GOKUSEN



彼女の恋愛 1.


つい先程まで寒さを感じていた筈の皮膚という皮膚が今はひどく火照っている。
慎によって追い上げられてしまった身体の細胞のひとつひとつが羞恥心で埋め尽くされ、どんな顔をすればいいのかそれすらよくわからない。
自分の反応を窺うようにじっと見詰めてくる慎から顔を背け、灯りを小さく落とす間際に自分の手で閉めた生成りのカーテンに視線を移した。あのカーテンの向こうの窓は小さな水滴に覆われていて、外はかなり気温が低そうだった。
 ───いたいっ・・。
久美子は下半身から腰にかけて走る強烈な痛みに思い切り顔を顰めた。上げそうになった呻き声を無理矢理呑み込むと瞳をぎゅっと閉じる。
 ───何だよ。二回目でもメチャクチャ痛いじゃねえか。
めくるめく。
快感。
と。
彼女たちは言った。
前戯の比、ではない。
と。
川嶋菊乃と藤山静香が言うところのそういった感覚を今日こそはとちょっぴり期待していた久美子だが、余りの痛みにそんな過誤はきれいさっぱり闇の彼方へ吹っ飛んで行ってしまった。
そう言えば何だってそんな話になったのか。よくよく考えてみれば女教師3人が神聖な職場で交わす会話だとはとても思えない。
殆ど経験もなくそういった類の話に全く疎い久美子にとって、ふたりの会話は初めて覗く未知の世界、まさに秘境の地に踏み込んだような感覚だった。けれどいい歳をしてそんな事実を口に出すこともできず、嘘臭い笑みをその顔に貼り付けわかっているようなフリをして、それでも自分なりに今後の参考にさせてもらおうとふたりの会話を目を白黒させつつもしっかりと拝聴した。
それにしても。
川嶋はともかく、藤山は自分と同じく結婚の経験も無く年齢だってそんなに違わない。それなのになんだかもの凄く際どいことを口にしていたような気がする。恋愛経験の差というやつか。負けているのか?何だか悔しい。
少しずつ薄れていく痛みに耐えながらそんなことを考えていると眼瞼の向こうで揺れていた影がふっ、と止まり、
「・・・どうした?」
低い声が問うてきた。
「え・・」
「すんげえ辛そうに見えるんだけど」
「・・・」
「まだ痛え?」
ゆっくり瞼を開く。両手を久美子の肩の横に突いた慎の表情は天井の灯りの影になって暗くてよく見えない。けれど気遣わしげな声がやけに艶かしくて聞いているこちらのほうが恥ずかしい、と久美子は思う。
慎の身体の向こう側には豆電球の橙色の灯り。お願いだから真っ暗にしてくれと頼んだのにいやだと突っ撥ねられ、結局慎は消してくれなかった。
久美子は息をひとつ呑み込んでからゆっくりと口を開く。
「痛いけど。・・この前ほどじゃないよ」
掠れた声が自分の口許から零れ出る。
慎は突いていた手を肘に換え、顔を近づけると久美子の目尻に僅かに滲んだ涙を親指で拭った。
「ごめん・・」
申し訳なさそうな声に久美子は戸惑う。
「なんで?」
この前のほうが今日よりずっと痛かったのに。あの時は謝らなかったではないか。
「・・いや、わかんねえけど」
慎の唇が今指先が触れたばかりの場所から、耳へとゆっくりと伝っていく。労わるような唇の動きとかかる息。くすぐったくて知らず首が縮こまってしまった。
聞こえてくるのは慎の唇と自分の肌とが触れ合う音だけだ。
「沢田は?」
「え?」
慎は首筋に当てていた唇を外すと久美子の顔を再び覗き込んだ。「何?」
「沢田はどんな感じだ?」
「・・・」
久美子の目から見てもそれとわかるほど眼前にあった慎の顔がぱっと挙措を失った。見慣れないその表情に久美子も慌てる。
「え?もしかして沢田も痛いのか?」
「いや、俺は男だから・・・」
「男だから?男だからどうなんだ?」
慎はじっと久美子の瞳を見詰める。久美子も負けじと見詰め返した。
「・・・お前、それ、まじで訊いてんの?」
「うん」
慎ががっくりと頭を垂れた。久美子は胸に慎の重みを、耳の後ろに慎の吐息を感じる。合わさった肌の感触と温もりが心地よくて無意識に腕を背中に回した。
「あー。もう」
「・・・」
「たまんねえよ」
くぐもった声が久美子の耳に響く。
慎はそのままの姿勢で久美子をぎゅうっと抱きしめてきた。
「すっげえ好きだ」
「・・・」
「このまま離れたくねえっ・・」
「・・・」
瞬間言葉を失ってしまった久美子。
 ───え?
少し間を空けて豪快に吹き出してしまった。静かだった部屋に笑い声が響く。
「てめえ。この状況でげらげら笑ってんじゃねえぞ」
「だ、だって、沢田が。沢田が、似合わないこと言うから」
あははは、と声を上げて笑いながら、久美子は自分の全身が胸元からじんわりと暖かな至福に満たされていくのを感じていた。
今迄だって充分幸せだった。
亡くなった両親にも、育ててくれた祖父や大江戸一家の面々にも多分なまでの愛情を注いでもらった。
でも今自分が得ている幸福感はきっと他の誰からも与えてもらうことのできないものだ。慎でなければ駄目なのだ。
コドモのようにただひたすら自分を求めてくる慎が愛しくて仕方が無い。
慎と違う性に生まれてくることができて本当に良かったと思う。
久美子は自分の頬の横で揺れ始めた黒い髪に指を絡ませる。
「あたしも沢田が大好きだよ」
囁くように伝えながら、久美子は溢れてくる幸せをゆっくりと噛みしめた。


 ───ふ。ふふふ。・・・ふふふふふ。
「やだ、山口先生」
「へ?」
「にやにやしちゃって気持ち悪い。何、思い出し笑いなんかしてるんですか?」
「え?あ・・」
山口久美子は両肘で支えていた頬杖を外して膝の上に置くと慌てて口許を引き締めた。「あ、あれ?藤山先生、あたし笑ってました?」
居住まいを正す。職員室で良からぬ思い出に浸るなんて。駄目じゃないか、自分。
「もう、こんな風にだらんだらんにほっぺが緩んでましたよ」
藤山静香は自分の頬を引っ張って見せた。
「だらんだらん・・って」
「っていうか」
「へ?」
「山口先生、なあんか最近綺麗になりましたよね」
じっと顔を覗き込んでくる。
「え?」
「何かいいことでもあったんじゃないですか?」
 ───ぎくり。
「いや、全然、そんなこと。綺麗なのは藤山先生のほうじゃないですか」
「ま、それはそうなんですけどね」
 ───がくっ。
藤山は初めて会った時と変わらず今も美しい。今日は白いタイトなミニスカートに濃いオレンジ色のジャケットを羽織っている。すらりと伸びた脚も健在だ。
藤山はちらりと辺りを窺う仕草を見せた後、久美子の耳許に顔を近づけてきた。
「山口先生」
「はい?」
「忘れてないですよね?今日の合コン」
「え。は、はい」
「例のお店で服、ちゃんと買って来ました?」
「ええ。もちろん」
「今日の合コンの相手はお医者様の卵ですからね。気、抜かないで下さいよ」
「はい」
久美子は愛想笑いを浮かべて頷く。
慎と久美子が付き合ってることを知らない藤山は最近やたらと合コンの話を久美子に持ちかけてくる。
今日の合コンのお相手はK大医学部の学生らしい。おそらくは久美子や藤山よりもずっと年下の男のコばかりの筈だ。話を持ってきたのは藤山の大学時代の友人で某大手商社に勤務するOLだという。久美子と藤山もその商社の社員ということになっているから、教師だなんて口が裂けても言わないで下さいね、と告げられた。教師より商社のOLのほうがずっとウケがいいんだから、と藤山は一寸の躊躇いも無く言い切った。自分の職業に誇りを持っている久美子は何だか腑に落ちない。
「藤山先生、そんな嘘吐いて、ほんとにお付き合いすることになったらどうするんですか?」
久美子の質問を、藤山は鼻で笑った。
「やだ、山口先生、そんなの向こうが自分に夢中になった頃に、実は私教師をやってます、なあんて告白したって全然問題ないですよ」
まずは、キッカケが大事なんです、と藤山は言った。
そうなのか?
世の中の恋愛事情とはそういうものなのか。
それにしても藤山がこんなに沢山の合コンに参加しているとはつい最近まで知らなかった。
久美子は藤山の横顔に視線を送る。この美女にコイビトが存在しないとはどういうことだ、と小首を傾げる。
未だに藤山はこの白金学院の生徒や教師達のアイドル的存在だ。
小さな顔にすべすべの白い肌。そこはかとなく漂う色気。長身で細身。何より目を引くスカートから伸びた脚。横から見ても正面から見ても右斜め45度から見てもモデルのように美しい。この美しさが藤山に「向こうが自分に夢中になった頃に」なんていう台詞をさらりと言わせるのかもしれない。
しかし。
この現状は非常にまずいのではないだろうか。
久美子は再び机に肘をつくと頭を抱え込んだ。
自分と慎とのことをいつか藤山に話さなくてはいけないとずっと胸を痛めてはいるのだ。
もうひとりの同僚川嶋菊乃はとっくに知っている。それは川嶋が「沢田とはその後どないなってんねん?」としきりに訊ねてきたから話しやすかっただけのことだ。特に藤山と川嶋を区別しているわけではない。
でももし逆の立場だったら、例えば藤山にカレシがいることを川嶋だけが知っていて自分に知らされていないとしたらやっぱり嫌だろうな、とは思う。
相手が元生徒だからいけないのだ。だから話し難いのだ。
一度このことを慎に相談したら
「俺とのことを話すのがそんなに嫌なわけ?」
とむっとされ、本筋から大きく逸れたばかりか、喧嘩にまで発展してしまった。
そんなことがあったというのに、未だに慎とのことを藤山に話していない上、合コンにまで参加しているなんて。万一慎に知れたりしたら目も当てられない、と思う。
他にちゃんと好きなひとがいるのに合コンに参加したって実のところちっとも面白くなんかないのだ。しかも藤山と慎に対する後ろめたさまで必要の無い付録みたいにくっついてくる。
胃が痛い。
自分が胃を痛めるなんてかつて無いことだ。
久美子は藤山に気付かれないように腹部を摩ると、机に立てた本の陰でそっと溜息を落とした。


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