GOKUSEN
歌うように 6.
翌日慎はメールの着信音で目を覚ました。伸びた前髪をかき上げ緩慢な動作で携帯電話を開く。
野田猛からだった。
『今日2時半にクマの店に集合!』という題の後に『慎♪色々事情聴取するからね〜』そんな意味ありげな内容の文が打ってあった。
───なんだよ、事情聴取って。
起き抜けのぼうっとした頭で思い巡らすが見当もつかない。
行くよ、とだけ打って返信した。
そのままベッドに上半身だけ起こして携帯電話を手に暫くぼんやりしていたが、思い切って布団から抜け出すと温風ヒーターのスイッチを入れ、台所に行ってお湯を沸かし始めた。
そして再び携帯電話に手を伸ばす。
───なんで電話して来ねえんだよ・・。
ゆうべは、気が付くと久美子からの電話を待っている自分がいてうんざりした。
確かに慎のほうから連絡するからと言ってあの夜別れたが、昨日あんな状況に遭遇して何の音沙汰もない久美子に慎は少しだけ不安を感じた。
コーヒーの粉末を容れたフィルターに沸騰したばかりのお湯を注ぐ。部屋中にコーヒーの香りが立ち込めた。
それにしても先程の野田のメールが気になる。
もしかして久美子とのことがバレたのだろうか。それならそれで構わない。たとえ他人が自分たちのことをどう噂しようと、もう気にしない。慎は淹れたばかりのコーヒーを口に運びながらそう思った。
熊井ラーメンと書かれた赤い暖簾は店内に取り込まれ、準備中の札が入り口に掛けられてあった。
引戸を開けると、カウンターの前に南と野田が腰掛け、中にいるクマと楽しそうに話をしていた。
「よっ」
内山は来ていないのかと思ったが、店の一番奥のテーブルの隅にいた。タオルを頭に巻き作業服姿で片肘突いて座っていた。何だか不貞腐れたような顔をしている。
「よっ、慎」
「慎ちゃーん。待ってました」
寄ってきた南と野田に顎で内山のほうを指す。
「あ、あいつ?さっきからああなんだよ」
南は慎の肩に手を置き顔を近づけると「あいつさ、慎に気があるんじゃねえの?」
「は?」
「しーん。クマから聞いたぞ」
野田がニヤニヤ笑いながら肘で突付く。
慎は店の真ん中あたりのテーブルの前に腰を降ろした。
「クマ。この時間って昼寝するって言ってただろ?いいのかよ」
「いいのいいの。今日は特別」
上機嫌で言うと「なんか食う?」
「いや、いいよ」
「じゃ、そっから飲み物勝手に出して飲んでくれよ。あ、コップはそこね」
「クマ、いいからさ」
野田がクマの言葉を遮ると、慎に「しーんちゃん。カノジョできたんだって?」
と嬉しそうに訊いた。
「・・・」
「しかもめちゃプリティーだっていうじゃねえか」
その南の言葉に慎の眉間に皺が寄る。
「何の話だよ?」
「昨日、ここで会ってたんだって?」
「隠すなよお。慎」
慎はクマの顔に視線を送った。まあるい顔に満面の笑みを浮かべて頷くクマにがっくりと項垂れる。そして、ああ、それで内山があんな顔をしていたのかと納得がいった。
「クマ。あれはカノジョじゃねえよ」
慎の言葉に沈黙が流れる。慎を見る4人の身体が一瞬固まった。
「え?」
「待ち合わせなんかしてねえって言っただろ?おんなじ大学のコだよ。ただの知り合い」
「えええええっ」
「なんだよお、それ」
「ばかっ。クマの早とちりっっ」
野田と南に責められクマは恐縮しつつも反撃する。
「だけどさ、慎。あのコ絶対慎に気があるって。なんかこう、うっとりと慎を見てたっつーかさ・・・」
「なんだよ。そんなのよくあることじゃん。慎モテるんだから」
「相変わらず女泣かせてんのねえ、慎ちゃん」
「・・・泣かせてねえよ」
「でも付き合う気ないんだろ?」
「・・・」
「勿体無いよなあ。可愛いコだったのにさあ」
クマがしみじみと言った。
「いくら可愛くても慎のガッコーのコは、ちょっとな。頭良すぎて話合わなそうじゃん」
野田が苦笑いしながら言う。「あ、この前、他所の美大のコとコンパしたんだけどさ・・・」
そういえば、こいつにも、卒業間近の頃に慎自身にはどうにもならないことで喧嘩を売られたことがあったなと、もう違う話に盛り上がっている野田の相変わらず奇抜な色使いの出で立ちを見ながら慎は思った。
───俺、慎と違って頭悪いもん───
───さすが優等生は違うよな。センセイ思いでさ───
───お前はエリート。俺らは落ちこぼれ───
まあ、あの時は俺も色々抱えてたからつい殴っちまったけど、と慎は苦く思い返していた。
「慎」
内山が隣の椅子に腰掛け小声で話しかけてきた「やんくみとうまくいってる?」
「・・・フツーだよ」
「俺、慎がやんくみと別れて、もう新しいコと付き合ってるのかと思った」
「そんなわけねえだろ」
「だよな。悪ぃ」
内山は左手を顔の前に翳して軽く頭を下げた。
「仕事は?」
「今日は半ドン」
昨日の女は慎のカノジョではないと分かった途端、急にご機嫌になって慎に近寄ってきた内山に南がそっと振り返って疑惑の目を向けたが、すぐに野田とクマの話に巻き込まれる。
「慎モテるからやんくみも色々心配だろうなあ」
内山が手にしたコップをゆらゆらと弄びながら言う。
「どうかな」
───あいつは俺が他の女のコと一緒にいても問い質しもしないし電話もかけてこねえよ。
「慎、モテるかもしんねえけどさ、浮気すんなよな。やんくみには慎しかいねえんだからさ」
その内山の言葉に慎は唇の片側だけ上げて笑う。
「逆だよ。うっちー」
「え」
「俺に、あいつしかいねえの」
慎の言葉に内山は少しの間きょとんとしていたがすぐに
「あ、そ」
ごちそうさまあ、とおどけた声で言って笑った。
店を出て皆と別れると、西の空はもう灰色がかった橙色に染まり始めていた。空気は冷たく、鼻がつん、と苦しくなる。
結局、終始野田と南の恋愛話で終わってしまった。次に会う約束はしていないが、また突然メールが送られて来るんだろうな、と思って自然に笑みが浮かんだ。
黄昏ていく空を見ながら久美子に会いたい、と痛切に思った。
会いたい。会って抱きしめたい。キスしたい。それから・・。
ジーパンの後ろポケットから携帯電話を取り出す。
唐突に掌のそれが機械的なベルの音を鳴らした。慎は軽く驚いて直ぐ様開く。待受け画面に表示された名前を見て自分の目を疑った。
久村からだった。
少し躊躇した後通話ボタンを押した。
「・・・」
『沢田?』
「ああ」
『今日、夜、暇?』
「・・・」
『O女のコと合コンなんだけど、こっちの頭数足りなくてさ。来られない?』
慎は溜息を吐いた。
「俺はお前のその無神経さにムカつくよ」
『なんだよ、お前、この前のことまだ怒ってんの?』
「当たり前だろ」
『悪かったよ。いつも澄ましてるお前見てるとついいじめたくなったんだよ。あんなに怒ると思わなくてさ・・』
「嘘つけ」
───俺の最大の弱点を衝いてきたくせに。
『そんなことよりさ。今日来てくれよ。他に頼めるヤツいなくってさ』
「あいつ誘えば?」
慎はあの夜慎の部屋に久村と一緒に来た眼鏡のずんぐりと太った男の名前を口にした。
『勘弁してくれよ。あんなの連れてったらO女のコに俺の人間性疑われるだろ』
「見栄っ張りな奴だな。どっちにしても俺はもう合コンには行かねえよ。誘うな」
『・・・。カノジョに気ぃ使ってんの?』
「気なんか使ってねえよ」
『恋人がいたってみんな適当に遊んでるぜ。お前、ほんと、あの人に惚れてんだな』
「ほっとけよ」
『そういうところがカッコよすぎてさ・・・』
「ムカつくんだろ?」
久村は声を上げて笑うと
『あの時もさ。そうだよ。お前が先生殴ってガッコー辞めた時。馬鹿にしてる奴もいたけどさ、カッコよかったよ、お前』
「・・・」
『なんか、お前みたいに損得考えないで生きてるヤツ見ると、自分がちっちゃく感じるっていうかさ。・・・負けてるわけでもないのに勝ってる気がしないんだよね』
「なんだよ、それ。わけわかんねえよ」
『ホントに今日来ない?可愛いコいっぱいいるよ』
風俗営業の呼び込みのような台詞に慎はふっ、と鼻で笑った。
「行かねえよ」
仕様がないなあ、あいつ誘うかなあ、独り言のようにそう言って久村は電話を切った。
───負けてるわけでもないのに勝ってる気がしない、か。
そういえば自分にもそう感受させる女がひとりいるな、と思った。
どうしてそう感じるのだろうか。元担任だからか、それとも6歳という年齢の差か。或いはふたりの互いを思う気持ちが拮抗していないからだろうか。慎は今でも自分の思いの比重のほうがはるかに強いと自覚していた。
慎は以前久美子を連れてどこか遠くに行きたいと願った自分を思い出して、どうしてあんなことを考えたのだろうかと嗤笑した。
───あの時は相当やられてたんだな。
久美子とならここでだって生きていける。
歌うように。
口笛を吹くように。
気がつくと、もう慎のアパートの前まで戻って来ていた。慎は階段を上りながら携帯電話のボタンを押す。
耳元の発信音と共に不意に頭上から聞き慣れた兄弟仁義のメロディが流れてきた。
───あ。
階段を駆け上がると、慎の部屋の前でしゃがみ込んでいた久美子が使い捨てカイロと携帯電話を手に驚いた顔で慎のほうに視線を向けた。
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