GOKUSEN



卒業までに 1.


おとといの天気は曇りのち雪だった。しかも夜半にかなりの量が降ったらしく、翌日雪合戦に興じることが出来るほど積もった。勿論雪合戦の言いだしっぺは担任教師の山口久美子だ。
「受験勉強ばっかやってたら煮詰まっちゃうだろ。たまにはさ、息抜き。息抜き」
 ───それが高校三年生を受け持つセンコーの言うことかよ。
そう心の中で愚痴りながら渋々付き合った。
昨日の天気は晴天だった。だから雪遊びは寒さを余り感じることなく楽しめた、と思う。
そして今日の天気もやや雲が覆ってはいるものの晴れだ、と言って差し支えない、暖かい朝だった。
誰もがさわやかに感じる清々しい一日の始まりだ。
けれど沢田慎は眉を顰めて忌々しそうに太陽を見上げる。射るように差し込んでくる朝の光は明け方近くまで問題集と格闘していた人間の眼にはかなりきつい。
雪が解けた後の足元の悪さも相まって慎の不機嫌さは度を増すばかりだった。慎はいつもどおり黒の革靴を履いてきたことを後悔していた。いつもの自分なら決してこんな失敗はしないのにやはり受験勉強の所為で頭がかなりやられているのかも知れない。
それとも、昨日のクラスメイトの言葉の所為か・・・。
「おっはよー」
いきなり背中を強くはたかれ思考回路が一気に吹き飛ぶ。
「・・・いてえよ」
掛けられた声に思いがけず浮き立つ気持ちを抑え、冷めた声で振り返る。
「お。なんだ、沢田、お前朝からくたびれた顔してんなあ」
慎はおさげに眼鏡の女の顔を一瞥したがすぐに何も言わずに眼を逸らした。
このままくるりと背を向けて引き返してしまおうか、と考える。何だって自分はこんなにくそ真面目に毎日学校に、しかも時間通りに来るようになってしまったのか。その上何故こんなにも受験に邁進しているのか。昔の自分に戻ってしまえたらどんなに楽だろうかと思うのだった。
「お前、勉強しすぎなんじゃねえのか?だいぶやられてるって顔してるぞ」
「俺は受験生なんだよ。勉強以外なにしろっつーの」
白金学院に転校してから二年ちょっと。少し遊びすぎたと気が付いたのは受験勉強に真剣に取り組み始めた夏の終わり。それ以降、頭に詰め込めるだけ詰め込んでる。そんな感じだった。
「それにしてもさ、ちょっと心配だよ」
気が付くと久美子が自分の前に回りこんで本当に心配そうに顔を覗き込んでいる。慎は少しだけ驚きどきりとするが、その顔を掌で邪険に押しやると
「じゃま」
そう言って早足で歩き始めた。
「ひどっ。さわだ、女の子の顔をそんなバスケットボールみたいに扱うんじゃねえよっ」
久美子の抗議を背中に受けながら
「誰が女の子だ」
低く呟きぬかるんだ足元を気にしつつ学校へと向かった。


昨日の雪合戦後のことだった。
「お前ぇら、ちゃんと勉強もすんだぞ」
教室を出る前に脅し気味に声をかけたが、返ってきたへーいとかほーいなどの気のない返事にがっくり項垂れながら出て行く久美子の背中を見送ると、慎は机に顔を伏せた。
三年生の三学期は殆どの授業が自習時間となっている。各自受験に向けての勉強をするためだ。
 ───このクラスにそんなヤツいるのかね。
そう思いながらまどろんでいた慎の耳にクラスメイトの声が不意に侵入してきた。
「ぜってーやんくみだって。間違いねえよ。いまどきあんな髪型の女、他にいるかよ?」
「だけど、やんくみに男ぉ?ありえねえだろ」
「しかも結構いい男だったんだろ?」
「年下っぽかったぜ。・・・なんか、どっかで見たことあるような・・」
 ───一体何の話だよ?
慎は直ぐにでも顔を上げ事の詳細を確認したい衝動に駆られたがぐっとこらえる。自分の気持ちなどおそらくクラス中みんな気付いているのだろうが、あまりみっともない真似はしたくなかった。
「あ、思い出したっ」
「えっ?」
「黒崎だよ、黒崎」
「え?黒崎って、二年の時辞めてったあいつ?」
「そうだよ。髪の毛の色が変わってたし、妙に可愛い顔して笑ってたからわかんなかったけど間違いないよ」
 ───黒崎・・。
慎は霧散していった眠気を再び手繰り寄せようと試みたが無駄だった。それどころか心臓は普段の二倍の速度で打っている。
話の筋はこうだ。二日前、久美子と黒崎がふたりきりでファミレスで会っていた。いつものファミレスではなく二駅向こうのファミレスで。しかも黒崎は髪の色を変え、なんと可愛らしい顔で笑っていた。要約すればそんなところだ。
「なんで、あのふたりが?」
「さあ・・。でもカレシってわけじゃなさそうじゃん。だって黒崎だろ?俺達と同い年だぜ。やんくみなんて対象外だよ」
「いや、それを言うなら、年以前に」
「だよなあ」
最後は笑い話になって終わってしまった。
他の連中は知らないだろうが、久美子と黒崎は去年の初夏に顔見知りになっている。
 ───対象外?
慎の脳裏には「こいつ、面白ぇやつだな」と言った、黒崎の泣き笑いの顔が浮かんでいた。


慎は教室に入ると鞄を机の上に放り投げる。椅子に腰を降ろすと、途端に眠気が襲ってきた。そろそろ生活を朝型に変えないとやばいな、と頭の冷静な部分で考えながら腕を投げ出し机に突っ伏した。
「慎」
控えめな声に顔を上げると、内山が遠慮がちに寄ってきて隣の席に座った。
「うっちー。・・・はよ」
「慎、眠そうだな」
「ああ」
内山は慎の瞳から自分の足元へと視線を移すと声のトーンを落として言った。
「俺さ、昨日見ちゃったんだ」
「・・・見た?何を?」
内山の表情に慎はいやな予感を覚える。
「やんくみとくクロがさ、ふたりで会ってんの」
「・・・」
慎は何か言おうとしたが上手く口に上らない。それよりも表情を抑えることで精一杯だった。
「慎も知ってるんだろ?最近ふたりが会ってるって噂があんの」
「ああ・・・」
そうか、すでに噂になってるのか、と思う。
「どこで見た?」
「ん。例の噂になってるファミレス」
「・・・」
「クロ、なんて言うかさ、変わってたんだ」
「・・・」
「明るくなってたって言うか、凄くいい顔してた。やんくみとすげえ楽しそうに話しててさ。俺、声かけらんなかったよ」
「・・・」
「なあ、慎」
「ん?」
「あのときかな?」
「・・・」
「あのとき、ふたりの間に愛が芽生えちゃったのかな?」
あのときとは、あのバレーボール部の事件のことか。
何故だか不安そうな顔つきの内山を見詰めながら慎は少し間を置いて答えた。
「いや・・。それはねえだろ」
久美子くらい分かりやすい人間もいない。もしふたりが恋愛しているのならもっと久美子になんらかの変化があってもおかしくないはずだ。
それに、つい最近まで慎の気持ちなどお構いなしに能天気に篠原との合コン話を浮かれた調子で喋っていたことを考えるとやはり違うだろう、と思う。
けれど黒崎のほうはどうなのだろうか。
そしてこれから先のことはわからない、と慎は少し不安になった。
「慎、いいの?」
内山が慎の表情を窺うようにして訊く。
「何が?」
内山の言わんとしていることは充分にわかったが慎はわざと知らぬ振りをした。慎はまだ内山の質問に対する答えを持ち合わせていない。今だ久美子の一生徒なのだ。
そして黒崎は久美子の教え子ではない。それは今すぐにでも恋愛対象になり得るということのように思えた。
その事実が、慎のこれまで大切にしてきた気持ちをたちまち覚束無いものに変える。
内山は少し困ったように笑ったがすぐに表情を変え立ち上がると、たった今教室に入ってきたばかりのクマに
「おっ。このデブ。また何か食ってんの?」
おどけた調子で近寄って行ってその豊満な腹部をわしわしと掴んで揺らした。


「沢田。さーわーだ」
放課後、いつものように五人で廊下を歩いていると後ろから声をかけられた。前を歩く四人は気付かずにさっさと昇降口に向かっている。
「なんだよ」
声をかけてきたのはここのところ受験以上に自分の心を不安にさせる担任教師だ。
久美子はいつものピンク色のジャージ姿で、腕組みをして慎に近づく。
「今日、お前、暇か?」
「暇か・・って。うちに帰ってお勉強だよ。お前センコーのくせに何言ってんの?」
「暇なんだな」
にんまりと笑うその顔から目線をはずす。可愛いのか憎たらしいのか最早分からないくらい慎にとって特別な存在になってしまった女は、余りにも自覚が足りなくておめでたい。
「だから、何なんだよ」
「よかったら、うちに晩飯食べに来いよ。テツとミノルにはもう言ってあるからさ」
「は?」
「お前ここのところ顔色悪いからさ。うちに来てちょっと栄養つけろ。な」
そう言って慎の右肩を軽く叩いた。
慎は心の中で舌打ちをする。なんだってこの女はこうも自分の心を掻き乱すのか。そして自分はそれに抗えない。
「わかった・・・」
慎は気のない返事をすると久美子に背を向けて歩き始めた。
「待ってるからな。絶対来いよ」
慎は右手を軽く挙げて返事をする。先ほどまで暗く淀んでいた気持ちが怖いくらいに澄んでいくのを自覚して、あまりにも久美子に振り回されすぎなんじゃないかと自分自身に呆れた。
自分は久美子にとってどれくらいの位置にいるのだろうか。少なくとも生徒の中では一番近い場所にいるだろうか。
自惚れてはいけないと自戒しつつ、自分を待っている四人の元へ早足で歩いた。 


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