GOKUSEN
半月 ─ハーフ・ムーン─ 3.
どうしようか。
このまま家に帰ろうか。なんだか、それもつまんねえよな、と腕時計で時間を確認しながら内山春彦は考える。
まだ三月の夜だと言うのに頬に触れる空気は妙に生暖かい。
内山はポケットに両手を突っ込むと顔を上げた。見上げた瞳に黄色い半月が映る。
まあるい円を見事に真っぷたつに割ったようなその形に、そして放つ白い光に思わず見惚れる。綺麗だな、とただ純粋に思う。
───あれ?なんで月って毎日形が変わるんだっけ?
確か、月と地球と太陽の位置が関係していた筈だと思い出すが、どの球体がどの位置に来るからどう月の形に影響してくるのか内山にはさっぱり思い出せない。小学校の理科の時間に習ったという記憶があるだけだ。
───だめじゃん。
こういうところを上手く説明することができれば女のコともっとロマンティックな会話を交わすこともできるのだろうが、自分には無理だ。
きっと、さっきまで一緒にいたあの頭の良い友人ならきちんと説明できるんだろうな、と思う。
───だけどやんくみと慎がしっとり月の話をしてるとこなんて全然想像できねえよな。
思わず笑いが零れる。
先程見たふたりはちゃんとコイビトドウシだったな、と内山は思う。
あの殺風景な、必要最小限の物しかなかった彼の部屋にちゃんと山口久美子の居場所ができていた。そしてそこに彼女はきちんとおさまっていた。
相変わらず天然で豪快で色気というものを全く感じさせなかったけれど。
───慎の前ではきっと違うんだろうな・・。
彼とふたりだけの時には誰も知らない山口久美子が存在しているのだろう。
内山はぼんやり月を見ながらそんなことを思った。
「へい。らっしゃい」
熊井ラーメンの暖簾をくぐるといつもの友人の快活な声。「おう。うっちー、久しぶり」
「ちっす」
内山はがらんとした店内を見回すと、カウンターの前に腰を下ろした。「珍しいじゃん。こんな空いてるなんて」
「そうなんだよ。忙しい時は外にお客さんが並ぶくらいいっぺんに来るんだけどよ」
熊井輝夫は厨房から出て来ると濃いオレンジ色のカウンターを布巾でごしごしと拭く。相変わらずのニコニコした笑顔で、こんな風にぽっかり客足が途絶える時間が一日のうち何回かあるのだと教えてくれた。
「何食う?ラーメン?」
「や、今慎のとこで飯食って来たからな。ギョーザとビールもらおうかな」
「了解」
クマは厨房の中にいるアルバイトの女のコに「ギョーザ一人前ね」
と声を掛ける。ハタチくらいのぷっくりと体格のいい、ひとのよさそうな女のコはこっくりと笑顔で頷いた。
「慎のとこに行って来たのか?」
クマがビールとコップを持って内山の隣に座る。
「ん?ああ」
「慎ってさ・・」
「ん?」
「その・・」
クマがニヤついた顔で首を傾げながら言い澱む。その仕草がなんともむず痒い。
「何だよ?言えよ」
「いや。やんくみとさ・・」
「・・・」
「慎って、やんくみとつき合ってるんだろ?」
内山は目を見開く。ああ、とうとうクマも知ってしまったか、と何故だかそう思った。
「ここんとこさ、ふたりでよく来てたのよ、ラーメン食べに。初めはなんとも思わなかったんだけどさ。3回目に一緒に来た時にさすがに変だなあと思って」
クマは言いながら内山のグラスにビールを注ぐ。「もしかしてふたりつき合ってんの?って訊いたらそうだって言うだろ。びっくりだよ」
そう言ってからクマは
「まあ、慎はさ、昔っからやんくみのこと好きみたいだったけどな」
笑いながら何度も首を縦に振っている。「うっちーのおかげだって、慎言ってたよ」
「俺?・・俺は何もしてねえよ」
自分はちょっと嘘を吐いただけだ。「俺が何かしなくってもさ、あのふたりは結局くっついてたんじゃねえの?」
「まあ、そうかもな」
ふたりで意味もなく頷きあう。バイトの女のコが不思議そうな顔でふたりを交互に見ながらギョーザをのせた皿をカウンターに置いた。韮とニンニクの匂いがじんわり漂ってくる。
「だけど、あのふたりがねえ・・」
クマはまだなんとなく納得がいっていない様子だ。元クラスメイトと担任教師、しかも女のほうが6歳上だからだろうか。
「いや、あのふたりがねえ・・」
「何だよ」
「いや、あいつら・・」
「ん?」
「や・・・やってんのかね?」
内山は思わず持っていたグラスを落っことしそうになった。真っ赤になって椅子から立ち上がる。
「ば、ば、ばかっ、クマ。おま、お前、なに、何想像してんだよっっ」
ひとの良さそうな顔して何を言い出すのだこの男は。
「え?あ、悪い悪い。いや、なんか想像できなくってさ」
「想像するなよっ」
「だから、してないって。できないんだってば」
「・・ったく」
内山は再び背の高い椅子に腰を下ろすとビールを呷る。できればそういうことは考えたくないと思った。
「うっちーはいねえの?」
「あ?」
「今、カノジョいねえの?」
「いないよ」
「ふうん」
つき合った女の子は何人かいた。でも、少しも上手くいかない。
なんだか変に気を使ってしまって気疲ればかりしている自分がいるのだ。
最近気が付いたのだが、自分が気楽に話ができる女といったら母親と、後はあの元担任くらいなものだ。
それに、社会人になって女の子とつき合ってみて初めて知ったのだが、結構どのコも計算高い。三高という言葉が昔流行ったらしいが、今でもそうなんじゃないかと首を捻る。自分はそういうコたちのお眼鏡には到底かないそうもない。そのくらいのことはいくら白金出身の自分にだってわかるのだ。
自分の手取りのお給料よりもはるかに値の張る高級な鞄や腕時計を身につけている女にはとてもではないがついていけないと思うし、また、そんな女には魅力も感じない。
もっと、こう、自然体のコがいたらな、と願うばかりだ。そういうコが現れるまでは別にカノジョなんかいなくたっていいや、と最近では開き直れるようになった。
内山はカリッと焦げ目のついたギョーザをたれにつける。オレンジ色のラー油が突然の浸入を拒むように揺れながら小さな皿の端に避けた。口に入れてから内山は驚く。
「うまっ。あのコ、ギョーザの焼き方すっげえうまいじゃん」
少しもべたつかず焦げ臭くもない。カリカリと香ばしい。この焼き方はなかなかできるもんじゃないと内山は感心する。さっきまで一緒に居たあの女には絶対無理だ。あの女の料理の手際の悪さといったらある意味神業だ。
ふっと、クマに視線を移すとなんだかニコニコと嬉しそうな顔。まるで自分が褒められたみたいに喜色満面だ。
───あれ?あれれ?
「おい、クマ?」
「へへ」
「な、何だよ、そういうこと?え?いつから?」
内山はクマの肩を揺らす。
「へへ。いや、ちゃんとつき合いだしたのは最近なんだけどね」
照れ臭そうにぽりぽりと後頭部を掻く。
内山はクマの選んだ女のコに視線を注ぐ。クマや、クマの母親に負けず劣らず肉付きのよい身体で厨房の中をちょこまかと動き回っている。顔をよく見ると可愛いと言えなくもない。ある意味自分の思うところの自然体のコだ。
───へえええ。
「いや、いいコ見つけたじゃん」
「そう思う?」
「思う、思う」
内山は箸で摘んだギョーザを目の高さに持ってくる。「うん。いいよ。なんか、このギョーザの焼き方にクマへの愛を感じるね」
「ばか。うっちー、何言ってんだよ」
恥ずかしさの所為かクマは遠慮なくばしばしと内山の背中を叩く。
───痛えよ。
クマと厨房の中の女のコは顔を見合わせて笑っていた。心が通い合うという言葉があるが、そんな感じだ。そうだ。コイビトドウシはこうでなくっちゃいけない。
残念ながら今まで女のコとつき合ってきたなかで、そんな風に感じた相手は自分にはひとりもいなかった。
内山は愛情の沢山詰まったギョーザを口にしながら、今日料理の買い出しにスーパーに出掛けた久美子との時間をふっと思い出し、それを掻き消すようにビールを呷るとギョーザを無理矢理喉に流し込んだ。
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