GOKUSEN



歌うように 3.


慎はキャンパス内の総合図書館でレポート用の本をいくつか選びながら、昨日のことを考えていた。
結局あれから久美子はすぐに帰ってしまった。慎も寝不足だったし前日の酒も少し残って身体が怠かったので無理に引き止めることはしなかった。久美子は慎の言葉を一応信じてはいるようだったが、不自然な空元気で不安を隠そうとしているようにも見えた。
 ───参るよなあ・・。
久美子の前では冷静に見せていたが、内心焦りがなかったわけではない。
酔っ払って好き放題に挑発してくる真奈美とふたりきりにされた時、慎も酔っていたし、全く心が動かなかったわけでもないのだ。それでもなんとか思い留まったのは、やはり慎の中の山口久美子の存在だった。久美子の顔を思い出したとき、このまま流されてもいいかな、という場当たり的な考えはすうっと消えていった。久美子の真摯な瞳や自分に向かってくる真っ直ぐな気持ちを裏切ることはできない、と思った。こんなことで失いたくない、とも。
君は酔っているからもう寝なさい、とか何とか言って逃げるようにして部屋を後にすると、携帯でクマに電話して危険な女が部屋にいて戻れないから泊めてくれと頼み込んだ。クマは快く承諾してくれたが頼んだ理由については
「なんで慎ばっかいい思いしてんだよ」
と不満だったようだ。
 ───いや、いい思いしてたらここには来てねえよ。
慎は心の中で愚痴る。
翌朝、もう真奈美が部屋にはいないことを祈りつつアパートに戻ったのだった。


それにしても。
土曜日の出来事には作為的な匂いを感じる。
そう思っていると、あの日慎の部屋で飲み会を開こう、と言い出した本人、久村紀之が図書館に入ってきた。
久村紀之とは慎が白金学院に転校する前の中央学園高校で数ヶ月間だけクラスメイトだった。
久村は高校卒業後別の大学に入学したが一年で退学し、この大学を受験し直すという変わった経歴の持ち主だ。しかし彼に言わせると慎のほうが変人らしい。
「早稲田と慶応蹴ってアフリカに井戸掘りに行くかね。フツー」
と呆れられてしまった。
内山春彦と同じくらいの長身でどこにいても目立つ甘いマスクを今は怒ってるんだか笑ってるんだかはっきりしない表情をさせて慎に近付いてきた。
「沢田。お前はほんっとひどい男だよな」
慎の隣の椅子を乱暴に引くと久村は腰を降ろして睨みつけてくる。「真奈美ちゃん泣いてたぞ」
久村の睨んだ目とは裏腹の緩みかけた口元を見たとき、ああ、やっぱり自分はこいつらの仕掛けた罠にもう少しでハマるところだったんだなと悟った。
「据え膳食うくらいどうってことないだろ?みんなやってることじゃないか。何かっこつけてんだよ」
悪い奴じゃないんだけどこういう感覚には着いていけない、と慎は思う。
「もうあんなことするんじゃねえよ。みえみえなんだよ」
「あ、バレてた?なんだよ。いつ気が付いたんだよ」
「お前らが4人揃って大木を置いたまま帰るって言い出したときだよ」
「・・・」
久村は少し考えてから、「言っとくけど、彼女は今回の計画知らなかったんだぜ。真奈美ちゃんの気持ちに気付いた俺たちが勝手にしたことなんだ。まさか、あんなに酔っちゃうとも思わなかったんだけどさ」
「お前さ」
慎はこちらに背を向けて座っている男が眉間に皺を寄せて振り返ったのに気が付いて、少し声のトーンを落とした。「俺にあいつがいること知っててよくあんな真似ができるよな。あの日会ったんだろ?もし俺たちの間に何かあったらどうすんだよ。お前には罪悪感とかそういうのはねえのかよ?」
「・・ああ、山口久美子さんね」
久村は頷くと「罪悪感ねえ。まあ、あんな綺麗なカノジョがいたんじゃ、浮気心は起きないよな」
「・・は?綺麗?誰が?」
訝しげに訊く慎に久村のほうも怪訝な顔つきになる。
「お前のカノジョだよ。あんなに化粧っ気ないのに綺麗に見える女なんてそうはいないだろ」
「・・・」
そういえばあの日久美子は眼鏡を掛けていなかったし、おさげでもなかったな、と思い返す。それでも慎の中でなんとなく久美子と綺麗という単語は繋がらない。そぐわない気がするのだ。
「お前、自分のカノジョ綺麗って思ったことないの?」
「ない。つーか、そんな風に見たことねえよ」
「へえ。顔じゃなくて心に惚れたってか?6歳も年上の女を?・・・お前のそういうところすごいムカつく」
久村の顔は先程と同じように口元だけ緩んでいたが、笑っていない目が喧嘩を売っているようにも見えた。再び前に座っている男が振り返って
「静かにしろよ」
とうるさそうに言った。ふたりが言い争っているように感じたのか周りにいた人間もこちらを見ている。
相手をしてられないとばかりに帰り支度を始める慎に、久村は構わず続ける。
「だけどあんな綺麗な顔してねえ・・。そうは見えないよなあ」
久村は慎の肩に手を置くと顔を近づけて言った。

───暴力教師───

「だろ?」
慎は立ち上がると久村を見下ろした。椅子が派手な音を立てて揺れる。
久村の顔には笑みが浮かんでいた。嘲るように笑って慎を見上げている。
悪意だ。
今の言葉には確然たる悪意が込められている、と慎は思った。それは久美子に向けられたものではなく自分に対して放たれたものだ。
それでも。久美子のことを何も知らない人間に侮辱されて黙ってはいられなかった。
「何が言いたいんだよ」
「女に不自由しないくせに、よく極道の女となんか付き合えるよな。しかも元担任だろ?そういうところがムカつくって言ってるんだよ」
「お前には関係ねえだろ。ほっとけよ」
「何?あれがよくって別れられないわけ?やくざな女だもんな。すごいんだろ?」
慎は久村の胸倉を掴んだ。久村の腰掛けていた椅子が弾かれるように床に叩きつけられ激しい音が響く。
「あいつのこと何にも知らねえくせに適当なこと言ってんじゃねえよっ」
図書館は水を打ったように静かになり、先刻からうるさそうにこちらを見ていた男もただただ驚いた顔をしている。
「何でも手に入るくせになあ、ちっとも欲しがってないお前見てると腹が立って仕方ないんだよっ」
久村は慎の手を振り払った。「かっこつけてんじゃねえよ」
転がった椅子を乱暴に蹴るとさっと踵を返した。
慎は呆然とその後ろ姿を見送っていたが暫くして自分の右手が震えているのに気が付いて左手でその手首を掴んだ。黒い墨を塗りたくられたように気持ちが明かりを失っていた。
いつから彼はあんな心を隠し持っていたのか。
慎の何が彼にあそこまで言わせたのか。
久美子が愚弄されてしまったのは自分の所為だ、と思った。久美子はあんな言われ方をされるような女ではない。
慎は椅子を戻しながら図書館中の視線が自分に集中していることに初めて気がついた。
 ───じろじろ見てんじゃねえよ。
冷めた目線だけで一蹴する。
慎は大学に入って初めて久村に話しかけられた日のことを思い出していた。その時慎は、すぐには彼が誰なのか分からなかった。久村自身が背格好も面立ちも変わっていたし、あの高校にいた頃の記憶は慎のなかではすでに曖昧なものになっていたからだ。そういうところが「ムカつく」のだろうか。
そういえば慎が高校卒業後1年間ボランティアみたいなことをしていたと話した時も「かっこつけすぎだ」と今と同じような台詞を皮肉っぽく言っていた。
それでも高校生の頃は荒れていた時期もあるし自分のしたいように勝手に生きて来たという自覚のある慎は、おそらく自分のことを言われただけならここまで平常心を失ったりはしなかった筈だ。
久美子があんな風に言われるのだけは我慢できなかった。久美子は他人に批判されるような生き方はしていない。
慎は久村の言葉がひどくショックだった。ふたりのことを何も知らない人間には結局自分たちはそんな風にしか映っていないのかと思うとたまらなかった。
外に出ると、昨日までとは打って変わって風が冷たく、空もどんよりと曇っていた。
「雪が降るかもね」
慎を追い越していったカップルの会話が耳に入る。ふたりは寒さに肩を竦めて身を寄せ合っていた。
 ───雪、か。あいつが喜びそうだな。
慎は灰色がかった雲に一面覆われた空を見上げ、いつだったか少しだけ舞い降りる雪を見て子供のように喜んだ久美子の顔を思い出していた。胸の奥に遣り切れない思いがじわじわと広がって、なんだか泣きたいような気持ちになってきた。


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