
 まともに顔を見ることもできなくて、イッキに背中を向けたまま靴を脱いだ。
 小さな台所を通り、奥の和室へと足を踏み入れる。
 綺麗に整頓された部屋。机の上には広げたノートと分厚い六法全書。
「イッキ、ちゃんと勉強してるんだね」
 当たり前だろ。
 そういう返事が戻ってくるとばかり思って、わざわざ声に出して言ったのに。後ろのイッキは口を開かない。言葉のキャッチボールをする気は端からないらしい。鍵をどこかに投げる硬質な音と、足を踏み込むたび軋む床の音しか聞こえてこない。
 沈黙が重い。
 部屋の中央まで行き電灯から伸びる紐を引っ張った。こちらは瞬きはしない。一瞬にして放つ白い光で部屋を満たした。
 明るくなったのでほっと安堵する。ほんとうに。何を怯えているのだろうかと自分でも呆れる。
 いつもどおりのイッキの部屋だ。
 真正面の窓を白地に濃紺のチェックの入ったカーテンが覆っていた。右側に机。左側にベッド。机の向こう側には専門書のいっぱい並んだスチールラック。カーテンレールにはバイクに乗る際よく羽織っている見慣れたスタジャンが掛けられてあった。
 喉が渇いていた。
 酔いの所為と、ちょっとばかりの緊張の所為。
「ね、イッキ、何か飲み物……」
 振り返ろうとした顔に影が射した。
 声を出す間もなく、背中側から伸びてきた腕に上半身を包み込まれていた。それは息を呑むほど優しく柔軟な感触で、大きな翼にふわりとくるまれるようだった。
「一、子……」
 耳許に熱い息がかかった。溢れるほどの切なさを孕んだ声の響き。思い切り心臓が跳ね、全身がかあっと熱くなった。
「や……、ちょっと、イッキ、やだ」
 身を捩る。
「やだ? やだって何だよ」
「だって、そんな、いきなり」
「いきなりじゃない」
「今帰ってきたばっかり、だよ?」
「お前ね。今までどれだけ我慢してたと思ってるんだよ」
 イタイとこを衝かれた。それでも無駄な抵抗を試みてみる。
「ね、あたし汗かいてる。シャワー、使わせて」
「ダメ。もう無理」
 首筋に何か冷たいものが触れている。唇だ。イッキの唇。ひゃあっと思わず首を竦めた。
「イッキ、お願い」
「無理だって。もう、止まんねえよ」
 あ、っと思う間もなく掌がカットソーの裾から侵入してきた。あたしはきゅっと瞼を閉じ身体を縮こまらせた。


 変な話なんだけど。
 あたしはイッキとキスしたり抱き合ったり。そういう行為に及ぶことが恥ずかしくて仕方なくなってしまっていた。
 まだ仲直りをしていなかった頃。あたしはイッキが欲しかった。一度でいいからイッキに抱きしめられたいと望んでいた。イッキがどんな風に女のコを抱くのか、知りたい気持ちも強かった。
 本当にバカみたいな話なんだけど。世間知らずだと笑われちゃうかもしれないんだけど。ちっちゃな頃から好きな男のコはイッキただひとりだけだったのだ。
 だから自分のほうから誘惑するような、今から思えば赤面モノの真似をした。そうまでしてもイッキを、ほんのひとときでも構わないから手に入れたいと望んでいた。
 でも。
 時間が巻き戻ったかのように、元の憎まれ口を叩く幼なじみの関係に戻ってしまうと、今度は逆にそういう行為をしてしまうことに強い抵抗を感じるようになっていった。
 あたしたちは幼なじみであって男と女であってはならないような。そんな気持ちになってしまったのだ。


 イッキの腕のなかで。
 あの夜あたしは快感のかけらを手に入れた。
 生まれて初めての行為であるにもかかわらず、元からそこに確然と存在していたかのようにそれは案外容易に芽生え、簡単に大きく膨らんでいった。
 気をうしないそうになるほどの痛みのなかですら消えることはなかったのだ。怖かった。怖くて恥ずかしかった。
 イッキにだけはそんないやらしい自分を知られたくないのに。
 だけど。
 とっても悔しいのだけれど。
 イッキはきっと気付いただろうな、と思う。あの夜きっと気付かれた。
 イッキはとっくに知っている。
 そして。イッキでなければ、そんなあたしを探し当てることもまたできないのだと思った。


 イッキはカットソーの裾と一緒に下着までも胸の上までずり上げた。
 懸命に首を横に振り拒絶の意思を表明しても構うことなく手を唇を動かしてくる。
 こんな真っ白な灯りの下で。服をちゃんと脱がせてももらえないで、胸の膨らみだけを露にしている姿はさぞや淫らに違いないと気付き、もうこれ以上ないというくらい顔が火照った。耳まで熱い。イッキの指の巧みな動きによって、身体の中心に思いがけない熱が生まれる。こちらは戸惑うばかりだ。
「いや、いや、イッキ。お願い。電気、消して」
「いやだ」
「イッキ」
「見たい」
 は?
 みっ、見たい?
「見たいんだよ」
 見たいって、そんな。
 泣きたい思いでゆっくりと振り返り、視線を合わせた。
 イッキはこちらがびっくりするくらい真剣な顔をしていた。黒い瞳が強く真っ直ぐこちらに向けられている。
 その表情にはどこか遠い昔を思い起こさせる部分があった。いったいなんだったろうかとあたしは考える。遠い記憶を手繰り寄せ、一枚一枚丁寧にカードを捲るように探してみた。
 案外簡単にそれはみつかった。
 幼い頃。あたしの持っている玩具やお菓子をほしがるときに見せた表情となんら変わりなかった。今見せているのと同じ真摯な顔をしたイッキに、ただ一心にちょうだいとねだられれば、あたしはそれらがどれほど大切なものであろうと易々と手放すことができたのだ。呆気なくイッキに譲ったものだった。
 今目の前にあるこの顔は。あの頃見せた顔とおんなじだ。
 ずるいな、と思う。
 イッキはずるい。
「えっち」
 身体の向きを変えイッキに対峙すると、服をもたもたと擦り下げながら抗議した。
 あたしの言葉に一瞬きょとんとしたイッキは、すぐにむっとした顔になった。怒ってる。
「えっちって何だよ。見たいもんは見たいんだよ」
 唇を尖らせて呟いた。不貞腐れてるみたいな顔。わがままイッキ。その髪にはまだ桜の花びらが貼りついていた。
 あたしはイッキと見つめ合ったまま、わざと伸びている紐を引っ張り部屋の灯りを消した。ひと息にあたしたちは暗い闇の底へと突き落とされる。
 灯りを落とした手をそのままイッキの首へと伸ばして、今度はあたしのほうから抱きついてやった。イッキの唇に自分のそれを強く押し当てる。
 再び身体に回されたイッキの腕に、羽根のような柔らかさはもう微塵も感じられなかった。捕えられていた。鎖のように。ぎゅうっと強く抱きしめられていた。
 熱が。欲が。回された腕から衣服越しにどんどん浸潤してくる。その深さを隠そうともしないであますことなく伝えてくる。
 逃がさない。
 強い意志の感じられる力にあたしは眩暈さえ覚えていた。
 逃げられない。
 もうどこへも逃げられない。このままイッキに囚われるのだ。
 あたしたちはもう、何も知らないコドモなんかじゃなかった。
 瞼を閉じ身体中の力を抜いて全てをイッキに委ねた途端、ベッドに倒れ込んでいた。
 今度はきちんと服を脱がされた。いつもクールなイッキがどこかもどかしそうに自分のシャツをも脱ぐ様を下からじっと見つめていた。
 イッキの温もりを直に感じた途端、イッキへの愛しさが込み上げてきた。どこにも隙間ができないように皮膚と皮膚の表面を重ね合わせ関節という関節を絡め合わせた。互いの肌は温かく、汗でしっとり湿っていた。
「溺れそう」
 一子のからだに溺れそうなんだけど、と。イッキがあたしの胸に口づけしながら掠れた声でそう言った。
 いっ。
 いやらしい。
 何を言っているのだろうかと思う。さっきまで殆ど喋らなかったくせに、そんなことだけは口に出して伝えてくるなんて。やっぱりイッキは女ったらしだ。
 溺れそうなのはこちらのほうだ。息が苦しくて、喘ぎもがいてしまいそうなくらい身体中が切なかった。呼吸すらまともにできそうにない。本当に。溺れているみたいだった。いっそ泣き声をあげてしまいたかった。
 このままふたり夜のなか、深い海の果てへと沈んでいくのだ。そこはきっとどんなにか甘い千尋の闇に違いなかった。
 怖いな、と思った。自分がどんな風に変わっていくのか、怖くて仕方なかった。
 あたしは助けを求めるように必死にイッキのからだにしがみつき、そうすれば再び正常な呼吸が取り戻せるかのように、唇への口づけを何度も請うた。


(完)

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