GOKUSEN



歌うように 2.


翌日も晴天の暖かい日だった。
久美子は辛子色のダッフルコートを左腕に掛けると
「行ってきます」
家の者に聞こえるように言って門をくぐる。
腕時計を見ると10時だった。まだ慎は寝てるかもしれないな、と久美子は思った。もし寝ていたら以前もらってまだ一度も使用したことのない合鍵を使って中に入ってみようと決めていた。
 ───たまにはこう、恋人らしいことするのもいいよな。
頬が緩む。昨日は少しだけ気持ちが沈んだが、一晩経てばそんな思いは消えていた。昨日あれから川嶋菊乃と裕太と過ごしたせいもあったが、もともと立ち直りの早い性質なのだ。
久美子は青く澄んだ空を見上げながら上機嫌で慎のアパートに向かった。


ノックをしたが返事はなかった。やはりまだ寝ているのだろうか?
久美子が手にしていた鍵を鍵穴に差し込もううとした時、扉が開いた。
顔を出したのは昨日会った、大木真奈美だった。昨日と同じ白いセーターにジーンズという姿だった。
 ───え?
久美子も驚いたが、相手も相当だったようで、ドアが開いた時には見せていた笑顔が忽ち崩れて泣きそうな顔になる。
「あの・・」
久美子は喉に何か詰まったようで言葉が上手く出て来ない。心臓の音が相手に聞こえるのではないかというくらい大きく打っていた。
その時アパートの階段を上がる足音がした。慎だった。
「あ・・」
慎は久美子を見ると、少しだけ驚いた風に片方の眉を上げた。
大木真奈美は顔を歪め、鞄とコートを手にすると
「ごめんなさいっ」
ふたりの間を抜け、階段を降りて行った。
真奈美の後ろ姿を見送っていた慎は、慌てた素振りも見せず部屋に入ろうとする。手にはコンビニの袋を提げていた。
「入んねえの?」
「・・あの娘、泊まったのか?」
自分の声のか細さに久美子は驚く。喉に何か塊を押し込まれたように息が苦しい。足元が揺らいでいるようで、身体が真っ直ぐ立っていることのほうが不思議だった。
慎はそれには答えず部屋に入るとガラステーブルの上に鍵とコンビニの袋を放るとそこに腰を降ろした。
久美子はずかずかと部屋に入り慎の前に立った。
「泊まったのかって訊いてんだよっ」
「・・泊まったよ」
慎には悪びれた様子は全くなかった。久美子の顔を、それがなに?とでも問いた気に見上げる。
「泊まったよ、ってお前・・」
「何考えてんのかしんねえけどさ、何もしてねえし」
「・・・」
「大木が酔って寝ちゃったから泊めただけ。俺は仕様がねえから、クマんちに泊めてもらった。それだけだよ」
「クマんちに?」
「そ。それで今帰ってきた」
「・・・」
慎はコンビニの袋から缶コーヒーを取り出して、久美子に
「飲む?」
と訊いた。袋には缶コーヒーがもう1本とサンドイッチとおにぎりが見えた。
彼女のために買ってきたのだと思った。彼女のことを考えながら。
「いらない」
久美子は棘を含んだ声で答えると、気持ちを落ち着けようと窓際に行って外を眺めた。が、全く外の景色は目に入らない。
慎が自分に嘘をつくとは思えない。今慎が言ったことは真実だと思えた。
けれど胸が苦しくて苦しくて仕方がないのだ。久美子は両腕を抱え込んだ。
こんな昂ぶった締めつけられるような感情は初めてだった。
先程から口には出せないようなことばかりが気になる。綺麗に片付けられた台所は誰によってそうされたのか、とか、彼女はこの部屋のどこで寝たのだろうか、とか。下らないことだと分かっていても、慎のベッドに視線を送ることさえ腹立たしかった。こんな醜い感情が自分の中にあるとは驚きだった。
それに彼女はここを出る時泣いていた。その意味が慎に分からないはずがない。
確かめたかったが、自分の口から彼女のことを話題にするのは、彼女に対してひどく不遜な態度をとっているような気がして憚られた。
慎は、と見るとコーヒーを飲みながら雑誌に目を落としている。冷静さを全く失っていない。
 ───憎ったらしいやつだなあ。
ぶん殴ってやりたい。
久美子は慎の背後に回ると、殴る代わりにその背中に抱きついてやった。首筋から腕を絡めて髪の毛に顔を埋める。
「・・なんだよ」
「ごめん」
出てきた言葉に自分でもはっとする。「沢田のこと疑った」
「あの状況じゃ、仕様がないんじゃねえの?」
どこまでも落ち着いた態度にこの男は本当に自分を好きなんだろうか、という疑問がわいてくる。自分はこんなに不安で仕方がないのに。
「好きって言え」
「は?」
「あたしのこと、好きって言え」
「・・言わねえよ」
「なんでだよ?」
「なんかさっきの今じゃ嘘っぽいだろ。それに、お前だって言わねえじゃん」
「・・・」
顔を埋めた髪の毛からは慎の匂いがして先程までのもやもやとした気持ちが少しだけ落ち着いてきた。その香りが愛しくて久美子は腕にさらに力を込めてぎゅっと抱きついた。
「・・重いよ。離れろよ」
「やだ」
「押し倒すぞ」
「いいよ」
「・・・」
「沢田にならいいよ」
慎が身体をかたくして息を呑むのが分かった。「でも今日は駄目。今日は絶対いやだ」
まだ大木真奈美の残存していった空気がそこかしこに浮遊しているような気がした。
「なんだよ、今日は、って」
慎は自分の身体に絡まった腕を解くと久美子に向き合った。「何が不安なのかしんねえけど話した以上のことは何もねえよ。色々勘繰るのはやめろ」
「・・・」
「そんな顔するな」
慎は再び背を向けると「お前のことだけでいっぱいいっぱいで他の女の入る余地なんかねえよ。そんなこと、口に出さなくったってわかんだろ」
やけくそ気味に一気に言う。
久美子は一瞬呆気に取られ、すぐにへへへ、と笑った。
「さわだあ」
ばしっと慎の背中を叩く。
「いってええっ」
「だから、そういうことは目ぇ見て言えってば」
「もう二度と言わねえよ」
慎はぼそりと呟いた。「自分でもどうかしてると思うよ、ほんっと」


next