GOKUSEN
歌うように 1.
真冬だと言うのに柔らかな日差しに包まれてぽかぽかと暖かい土曜日の午後。
任侠集団大江戸一家に何やら甘ったるい匂いが立ち込めていた。その建物の風情にふさわしいとは言い難い香ばしいバターと砂糖の香りだ。
「へへへっ。沢田の奴びっくりするぞ」
久美子はオーブンから取り出した天板の上に並ぶクッキーを見栄えの良いものとそうでないものと、ふたつの皿に取り分ける。そうでないものはテツとミノル行きだ。
昨日川嶋菊乃からレシピを受け取った時、散々言われた。
「いい?この紙に書いてある通りに作るんやで。分量を1gでも増やしたら駄目やし、焼き上げる時間は絶対に適当にしたらあかんよ。書いてある通りに作ったら、絶対失敗しいひんのやから。わかった?」
絶対、絶対、と何度も念押しされ「沢田もかわいそうやなあ」
と、ひと言つけ加えることも忘れていなかった。
「なんだ、意外と簡単じゃないか。あたしって、結構、料理の才能あるかもな」
久美子は腕組みすると綺麗に焼き上げられたほうのクッキーを満足そうに眺めた。
「アニキ、お嬢がク、ク、クッキーなんか焼いてますぜ」
テツとミノルはふたつ離れた部屋から台所の久美子の様子を好奇心半分、恐怖心半分でじっと見ていた。「誰かに上げるんスかね?」
「・・・」
「アニキ?」
ぱしっといういい音でミノルの頭がはたかれる。「す、すいやせん」
「お?」
今の音でふたりの存在に気が付いた久美子は「ちょうどよかった。テツ、ミノル。これちょっと味見してくれよ」
「へいっ」
恐怖心を多分に膨らませながらふたりは台所に行くと、久美子の差し出したやや褐色がかったクッキーばかりが盛られた皿に手を伸ばす。
「どうだ?うまいか?」
ふたりは顔を見合わせた。
「へいっ。うまいっス」
本当においしかった。
「そうかあ。うまいかあ」
久美子の顔が嬉しそうにほころぶ。
ミノルはもうひとつの皿に視線を送ると
「お嬢。あちらのほうは誰かにプレゼントですか?」
無遠慮に訊いてまたテツにぱしっ、と頭をはたかれる。「すいやせんっ」
「あ、あ、あれは、その・・、ゆ、裕太だ。このクッキーの作り方川嶋先生に教わったからな、その礼に今から持って行って来る」
へへへ、と嘘っぽい笑いを浮かべると、久美子は用意してあった赤い地に可愛らしい雪だるまの絵が散らばった紙袋にクッキーを1枚ずつ入れていく。
楽しそうにその作業をこなしていく久美子の頬は上気して艶やかだ。
そんな久美子を複雑な思いで見詰めながら、テツは無意識に何枚ものクッキーを口に運んでいた。
───アニキィ・・。食いすぎっスよう。俺の分があああ・・。
ミノルもまた複雑な気持ちだった。
「あれ?」
久美子は部屋を間違えたのかと思った。
慎の部屋をノックすると
「はあい」
返ってきたのは女の声だった。
───え?ええ?なんで?ここって、沢田の部屋だよな。
久美子はきょろきょろと辺りを見回す。
───201号室。沢田。・・間違いないよな。
扉が開くと出てきたのは慎と同じ年頃の女の子だった。目の周りの白っぽいパールの化粧がすぐ目についた。
「あの・・」
久美子が戸惑っていると、その女の子の後ろから
「誰?」
同じような化粧をした女の子とずんぐりと太った眼鏡の男が顔を覗かせる。
「あ、沢田君のお姉さん?」
「え」
久美子が返答に窮していると、さらに後ろから
「山口久美子さんでしょう?」
と、別の男の声がした。「僕たち、沢田君と同じ学校のものなんですけど。今日、急に沢田君のとこで鍋でもやろうって話になって、今沢田君買い出しに行ってるんです」
背の高い、整った顔立ちの青年が説明してくれた。慎とはタイプが違うが、かなり男前だ、と久美子は思った。どことなく篠原智也と似ていた。青年は他の3人を奥に行くよう手で追い払うと
「沢田君から、時々話は聞いてます」
にっこりと笑った。「沢田君のカノジョってどんな人って訊いても、変な女だとしかおしえてくれないから色々想像してたんですけど、なんだ綺麗な人じゃないですか。沢田君照れてたんですかね」
「いやっ、綺麗なんてそんな・・」
「沢田君、すぐ戻ってくると思いますけど、どうします?中で待ってます?」
久美子は青年の背後から飛んでくる不躾な視線が気になって落ち着かない。
「いえ、下で待ってます。お邪魔しました」
常にないしおらしさでぺこり、と頭を下げると部屋を後にした。慣れた筈の慎の部屋が自分の知らない異空間のように感じられ、なんだか場違いな場所に飛び込んだ気がした。
扉が閉まる前に
「え?今の沢田君のカノジョなの?なんかめちゃくちゃ年上じゃない?」
「どうしよ。真奈美、ショック受けちゃうよ・・」
と言う女の子ふたりの会話が耳に入ってきたが、久美子は構わず階段を降りた。
久美子は道路に出て待っていた。
車の通りの少ない静かな住宅街で、家々の塀からは椿や梅の木々が顔を覗かせていた。久美子はそれをぼんやりと見詰めながら、このまま慎に会わずに帰ろうかな、と考える。
人付き合いが得意とは言えない慎にあんな風に訪ねてくる友人が出来たことは久美子にも喜ばしいことに思えた。
───あいつも随分人間が柔らかくなってきたもんなあ・・。
そして、なんだか慎が大切に築き上げてきた新しい友人関係を、自分の存在が台無しにしたような気分になってきたのだ。青年の後ろにいた3人の視線を思い出す。
───明らかにヒイてたよなあ、あの目は。めちゃくちゃ年上とか言われちゃったしなあ。
もし、先程の4人が現役で今の大学に合格していたとしたら久美子より8歳下ということになる。
久美子は重い溜息を落とした。
───やっぱ、帰ろうかな。
顔を上げた視界に黒いダウンジャケットに身を包んだ慎の姿が映った。
───あ。
慎はひとりではなかった。慎の身長とそう変わらない背の高い女の子と一緒に歩いていた。
ふたりは買い物袋を両手に提げ、和やかに会話を交わしているように見えた。慎の口元が笑っているのを見た時、久美子の胸がきりり、と痛んだ。慎が自分以外の女の子と笑顔で話しているところなど、初めて見た気がした。
久美子は何故だか慎が自分に気付く前にそこを去りたい衝動に駆られたが、そうする前に慎と目が合ってしまった。
慎は久美子を認めると、からかうように唇の片側だけ上げて笑う。
「よう」
「・・・」
───何だよ、その笑い方は。その子に対する態度とえれえ違いじゃねえか。
慎は一緒にいた女の子に
「俺、こいつとちょっと話してから戻るから、先に行ってて」
そう言った。女の子はちらっと久美子を見て
「うん。わかった。野菜持って行っとくね。切っておいたほうがいいでしょ・・」
慎の提げた葱や白菜の透けて見える白いレジ袋に手を伸ばす。か細い可愛らしい声だ、と久美子は思った。
「あ、いい。これ重いし、すぐ戻るから」
女の子は少し考えてから
「うん。じゃ・・」
久美子に頭を下げるとアパートのほうへ去って行った。久美子と同じくらいの長さの髪を茶色く染め毛先のほうにだけパーマをかけていた。白いタートルのセーターにジーンズ、その上に白いハーフコートを羽織っているだけだったが、すらりとした長身にその出立ちはかっこよく映えていた。先程アパートで会ったふたりと違って薄化粧の涼しげな顔立ちの娘だった。
「なに?ここへは二度と来ねえんじゃなかったの?」
揶揄するように言う慎をじろり、と睨みつけると
「・・なんだよ。ひとがせっかく仲直りしようと思って来たのに。そんな言い方するなよ」
「ふうん。仲直りねえ」
「・・・」
「実は俺も今日あたり連絡しようと思ってたんだけど、急に予定はいってさ。アパートであいつらに会った?」
「うん。鍋やるんだろ?」
「悪いな」
「いや、いいよ。友達との付き合いも大事だもんな」
「明日来いよ。昼前には起きてると思うから」
「うん・・」
久美子は頷くと慎のアパートのほうを見た。「さっきの娘、可愛いな」
「大木のこと?そう?」
「なんか遠くから見たときフツーの恋人同士に見えた」
「フツーじゃない恋人同士、ってどんなんだよ」
慎は久美子の顔を覗き込むと「ふうん。・・もしかして妬いてんの?」
また茶化すように訊いた。
「いや、て言うかさ、本当はああいう子がお前の隣にはいるべきなんだろうな、って思ったんだ」
「なんだよ、いるべき、って」
慎はむっとした顔で久美子の額を人差し指でちょん、と突いた。「ふざけんな」
「うん。ごめん。ちょっと思っただけだよ」
───真奈美、ショック受けちゃうよ───
久美子は少し躊躇いがちに訊いた。「・・なあ」
「ん?」
「あの人、”真奈美”さん?」
「え?下の名前なんか知らねえよ。あ、でも、他の連中がそう呼んでたかも。なんで?」
「いや、なんでもない。帰る。お前も早く戻れよ」
「ああ。じゃ」
慎の後ろ姿を見送りながら、結局クッキーは渡せなかったな、と思った。
「ま、いっか。あいつあんまり甘いもん好きじゃないし。」
でも、せっかく作ったのだから誰かに食べてもらいたいな、と思う。
「裕太にでも食べてもらうかなあ・・」
久美子は独り呟きながら、鞄から携帯電話を取り出した。鞄の中からはクッキーの甘い香りが漂ってきて、その匂いは久美子の心を少しだけ切なくさせた。
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