GOKUSEN



雲の切れ間に太陽が見える 1.


携帯電話の機械的な音で目を覚ました慎は、それを開いて時間を確認する。
7時。間違いはなかった。部屋のあまりの暗さにまだ夜が明けていないのではないかと疑ったのだが、それはこの季節に多い雨の所為だった。部屋の外の音は雨音に遮断されている。
 ───起きねえとな・・。
二度寝をして何度か遅刻しそうになったことのある慎は、無理矢理身体を起こすと部屋を明るくするためにカーテンを開け、それからキッチンに向かった。薬缶に水を入れてコンロに掛ける。コーヒーを淹れる為に。朝食を摂ったほうがいいのは分かっているのだが、朝、食事をして大学に行ったことは一度もない。
「お前なあ、朝飯食わなくてどうするんだよ。頭働かねえぞ」
何度もそう言われたことのある女の顔を思い出す。
 ───会いてえ・・。
もうどのくらい会っていないのだろう。


「あたしは自分の生徒イロにしたりしないよ。例え卒業しても、だ」
どうしてそんな話になったのか今は思い出すこともできない。
慎の大学が始まってすぐの頃だ。
「お前、あたしなんか誘うなよ。大学に可愛い女の子いっぱいいんだろ?」
映画に誘った慎にそう言いながらも久美子は快くその日はつきあってくれた。
夕食を食べようと入った店でそんな話になったのだ。
慎は傷付いた。今日デートに誘った元生徒を目の前にして言う台詞とはとても思えない。デリカシーの欠片もないその言葉に慎は不機嫌になる自分を隠すことができなった。
突然無口になった慎に、理由の分からない久美子は初めこそ冗談を言って笑わせようと試みたりしていたが、家路に着く頃には彼女も全く口を開かなくなっていた。
気まずいまま別れてから電話もかけていない。2度ほど久美子からの着信履歴を目にしたが、折り返しかけることはしなかった。気持ちの整理がつかない。


今日は1時限目から3時限目まで講義が入っている。その後は夕方中学生相手の家庭教師のバイトと、夜はコンパの約束があった。
バイトは家庭教師しかしていない。慎の行っている大学だと格段に時給がいいのだ。今日は本当ならもう1件高校生に教える仕事もあったのだが、相手の都合が悪くて中止になってしまった。そこへコンパの誘いだ。F女子大の深キョンが来る、と声を掛けてきた友人は言っていた。そういった類の話が真実だったことは一度もないのだが。
高校生の頃の慎なら全く相手にもしない話だが、卒業してから2年、少しは付き合いというものを大事にしなくてはいけないと学んだ慎は、誘われて都合がつけばコンパにも参加していた。そこでまた誘われれば、女の子と軽くつきあってみたり。
女の子と抱き合うのは心地よかった。けれどそれはほんのひと時で、行為の後は空虚な気持ちだけが残る。どうして隣にいるのが彼女じゃないんだろう、と相手に対してかなり失礼なことを考えたり、もっとひどい時は相手の名前や顔すら思い出せないこともあった。
慎は黒いリュックに今日必要な本を無造作に入れると、片方の肩に掛けながら灰色のスニーカーを履き部屋のドアを開ける。激しい雨に一瞬怯み休もうかとも考えるがあの頃より少し短くなった髪をくしゃくしゃっと掻き上げ、その手に傘を掴んだ。




「お嬢、最近食欲ないっすね」
ミノルに声を掛けられ久美子は我に返った。ぼんやりと考え事をしていて箸が止まっていたのだ。
「そ、そんなことねえよ。お前えが食いすぎなんだよ。どれ、ちょっと分けろ」
そう言うと、ミノルの厚焼き玉子を一切れ盗んで口に入れる。
「あっ。お嬢っ。そりゃないっすよ」
ミノルはひ弱な声で訴えた。
久美子は残りの朝食を無理して詰め込むと
「ごちそうさま。あ、今日は晩御飯いらないよ」
とテツに言う。「藤山先生たちと合コンなんだ」
相変わらず藤山や篠原達とお酒を飲む機会は多い。
昨日、その約束をした時の藤山静香の台詞を思い出した。
「この前見ちゃったんですよ。沢田君。可愛い女の子と歩いてましたよ。ふたりきりってわけじゃなさそうだったんですけど、山口先生、いいんですか?」
 ───いいんですか、って、なあんであたしに訊くんだよっ。
「えっ、だって、なんだかんだっていつも一緒にいるから付き合ってるのかと思って。そういえば最近山口先生の口から沢田君の名前聞きませんねえ」
探るような顔に曖昧な表情で応えて誤魔化した。
 ───付き合ってるわけねえだろ。あいつはあたしの元生徒だっつうの。それにしても沢田の奴、最近連絡して来ねえと思ったら、大学入っていい思いしてるんじゃないか。だからこっちから電話してもかけ直して来ねえんだな。ふうん。そういうことか。
いつもの久美子なら、教え子に彼女ができたことを手放しで喜ぶところなのに、どうしてこんなに不愉快なのか。胸の中のしこりがどんどん膨らんでいく気がする。最後に慎に会った日にできたしこりだ。
あの日自分の何が彼を怒らせたのか。分からないので謝ることもできない。それどころか連絡すら取れないでいたのだ。
「なんだよ沢田の奴。怒って連絡して来ないわけじゃなかったんだな・・」
ぽつりと呟いた独り言にちらっと龍一郎が視線を向ける。
「おい、久美子、そろそろ出ねえと遅刻するんじゃねえのか」
「えっ、あっ、うん。いってきます」
久美子は慌てて玄関に向かう。強烈な雨に気分が沈むが、小さく
「ファイト、オー」
と気合を入れてから傘を広げた。


next