GOKUSEN



雲の切れ間に太陽が見える 5.


慎の部屋に帰ると久美子はまず窓を開けた。
古い建物なので一日中閉め切られた部屋の空気はむっとするほど湿気を含んでいて気温も高くなっていた。それでも、久美子はこの部屋に入った時なんだか懐かしいような幸せな気分を感じたのだった。
慎は病院で借りた服を脱ぐとパジャマ代わりにしているTシャツとズボンに着替え、ベッドに身体を横たえた。顔も洗いたいし、歯も磨きたい。でも、そんな気力はもうなかった。病院で飲んだ薬が効いているのか、痛みがやや治まった代わりに睡魔が訪れていた。
慎の傷は思っていた程には深くはなかったが、それでも傷口を縫合され、消毒や抜糸で何度か通院しなくてはならなかった。
「沢田、なんか欲しいものないか?何でも買って来てやるぞ」
久美子は言いながら慎にタオルケットを掛ける。
「・・んなもんねえよ。それよりお前もう帰れよ」
慎はタオルケットを頭から被ると壁際に身体を向けた。
「うん・・。お前が寝たら帰るよ」
久美子はベッドの横の畳の上に腰を下ろした。
「やんくみ」
「ん?」
「今日は悪かったな。世話になった。感謝してるよ」
「そういう台詞は眼ぇ見ながら言えよ」
「・・・」
「照れてんのか?」
「うっせえ・・」
「・・・」
「何にも訊かないでいてくれたことも感謝してる」
「うん・・」
病院から帰る途中、長野を送って行ってくれた友人から携帯に電話がかかってきた。幾分落ち着いた長野が慎に謝りたがっていること、そして、慎も自分の怪我のことなどを話したりして少し長話になったのだが、久美子は話を聞かないように少し離れたところで待っていてくれた。
慎は急速に眠りに落ちていく頭の中でぼんやりと長野はもう大学に来ないかもしれないな、と思った。
「沢田・・」
「・・・」
「ちょっと、訊きたいことがあるんだけど・・」
「・・・」
「沢田?」
久美子は慎の顔を覆っているタオルケットを捲った。慎は柔らかな寝息を立てていた。
「なんだ。もう寝ちゃったのか」
久美子はもう一度座ると、両腕をベッドに置きその上に顔を乗せた。「ちぇー。訊きたいこといっぱいあったのにな」
なんだか自分も眠くなってきたな、帰ろうかな、などと考えながら久美子は瞼を閉じた。今回の出来事で慎には慎の、久美子には踏み込むことのできない新しい世界ができていることを知った。これから先そういうことはもっと増えていくだろう。なんだか寂しいな、と感じる。
 ───やっぱ、好きなのかなあ。
篠原といる時のような緊張感やどきどきする感じはないが、慎と一緒だと何だか落ち着くし、何より楽しかった。そして存在そのものが大事だと思えた。それが元生徒だから愛しいのか、純粋に恋愛感情から来る気持ちなのか今は分からないし、もうどっちでもいいや、と久美子は思った。今自分の隣には確かに慎がいるのだから。
 ───もう、帰んないとな・・。
そう思いながらも久美子はそのまま深い眠りに引き込まれていった。


慎は目が覚めると外の音に耳を傾ける。雨樋を伝う水音が聞こえた。
 ───今日も雨か・・。
比較的部屋が明るいのは昨日カーテンも窓も開けたまま眠った所為だ。寝返りを打とうとして慎は、腫れた様な傷口の痛みと筋肉痛に顔を顰めた。
そして。
目の前にある女の寝顔に驚いて飛び起きた。
途端に身体に走る痛み。
「・・っつ」
左胸を押さえる。
 ───なに考えてんだよっ、こいつ。
あのまま眠ってしまった久美子は、途中寝ぼけて慎のベッドに入ってきたのだ。
慎の胸の鼓動が高鳴る。
手を伸ばして久美子の顔にかかる髪の毛に触れようとして、やめた。
一度身体に触れたらそれだけで収まるとは思えなかった。
 ───馬鹿馬鹿しい・・。
隣で寝ていた女は自分を元生徒としてしか見ていないというのに。
慎は久美子の無防備さに対する怒りと、そして喉の渇きを感じ、久美子の身体を跨いでベッドを降りると冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。一気に飲み干す。
それでも。
それでも癒されない渇きが身体の内側にあった。こんなに近くにいるのに決して触れることのできないジレンマ。苛立ち。
「・・あれ?」
背後で久美子の声と身体を起こす音がした。「なんであたしこんなとこで寝てんだ?」
 ───それはこっちが聞きてえよっ。
慎の怒りは頂点に達していた。なんという無神経さ。
「沢田」
久美子はキッチンに顔を覗かせると「なんか身体べたべたして気持ち悪いから一度帰ってからまた来るよ。今日土曜日で学校休みだし」
そう言って身支度を整えた。
「化粧も落とさないで寝ちゃったんだな。だめだな、あたし」
 ───ああ、そうか。お前が気になるのはそんなことかよ。
自分とはえらい違いだと、慎は自嘲するように笑った。
「お前さ」
「え?」
慎に声を掛けられ、靴を履きかけていた久美子は振り返った。「何だ?」
「もう、来るなよ」
「・・・」
「もう、ここへは来るな」
そこで初めて慎は久美子へ視線を送った。
久美子は真っ直ぐな瞳でこちらを見ていた。睫と瞼が震えている。
「それは」
「・・・」
「・・それは、もう、会いに来るな、ってことか?」
息を継ぐように喋る。
「ああ」
「迷惑・・だったのか」
「・・・」
「あたしが来るの、迷惑だったのか?」
「ああ。そうだよ」
少しの沈黙の後、そうか、そうだったのか、ごめん、と小さく呟くと久美子は傘を手にしてドアを開けた。
「ちゃんと、また病院行けよ」
ドアが閉まる前に、ひと言そう言った。
慎は空になったペットボトルを流しに投げると再びベッドに身体を横たえた。
そういえば、昨日も今日も久美子は自分を元担任だとか慎を教え子だとか、そういう言葉をひと言も口にしなかったな、と慎は思った。


久美子は雨の中を足早に歩いた。
歪みそうになる唇を強く噛締める。
久美子の中にあった、昨日の夜は息を潜めていたあのしこりは、慎の言葉に風船のように膨らんで、久美子の目の前でぱちんっと弾けた。
 ───好きなんだ。あたしは沢田が好きなんだ。
久美子は自分の頬に流れるのが、雨なのか涙なのか、もう分からなかった。

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