GOKUSEN
彼女の恋愛 3.
黒い壁に暖色のあかりがうっすら灯る、入り口に近い通路で久美子と慎は見詰め合っていた。
睨み合っているのではない。
見詰め合っているのだ。
慎は今日も黒い服を身につけていた。今凭れかかっている壁面と同じ色。身体にぴたっと張りついたハイネックの長袖のTシャツ。中性的な細い線。暗い照明の下、顔の凹凸に因ってできる影のせいか、憂いを帯びたように見える顔つき。
あれ?こいつってちょっと男前?
険悪な雰囲気の漂う中、久美子は呑気にも頭の隅ではそんなことを考えたりもしていた。
「なんでお前がここにいるんだ?」
むっとしている慎に気圧されないように久美子は強気な姿勢で訊ねる。
慎は顎を突き出して見下ろすような目で久美子を見ていた。こちらもかなり強腰な態度だ。
「俺もむこうでダチと飲んでんの」
「えっ?」
慎が顎で差し示すほうに視線を送ると、大学生と思しき七、八人程度の男女のグループが見て取れた。久美子の座っている位置からはちょう度死角になっている。
久美子は目を丸くする。ずっと同じ店内に居たということか。
───うっわあ・・。
「え?ず、ずっと見てたのか?」
「いや、気付いたのはさっき」
「あ、そうなのか・・」
意味もなくほっとする久美子に慎は目を細める。
「お前は?また合コン?」
「う、うん、まあ」
後ろ暗いところがあるのでついつい屈強な姿勢は崩れ、曖昧な口調になってしまう。「藤山先生に人数合わせに呼ばれたって言うか。えーと、・・・無理矢理?」
「ふうん」
慎は言いながら久美子の全身に視線を這わせた。「無理矢理ねえ・・」
「な、なんだよ」
「その割には気合入った格好してんじゃん」
「う・・」
「顔も赤いし」
「え」
久美子は掌を両頬に当てる。
「飲み過ぎなんじゃねえの?」
「や、これは、今日は酔いのまわりが自棄に早くて」
慎は何を考えているのかわからないいつもの顔つきで久美子の顔を暫くじっと見詰めていたが、やがて俯くと、溜息をひとつ落とした。
「・・別にいいよ」
「え」
突き放すような言い方だった。背中を寄せていた壁から身体を起こしてぷいっと横を向く。
「俺もこんなことで喧嘩なんかしたくねえし」
「・・・」
「好きにすれば?」
慎はそう言うと久美子に背を向け、自分の元居た場所に戻ろうとする。
「え?や、ちょ、ちょっと待てよ、沢田」
久美子は慌てて慎の肘を掴んだ。
「何?」
振り返った慎の瞳には冷たいものばかりかさらに刺々しい色まで含まれている。
───うあっ。怒ってる。怒ってる。沢田が猛烈に怒ってるよお・・。
「な、何で?何で合コンぐらいでそんなに怒るんだよ?お前だって、ほら、あんな可愛いコたちと一緒にお酒飲んでるじゃないか」
「あのさ・・」
慎は呆れ顔で久美子のほうに向き直ると、「俺達のはただの飲み会。合コンとは全然目的が違うだろ。それに・・」
「それに?」
「俺は、ちゃんとカノジョがいるって言ってある」
「・・・」
「お前はまだ藤山に話してないんだろ?俺とのこと」
「それはそうだけど・・」
「・・何で?」
「え」
「何で話さねえの?」
久美子はわざとらしく首を傾げて見せる。
「え、と。いや、何か、その・・恥ずかしいって言うか・・」
「恥ずかしい?」
落ち着いた声は、けれどどこまでも冷ややかだ。
「いや、別にお前の存在が恥ずかしいって言うんじゃなくて。あ、あれだ、その・・」
───・・って、何言ってんだ、あたし。全然言い訳になんかなってないよおお。
どう転んでも余計慎を怒らせてしまうだけだ。
と、突然慎の背後から
「あたしがどうかしましたあ?」
藤山静香の甘ったるい声が響いてきた。
「藤山先生っ」
「藤山・・」
「何、こそこそふたりで話し込んじゃってるんですか?」
藤山は背中に両手を組んで腰をやや屈め気味に、慎と久美子の顔を交互に見ながらふたりの間に割り込んできた。探るような目つきと揶揄するような声色。
「怪しいなあ・・」
「いや、これは・・」
久美子は口の中でもごもごと言う。
「沢田君、久しぶりねえ」
藤山は久美子の言い訳など全く聞いていない様子で慎の正面に立つとその両肩に手を置いた。「うわー、ますますいい男になっちゃってえ」
慎の顔を覗き込む。
その何気ない仕草に久美子の胸がどきりと跳ねる。
───近い。顔が近いですよ、藤山先生っ・・。
「いい男って、やだな、藤山先生ってば。沢田は元生徒なんですから、そういう言い方は・・」
「ねえ、沢田君もあっちで一緒に飲まない?」
「えええ?」
「・・・」
「K大医学部のお坊ちゃん達の自慢話には飽き飽きしちゃってえ。退屈してたとこなのよねえ」
久美子の眼前で藤山の細い腕が慎のそれに絡まる。
「え?あれ?藤山先生?腕、腕。何してるんですか?」
「山口先生はあのお隣の男のコとすごーく気が合ってたみたいで、よかったですねえ?」
「えええ?や、そんな、滅相もない」
顔の前でぶんぶん掌を振る久美子を慎がちらりと見遣る。やはりその目つきはどこまでも冷然としていて久美子は身の縮む思いで口を噤んだ。
が、黙していた時間も僅かで、あまりのふたりの密着ぶりに堪えきれなくなった久美子は藤山と慎の間に無理矢理腕を差し込んで言った。
「藤山先生、駄目ですよ。沢田には連れがいるんです。沢田には沢田のつきあいってものが・・」
「山口先生」
藤山はむっとした表情で久美子を見る。「あたしは沢田君を誘ってるんです。どうして山口先生が口を挟むんですか?元担任だからって余計な口出ししないでもらえます?」
そう言われてしまうと久美子はぐうの音も出ない。
藤山の腕と慎の腕は絡まったままで、引き寄せた慎の肘が藤山の胸に当たっているように見えて、久美子は先程からそれが気になって仕方がない。視線がそこにばかり行ってしまう。
「ね?いいでしょ、沢田君?」
藤山の甘えたような言い方にそれまでひと言も言葉を発しなかった慎が、眉を僅かに上げて軽く頷いた。
「構わねえよ」
「え?うそ?」
「わあ、嬉しいなあ」
藤山は慎の手に自分の指先を絡めると必要以上にその身を寄せた。慎のほうも嫌がる気配を全く見せない。
「さわ・・だ・・?」
「じゃ、山口先生、そういうことで」
藤山は久美子にウインクしながらそう言うとさっさと背中を向けた。
顔を寄せ合って歩くふたりはまるで似合いのコイビトドウシのようだ。
藤山の隣にいる男は本当に自分の知っている沢田慎なのだろうか。
久美子は賑やかなほうへ戻るふたりの絡まった腕と指先を、ただ呆然と、狐につままれたような面持ちで見送っていた。
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