GOKUSEN


雲の切れ間に太陽が見える 4.


腕時計は11時を指していた。
久美子は先程から重い足取りで、自分の家へ続く慣れた道とは違う通りを歩いている。こんな時間にこんな人気のない住宅街を二十代の女性が歩くなど、久美子にしかできない芸当だ。
久美子は慎の住むアパートへと向かっていた。
あの後、2件目の店で柏木が酔い潰れてしまって、早々にお開きとなってしまった。
雨上がりの所為か、空気はじめっと湿っていて生暖かい。湿気とお酒の影響でふくらはぎが浮腫んでいる様な気がする。しかし、足取りが重いのはそれだけが原因というわけではなかった。
なんだか胸騒ぎが収まらずここまで来てしまったが、行って、何事もおこっていなければどうすればいいのか。いや、寧ろその可能性のほうが高いのだ。
それに。
ただそれだけの理由でここまで来たのか自身でさえ疑問だ。本当は慎に会いたかったのではないかという疑問。川嶋の言う慎への特別な感情は自分の中に微塵も芽生えていないのか、ここへ来るまで何度も自分に問いかけてみた。確かに藤山静香から聞いた話は久美子の心に、重く落とされた錘のようにわだかまっていたのだ。これはいわゆる恋愛感情というやつか。
もしそうだとしたら、自分は一教師としてはどうなのだろう。
 ───失格だな。
久美子が引き返そうか、そう思ったとき、外灯に照らされた前を歩く人影が眼に入った。具合が悪いのか、身体をくの字に折り曲げて足を引き摺る様にして歩いている。服装からすると若い男だろうか。歩いている途中で片側の塀に凭れ掛かったりしている。
 ───酔っ払いかな?
だとしたら知らんふりしたほうがいい。本当に具合が悪いのだったら手助けしなくては。そう思って見ていた。
けれどその男が沢田慎だと、久美子が気付くまでにそう時間はかからなかった。
「沢田?」
久美子の声に驚いたように振り返ったその顔は苦痛に歪んでいた。
「ど、どうしたんだよっ」
久美子は慌てて駆け寄る。「酔ってんのか?どこか悪いのか?」
「お前、なんで、こんなとこにいんだよ・・」
息を吐くように喋るかすれた声。胸騒ぎが。言おうとして久美子は言葉を飲み込んだ。
初め久美子は慎の押さえた左胸が濡れているのはどこかでコケて、雨上がりの水溜りででも濡らしたのかと呑気に思った。薄暗い上、慎は黒っぽい服を着ていた。ただ、慎の破れた服は擦ったというよりも鋭利な刃物で切ったようにも見える。
 ───えっ?まさか・・。
久美子は慎の左胸の辺りを押さえた。ぬるっとした感触。
「なにすんだ、てめえ。痛えよ」
「お前、これ、血じゃねえか・・」
久美子は赤黒く染まった自分の掌を見詰める。喉が急速に渇いていく感じがした。小刻みに震える手。
「何があったんだよ」
「今話したくねえよ」
「と、とにかく病院に行こう、病院に」
「行かねえよ」
きっぱり言うと、慎はまた歩き始めた。その表情は険しい。
「なんでだよっ」
「こんな傷見せたら、警察に通報されんだろ」
「・・知ってる奴にやられたのか?」
久美子は走って行って慎の進路を塞ぐ。「だけど、家で治療できる傷じゃねえだろ。よく見せてみろよ」
「ほっとけよ」
「ほっとけねえよ」
自分を押しのけようとする慎の腕を久美子は掴んだ。「わかった。じゃあ、うちが世話になってる病院に行こう」
どこの病院だって同じだ、と言おうとして慎は気が付いた。目の前の女の家業を。
久美子は携帯を取り出すと、慎から少し離れたところで何か喋り始めた。
ずっと会いたいと思っていた女の背中を見詰める。
慎は溜息を吐くと塀に凭れ掛かった。空を仰ぐ。雨は上がっていたが、雲がかかっているのか星ひとつ見えない空はどこまでも真っ暗で、その闇は慎の心を不安にさせた。


長野は軽いパニック状態になっていて、慎と一緒にいた友人ふたりが送って行ってくれることになった。
長野を取り囲んでいた男たちはあっという間に姿を消していた。血を見てびびったのか、騒ぎに巻き込まれたくなかったのかはわからない。
心配する友人に大丈夫だと告げ、タクシーに乗ったのだが、運転手に病院に連れて行かれそうになって途中で降りてしまった。長野の今の精神状態を考えると大事にはしたくなかった。そこからここに辿り着くまでどれくらいの時間歩いたのか。
最初久美子の声で自分の名を呼ばれた時は幻聴かと思った。
久美子には強がって見せたが、初め熱しか感じられなかった傷口から現れた痛みはじわじわと慎の身体を侵食してきて慎を苦しめ始めていた。家までの道のりがこの上なく遠く思えていたところだった。
久美子は携帯を切ると、振り返って慎に微笑んで見せた。
その微笑みは慎を安心させるには充分で、慎の心から先刻の真っ暗な闇への不安は一瞬にして消えてしまっていた。

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