GOKUSEN
雲の切れ間に太陽が見える 6.
久美子は自分の家の縁側で膝を抱えてぼうっとしていた。庭を埋め尽くす緑色の葉が雨に打たれて揺れる様子を、ただじっと見詰めているだけだ。朝からずっとそんな風で祖父の黒田龍一郎は孫娘に声を掛けることさえ憚られた。先週慎の家から帰宅して以降の自分を、祖父が心配していることは久美子にも分かっていた。
「雨が続くと気分が滅入っちゃうね、おじいちゃん」
口を開いたのは久美子の方からだった。「ごめんね、おじいちゃん、ここんとこ元気なくて」
「ま、若いうちはそんなこともあらぁな。元気がねえからって、なにもお前ぇ、おじいちゃんに謝ることなんかねえぞ」
久美子は、そっか、と呟くと庭に視線を向けたまま
「おじいちゃん、あたしさ、好きになっちゃいけない人、好きになっちゃったみたいなんだよね・・」
「・・・」
「びっくりした?」
久美子が笑顔で訊くと、龍一郎は少し驚いたようではあったが、ほうっ、とだけ言って、そして首を少し傾げた。
「・・だけど今のご時世、好きになっちゃいけない人、なんていうのは、そうそういるもんじゃねえと思うな」
「そう・・かな」
「久美子の好きな人ってえのは、女房や子供のある人なのかい?」
「まさか、違うよ」
「だとしたら、おじいちゃんには思い浮かばねえなあ。今の久美子が好きになっちゃいけない相手・・なんてえのはよ」
龍一郎にそう言われると、そうなのかも、と思えてくる。
龍一郎はキセルを手で弄びながら、
「例え久美子の相手が警察官だ、って聞いたっておじいちゃんは驚かねえよ」
「え」
久美子は一瞬怯む。
───お、おじいちゃん・・。あたしが篠原さんとデートしたこと知ってるのか?内緒にしてたのに、何でっ?何でだっ?
どこでばれたんだろうと思い巡らす。
「久美子の気持ちが一番大ぇ事だ、な」
「そ、そうだね、おじいちゃん」
久美子は曖昧に頷いた。
雨音だけが二人の間に響く。
「それで、その恋心を、当の本人には打ち明けたのかい?」
久美子は首を横に振った。
「なんだか色々考えてたら分かんなくなっちゃって、相手の人にも嫌われちゃったみたいだし、思いを打ち明けるとかそういう段階じゃない、かな」
久美子の話に龍一郎は笑った。
「まあ、そんな風に頭で考えてるうちは本物の恋たぁ言えねえなあ」
「おじいちゃん・・」
「本当に人を好きになったら、ここが勝手に動くんだよ」
龍一郎は自分の心臓の辺りを人差し指でとんとん、と叩いた。「そういうもんだ」
久美子の胸に川嶋の言葉が甦る。
───下らんことにこだわってたら、本当に大切なもの見失うで───
久美子は膝に顎を乗せると溜息を吐いた。
「大切なもの・・失くしちゃったかなあ・・」
久美子の弱い呟きに龍一郎は言葉を失う。
そして春先頃からぱたりとこの大江戸一家に現れなくなった、ひとりの青年の顔を思い出していた。
慎の部屋に長野と彼の両親がやって来たのは梅雨明け間近の頃だった。もう九州は梅雨が明けたのだと、彼の母親が九州弁で教えてくれた。彼の両親は何度も頭を下げて我が子の不祥事を詫びた。
長野は慎の予想を裏切って、東京に残ると言う。
「人間って結構強いね」
そう言って笑った顔をこれまでになく晴れやかだ、と慎は思った。
久美子に最後に投げつけた言葉を慎は少しだけ後悔していた。
教え子をあれほど大切にしている久美子のことだ。どれほど傷付いたことか。
ぼんやりそんなことを考えていると、部屋のドアを叩く音がした。
「慎?俺。開けていい?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは高校時代の友人の声だった。
「ああ」
内山春彦は、鍵の掛かってないドアを無用心だと非難しながら開けた。
「よっ。久しぶり」
慎も笑顔で返す。
「早ええな。もう仕事終わったのか?」
慎の言葉に内山は、雨続きでこのところ殆ど仕事にならないのだと話してくれた。
「だけどさっき雨止んだからさ、明日から滅茶苦茶忙しくなるんだぜ。いやだあ」
と言って大袈裟に畳の上に泣き崩れるようにしたかと思うと
「あっ、『博多ぶらぶら』じゃん」
テーブルの上に置かれた風変わりな神輿の絵に包まれた箱に手を伸ばす。「おいしいんだぜ。これ。食おうよ。俺お茶煎れてやる」
そう言って台所に立った。
「誰かの土産?」
「うん、まあ」
慎はそれだけしか答えない。言葉数が少ないのはいつものことなので内山は深く訊ねなかった。
それは九州の銘菓で、長野の両親はその和菓子と一緒にお金も持参していた。慎は治療に掛かった分だけその中から受け取った。
内山は慣れた調子でお茶を煎れ、和菓子を小皿に取り分けて小さなテーブルの上に載せた。
慎はその姿に苦笑する。
「うっちー、いい奥さんになれそうだな」
「あらそうかしら?沢田君、お嫁にもらってくれる?」
裏声で言う。
「あほか」
慎は笑いながらお茶に口をつけた。
内山は和菓子をフォークで突付きつつ、ちらっちらっと慎の顔色を窺う仕草を見せる。
「なんだよ・・」
「いや、あのさ」
言いにくそうに口を開いた。「クマの店に昨日行ったらやんくみがいてさ。慎の怪我の様子、みて来てくれないかって言うんだよ。・・慎、怪我してんの?」
「・・・」
途端に仏頂面になった慎に内山は気後れする。
「いや、言いたくなかったら別にいいんだけどさ。やんくみ、なんで直接行かねえのって訊いたら、もうあいつとは会えないから・・って。俺、全然意味わかんねえんだけど、やんくみと喧嘩でもした?」
「・・・」
「つうか、ふたり、付き合ってんの?」
「まさか」
「なんで?慎、やんくみにまだ、好き、とか言ってねえの?」
矢継ぎ早な質問に慎のポーカーフェイスが崩れそうになる。
「・・なんだよ、それ」
「あれ?慎、気付いてないとでも思ってた?まるわかりよ」
慎は居心地の悪そうな顔で
「言おうとしたんだけど・・。その前にあいつが、例え卒業したって生徒とは恋愛しないとか言うからさ・・」
「言ってねえの?」
慎は仕方なしという風に頷いた。
内山は少し考えてから、
「だけど、あれだね。慎も結構気にしてんだ」
「は?」
「自分がやんくみの元生徒だってこと。じゃなかったらもっと、押せ押せ、なんじゃねえの?いや、慎が他に恋愛してるとこ見たことないから分かんないけどさ」
慎の思考が一瞬停止する。
内山は僅かに動揺を見せる慎には気付かず、いや、この餅と漉し餡の柔らかさが何とも、などと、独りで和菓子を絶品している。そうかと思うと、思い出したように話の続きをする。
「もうそういうこと全部忘れてさ、玉砕してもいいから、行動してみたら?」
「うっちー・・」
内山は残りの和菓子を口に放る。内山が昨日クマの店で見た元担任の表情は、教え子を心配している顔ではなかった。
「じゃ、俺、そろそろ帰るけど、やんくみにどう報告すればいい?怪我のこと」
慎はふんっ、と鼻で笑った。
「傷口からバイ菌が入って化膿して熱出して寝てる、とでも言っとけ」
内山の顔色が変わる。
「えっ?そんなに悪いのか?ど、どこ怪我してんだよ、見せろよ、慎」
驚いて慎のTシャツを捲ろうとする内山を慎は慌てて止める。
「ばっか、冗談だよ」
「・・・」
「もう抜糸も済んだし、通院も終わったから、心配いらねえって言っといて」
「・・・なんだ。冗談か」
「なんだって、なんだよ」
内山は何でもねえよ、と笑うと、ドアを開けた。
「うっわー、滅茶苦茶蒸し暑ーい」
アスファルトに落ちていた雨が太陽の光に照らされて蒸発しているのか、外はサウナ風呂のように蒸していた。家の中のほうが余程涼しかった。
ドアの外まで見送った慎も久しぶりの眩さに眼を細めて空を見上げる。雲の切れ間に白く光る太陽が見えていた。
内山春彦は畳の上に寝転がって、窓の外が暗く翳っていく様子をぼうっと見ていた。
結婚相談所で働いている母親の仕事は夕方からが忙しくまだ帰って来てはいない。部屋の中に長方形に模られていた橙色の光が段々小さくなって部屋の隅に流れて行きやがて姿を消した頃、内山は身体を起こすと携帯電話を手にした。まだ彼女は学校だろうか?
「あ、やんくみ。俺、内山だけど。今、慎のとこに行って来たんだけどさ・・・」
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