GOKUSEN
半月 ─ハーフ・ムーン─ 1.
まだ冬の気配の残る三月上旬。
沢田慎は家庭教師のアルバイトを終えると真っ直ぐ自宅に向かった。仄り明るい外灯の元で腕時計を見る。
彼女はもう部屋に来ているだろうか。おそらくは今頃慣れない料理を悪戦苦闘しながら作っているか、或いは今日は忙しくて疲れちゃったからと言い訳めいたことを口に上らせてコンビニ弁当をふたり分買ってきているか。本音を言わせてもらえば後者のほうが慎には有難かったりする。
どちらにしても二週間ぶりに会えるのだ。
慎はアパートの近くまで来ると自分の部屋を見上げた。白く明かりが灯っているのを確認した途端胸にじんわり温かいものが広がるのを自覚して自分はこんな人間だったろうかと思う。
独り暮らしを始めた頃は誰にも干渉されたくなくて友人にもそのことを直ぐには話さなかった。あの頃の慎は、ひとりで居るほうがはるかに気楽だったのだ。
アパートの屋根の上の南の空に黄色い半月が浮かんでいた。
ほんの何日か前に見た時には三日月だったのに。あれがいわゆる上弦の月というヤツか。
慎がそんなことを考えながらアパートの階段を上がっていると、山口久美子の豪快な笑い声が自分の部屋から漏れ聞こえて驚く。
───え?
いくらなんでもひとりで居るのにその高笑いはないだろうと思う。
部屋の前に立って初めて中に居るのが久美子ひとりではないことを察した。久美子と楽しそうに会話を交わす男の声が耳に入り思わず鍵を持つ手を止めた。
───誰だよ・・。
ゆっくりとドアノブを回す。鍵は掛かっていなかった。
ドアを開けると
「あ、沢田、おかえりー」
「よ、慎」
並んで台所に立つ久美子と内山春彦が顔を覗かせた。
「なんだ、うっちーか・・」
仕事帰りらしく、頭にタオルを巻いてベージュの作業衣を着た格好の内山は手にしていたフライパンをコンロに置くと、慎に近づいてきてその手を顔の前に立てた。
「悪ぃ。やんくみ来てるって知らなくてさ」
「珍しいな。どうしたんだよ?」
慎は靴を脱ぎながら訊く。内山は慎が気の毒になるくらい申し訳なさそうな顔をして言った。
「今日、かあちゃん社員研修とかで居なくてさ。ちょう度仕事の現場がこの近くだったから慎居るかな、と思って寄ってみたんだ」
「・・・」
「俺、ふたりの邪魔したくねえから帰ろうとしたんだけど、やんくみが上がってけってうるさくて・・。ほんと悪い」
まあ、そんなとこだろうなと慎は思う。
「いや全然構わねえよ。そんなこと気にすんなよ」
慎が部屋にはいると
「沢田ぁ・・」
久美子がニヤニヤしながら近寄ってきた。こちらも仕事帰りの様子でいつも通りのふたつに結わえたおさげと眼鏡に、服装は灰色のタートルのセーターにジーンズを履いている。
「ほら、見てみろ、これ」
じゃじゃーんと、自慢気に黄色い楕円形の塊が乗った皿を差し出す。
「オムライスじゃねえか」
「そうなんだよ。美味そうだろ?内山、すっごい料理が上手なんだ」
「へえ・・」
確かにとろりと垂れた黄色い半熟の卵は艶々とおいしそうに見えた。チキンライスのケチャップの温かな匂いも食欲をそそる。
さらに久美子は隠し持っていた皿もふふん、と差し出した。
それを目にした途端慎はうっ、と言葉に詰まり仰け反った。
オレンジ色のチキンライスの上に黄色い厚焼き玉子のような物体が乗っかっていた。玉子にはところどころ茶色い焦げ目が付いている。
「・・・な、何だよ、これ?」
慎の台詞に久美子はむっとする。
「何って、オムライスに決まってんだろ」
「お前が作ったの?」
「うん」
玉子焼きの真ん中には包丁の切れ目がくっきり入っていた。本来ならそこから形が崩れて柔らかなとろみが流れ出てくるのだろうが、久美子の作った中身がカチカチに固まってしまったそれは玉子焼きの原形を留めたままだ。
「沢田、どっち食う?」
「こっち」
慎は間髪を入れず内山の作品を選んだ。
「あ、やっぱり」
「当たり前だ」
「ちぇ」
ふたりの遣り取りをコンロの前に立ったまま聞いていた内山は、はは、と上を向いて笑った。
慎が久美子の皿に手を伸ばして、冗談だよ、と言おうとしたその時、
「俺、やんくみが作ったやつ食うからさ、やんくみ、それ食えよ。慎のは今焼いてるから」
内山が振り向いてそう言った。
「え?ほんと?いいの、内山?」
「俺はいつでも食えるからね」
「内山はほんっと優しいなあ」
久美子は鼻歌を歌いながら手にしていた皿をテーブルに運んだ。
慎は肩を竦める。
「・・うっちー」
「ん?何?慎?」
「俺も何か手伝う」
「いいよ、慎は座ってろよ。後ちょっとで出来るし」
「これ何?」
慎は鍋の中身を覗き込む。いつもは味噌汁を作る以外能がない百円均一の店で購入した雪平鍋に、今は澄んだスープにもやしときくらげが浮いている。
「もやしの中華風スープ」
慎は一瞬言葉を失う。自分と同い年の男の作る料理とは思えない。
「・・・すげえな、うっちー」
「だろだろ」
久美子は慎の肩越しに顔を覗かせると「こいつさ、買い物に行ってもこれは高いだの、新鮮じゃないだの、うるさいのなんのって。まるで主婦だね」
「料理歴長いからね。・・やんくみは大雑把過ぎんだよ。テキトーに何でもかんでもカゴに入れちゃってさ」
何、お前ら、一緒に買い物に言ったの?と、訊きたい言葉を呑み込むと慎はふたりから離れた。
何だか自分の家のキッチンに居る気がしない。これじゃ、自分のほうがお客さんみたいじゃないかと思う。
上着をハンガーに掛けると風呂場で手を洗いながら、そこまで響いてくるふたりの笑い声を聞いていた。
戻ってきた慎の視界に長身の友人の広い背中と、その傍にぴったりとくっついて内山の手元を覗き込む久美子の華奢な後ろ姿が映った。
暫くそのふたつの背中をぼうっと眺めていたが、慎は溜息をひとつ落とすとテーブルの前に腰を降ろしてテレビのリモコンのスイッチを押した。
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