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第一章 何かちがってる 2.
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 広尾にある撮影スタジオ。

 黒い巨大なスクリーンの前。俺はポーズを作る。

 照りつけるライト。シャッターの音。気持ちの昂ぶりを煽るカメラマンの声。

 スタジオの隅に今日は俺の所属するモデル事務所の社長、レイさんも来ていた。元モデルだけあって背が高く姿勢もいい。グレイのパンツスーツにただその身を包んでいるだけなのに、ここにいる誰よりも人目を惹く。オーラがある。レイさんは俺が祖父とふたりで暮らすマンションの同じ階の住人だ。俺と同い年の娘もいる。バツイチ。三十八歳。最近の三十八は決しておばさんなんかじゃない。

 俺は十歳のとき、レイさんにスカウトされこの世界に入った。

 モデルの仕事は肉体労働だと思う。

 今日は何度ここで服を着換えただろうか。二十着は下らない。

 今年の二月に創刊されたティーン向けの男の子雑誌「class A」。そのページの殆どを埋める自分の姿を初めて目にしたときの羞恥。叫び出したくなるほどの屈辱。狼狽。多分誰にもわからない。

 平澤かれんは「class A」を見ただろうか。おそらく見てる。あいつは本屋が好きだから。気取った作り物めいたニセモノの俺を目にしてどう思っただろうか。

 平澤かれんのふっくらとした顔を思い出した。

 あの女。

 愛。

 愛がないとか言いやがった。

 むかつく。

 俺がテキトーな口実を並べてつき合おうと言ったときのあいつのぼーっとした顔を思い出した。いつも笑ってるみたいに見える顔があのときばかりは能面みたいに固まっていたっけ。

 でも、こくりと頷いた。「うん」って言った。なのに愛がない。どういうことだ?

 ちょっとくらいは俺に気があるんじゃないかと思ってたのに。自惚れてたのかな。

「アキ。もっと集中して」

 あー。はいはい。すみませんねえ。

 フラッシュが素早く何度もたかれる。視界がぱちぱちと白く弾ける。

 身体を固定しないままにゆらゆら揺らし様々なポーズを作っていく。

 洋服のラインが綺麗に見えるように。頭でちゃんと計算しながら。それが俺の仕事だ。

 平澤かれんのことは暫く忘れることにした。

 


「お疲れ」

レイさんが車のキー片手に歩み寄って来た。「送ってく」

 すでに十一時を回っていた。たった一度の撮影で一冊分撮ろうというのが間違いなのだ。もう一度屋外での撮影が残っている。それはまた別の日。俺以外のモデルはもうとっくに帰ってしまっている。みんな俺より年上の、ベテランのやつらばかりだった。

 顔だけ水でばしゃばしゃ洗って制服に着替える。男性モデルは殆ど化粧をしない。眉を整えてもらうくらい。ただ髪の毛はムースでばりばりだった。汗も掻いてるし早く家に帰って風呂に入りたい。



 レイさんの車はいつ乗ってもいい香りがする。彼女のつけている香水の匂い。銘柄は知らない。香水に興味なんかない。

 レイさんは一度事務所に戻ってからまたスタジオに現れた。おそらくは俺をこうしてマンションまで送る為。十五歳のガキをこんな時間まで働かせているのだから当たり前だ。

「どうだった?今日の撮影は」

 どうと訊かれてもな。

「どうってことない」

 助手席に身体を深く沈め、前を見たまま素っ気無く答えた。

「あら?」

レイさんは失笑している。「何かあるでしょう?今流行の洋服がたくさん着られて楽しかったとか、今日いたモデルのなかでも俺が一番カッコよかったとか、何かこう前向きな感想は、ないの?」

「─── ない」

「あらあら」

 笑っている。

 レイさんの事務所にはモデルや、モデルから転身した女優、男優の有名どころがごろごろいる。業界ではかなりの大手だ。事務所は渋谷の神宮前にある。俺はその事務所の今一番の期待の星、なんだそうだ。レイさんに言われたわけじゃないけど。ここのとこ、どこに行っても「そうなんだってね」、と言われるから本当に期待の星なのかもしれない。どうりで。最近妙に風当たりが強いと思ってた。今日だってあのスタジオにいたモデルの誰からも口を利いてもらえなかった。話しかけてもまるで無視。男の嫉妬は案外根深く、その態度はあからさまに陰険だ。もう二度とこちらから声をかけたりするもんか。



 レイさんにスカウトされたとき、モデルという仕事を一も二もなく引き受けたのにはちゃんと理由がある。

 俺は母方の、アメリカ人の祖父に、四歳のときから育てられた。祖母はいなかったのでふたりだけで暮らしてきた。その祖父が亡くなったのが八歳のとき。今度は父方の、日本人の祖父と暮らすことになった。こちらも祖母は当時すでに他界していた。

 両親はちゃんと生きてるよ。

 母親はあの広い国のどこかでお金持ちの胡散臭い弁護士やろうと暮らしているだろうし、父親は今は近畿地方に在住、と聞かされている。どちらにも新しい家庭がある。多分、二度と会うことはない、と思う。

 可哀相?

 もしそんなことを言うやつがいたら俺はそいつをぶん殴ってやる。俺の祖父ふたりを愚弄するなと叫んでやる。俺は可哀相でもましてや不幸なんかじゃ、絶対ない。

 アメリカ人の祖父は俺を、目に入れても痛くないほどという表現がぴったりなくらい可愛がってくれたし、今の祖父だって愛情表現の違いこそあれ、同じだ。俺は幸福だと思っている。

 でも。

 不安はある。

 母方の祖父はある日突然神に召された。ガールフレンドが何人もいて、病院になんか行ったこともなくて、目茶苦茶元気だったのに。俺は広い大地の中、卒然として独りぼっちにされてしまった。あのとき襲いかかってきた言いようのない身体の奥底から震えるような不安感。孤独感。寂寥感。

 また同じことが起こらないとどうして言える?

「モデルって、お金がたくさんもらえるの?」

 俺はレイさんにそう訊き返した。レイさんは軽く目を見張って、

「そうね。君の頑張り次第でいくらだってもらえるわよ」

子供相手に案外冷静にそんなことを言った。

「じゃあ、やる」

即答した。

 俺の祖父に話をする、というレイさんに、俺は、お金のことについて訊ねたことは絶対言わないで、とお願いしておいた。祖父に、子供らしくない子供だと、思われたくなかったからだ。子供らしくあることが孫である俺の努めのような気がしていたから。

 義務教育は、終えた。

 もし今ひとりになることがあっても、取り敢えずはこの仕事で生きていくことはできると思う。学校なんか辞めたって構わない。そう考えるとき、いつも、少しだけ平澤かれんの顔がちらつくんだけどね。

 両親や、会ったこともないような親戚の世話にだけはなりたくない。だから自分でお金を稼ぎたい。

 それが俺の芯にある気持ちだ。



 成城のマンションは祖父が八年前、定年退職と同時に購入したものらしい。転勤の多い職場だったので、定年を迎えるまではずっと社宅住まいだったということだ。

「ひとり静かに余生を送るはずだったのに、なんで、お前と・・・」

よく祖父はそう洩らしている。何? 俺と一緒じゃ不満? 賑やかでいいじゃん。

 小田急線成城学園前駅下車徒歩10分。悪くはない。平澤の家はここから歩いていける距離の高級住宅地にある。あんなとぼけた顔して生粋のお嬢様なのだ。

 日本の祖父と暮らし始めた当初、俺は外見の所為か、それともカタコトの日本語の所為なのか、わかんないけど、とにかくよくいじめられていた。相手は公立の学校のやつらばかり。同じ学校のやつは殆どいなかった。いじめられていたと言ってもやられっぱなしじゃない。こちらもやり返すので、相手のほうが逃げ出したり、とんでもなく派手な喧嘩に発展して見知らぬ大人に止められたり。

 笑っちゃうんだけどさ。最初に仕掛けてきたやつの親が子供が怪我をさせられたと言っては祖父のところに怒鳴り込んで来たことが何度もあるんだ。アホな親だろ?子は親の鏡。

 静かな余生を手に入れる筈だった祖父は、そんなときはただひたすら平身低頭に謝っていた。何でだ? それがジャパニーズ方式か?

「謝ることないっ。あいつらが悪い」

 そういう俺に、

「ばかもの。東京では怪我をさせたほうが謝るのが常識なんだ。お前もだな、相手に怪我をさせないようにもっとうまく喧嘩しろ」

と、ムチャクチャなことを言った。

 一度、五人くらいと喧嘩して、酷く怪我を負ったことがあった。道端に座り込んだまま動けなくなった俺に声をかけてきた人間がいた。恐る恐るといった態で。

「佐藤…く、ん?」

 同じクラスの平澤かれんだった。平澤は傷だらけの俺の顔を見ると、目をまん丸にした。そして、あろうことか、

「ワ……、What's the matter?」

と英語で話しかけてきたのだった。

 はああああ? って感じだろ?

 俺は驚いて目が点になってしまったね。発音は悪くなかったよ。後で聞いたら、物心つく前から英会話学校に通っていたの、ということだった。

 いやいや。俺が驚いたのは英語の発音のことじゃなくて。ここは日本で。俺はクォーターではあるが佐藤明良という名前で。日本の学校の同じクラスで勉強している俺に。いくら俺の日本語が、まだまともじゃないからといって。フツー、英語で話しかけたりするか?

 平澤かれんは時折ひどくトンチンカンだ。底抜けに天然。そりゃもうメジャー級。

 俺は平澤の顔を凝視し、怖いもの見たさみたいな心情からなのか、どうしたことかそこから視線を外すことができなくなってしまっていた。暫しそうして互いに目を合わせていると、平澤がその口許をほころばせた。あはっ、と笑う。屈託なく。乳歯が三本抜けた口の中が丸見えになり、もともと垂れ目な目尻がさらに下がった。

 うわあ。なんちゅうブサイクな……。

 でも、愛嬌のある表情だった。こちら側を気安い気持ちにさせる人懐っこい笑い方。

「あれえ。通じないのかなあ……」

笑顔のまま小首を傾げ、平澤は足元の縁石にしゃがみこんだ。「キャシー先生には通じるんだけどなあ。変だなあ。先生、日本に来て長いから、もう日本人の発音に耳が慣れちゃってんのかなあ」

 じゃあさ、もうあの先生に英会話習っても意味ないってことじゃん?

 俺が全く日本語を理解できないとでも思っているのか、ただひたすらひとりごちているその光景はもう不思議としか言いようがなかった。

 ひとりぶつぶつと喋りながら平澤は膝の上に乗せたデニム生地の鞄のファスナーを開けた。小さなビニール製のポーチを取り出し、更にその中から絆創膏らしきものを指で摘み出した。

 うっ ───。

 俺は言葉に詰まった。ぎょっとした。一気に顔面蒼白になり挙措を失った。

 平澤が手にしているのはとてもカラフルなキャラクター柄の絆創膏だったのだ。

 え? それ、俺にくれるつもり? 俺、そんなの貼らないよ。絶対貼らない。遠慮します。もう帰ります。また明日学校で。

 でも、気持ちを上手く言葉で伝えることはできそうになかった。

 平澤はもたもたと不器用な手つきで絆創膏を剥がし、沢山擦りむいた傷口の中でも一番目立つ、膝小僧の傷の上にピンク色のそれをそうっと被せた。恐る恐るといった仕草。

「痛い?」

 真面目な表情でこちらの顔を覗き込んでくる。俺は首を横に振った。

 そんな傷なんかより、血の出ていない、服に隠れて見えない、腹だとか背中だとか殴られたり蹴られたりした場所のほうがじんじんと痺れるように痛かったのだ。

 それを目の前の同級生にわかってもらいたい自分がいて、俺は驚いた。

 弱みを見せたがるなんて。みっともない。子供だけど男なんだから。もっと強くなりたい。

 平澤がじっとこちらの顔を見ていた。視線は俺の唇の端にある。そこが僅かに切れていて血が滲んでいることは知っていた。口の中も血だらけだ。ずっと鉄の味が充満していた。

 平澤がまた絆創膏を手に取った。今度はブルーのやつ。仔猫のキャラクター。

 さすがにそれは顔に貼れないだろ?

 今度は首を横に振って拒絶の意思を表明した。え?と平澤が目を少し大きく見開いた。

「フツーノ……」

「普通の?」

 手を伸ばして平澤の手からポーチを奪った。中には薄茶色の絆創膏もちゃんと一枚入っていた。それを抜き取ると、平澤にさっとポーチを返して俺は立ち上がった。膝を伸ばした途端、身体中が悲鳴を上げた。重い。手足に水の入った袋をぶら下げられてるみたいに全身が重くだるかった。

 俺は顔の前でひらひらと絆創膏をちらつかせると、

「アリガト」

平澤にそう言って背中を向けた。

「佐藤君っ」

 やにわに背中に追い縋るような声が覆い被さって来て、俺は驚いて振り返った。声色とはウラハラににやけた笑顔の平澤は、立ち上がって俺に視線を注いでいた。あ。でも、笑っているように見えるのは顔がそういう作りなだけで、本当は違っていたのかもしれない。それは後になって思ったことだ。

「明日……」

─── あした?

「佐藤君、明日、学校に、来る?」

 え?

 俺は僅かに小首を傾げて考えた。

 日本の学校に通うようになってから一ヶ月半。俺は一度も学校を休んだことはなかった。

 クラス中のみんなに外見を、カタコトの日本語を、たとえ好奇の目で見られようとも失笑されようとも。学校で誰とも言葉を交わすことなく一日を終えたとしても。俺は毎朝決められた時間に学校に行き、家へ帰る。そういう暮らしを貫いてきた筈だ。

 どうしてそんなことを訊くのだろうか。

「来る?」

 平澤がいつもは能天気なその顔の、眉根をほんの微かに寄せていた。

 その顔から視線を逸らし、俺はテキトーな調子で頷いた。

 平澤の顔に笑みが戻るのがわかった。

「じゃあ、明日、学校でね」

 なんじゃそりゃ。

 俺はにこりともせずもう一度絆創膏を持った手をひらひらさせると帰路を辿った。

 それにしても身体中が痛い。あいつら今度会ったらただじゃおかない。あの中の誰かひとりでも単独行動をしているとこに出くわしたら、絶対こちらから仕掛けてやる。一対一なら間違っても負けたりしない。そんな物騒なことを考えながら。時折手にした絆創膏に目を当てながら。祖父の待つ部屋へと重い足を引き摺って歩いた。


 

 レイさんの車でマンションに帰った時には、もう深夜0時を回っていた。

 ゆっくりと、音を響かせないように鍵を回し、部屋のドアを開ける。年寄りは朝も早いが、夜も途轍もなく早いのだ。そして眠りが浅い。なるべくなら不用意に祖父を起こしたくはなかった。

 腹が減った。何時に帰って来られるかわからないので晩ご飯はいらないと祖父には伝えておいた。撮影の合間にサンドイッチを頬張ったけどもう燃料切れだ。台所にバナナがあったので二本引きちぎり自室へ持っていく。

 バナナを齧りながらベッドに横になった。眠い。どちらかといえば俺も朝型人間なのだ。だってずっと年寄りとばかり暮らしてきたからさ、長年の習性ってやつ?─── 年寄り、なんて言うと祖父は猛烈に嫌な顔をするんだけどね。

 天井が歪む。マジで眠い。バナナの皮をゴミ箱に放り投げると身体を横にして丸まった。髪の毛はパリパリのままだ。でももういいや。寝る。決めた。

 瞼を閉じると平澤の顔が浮かんだ。あいつはどこにでも現れる。

 ─── 。

 どうしてだろう。

 俺はあの日の平澤かれんとの遣り取りを今でも時折思い出すんだ。

 あの日、道端に座り込んでいた俺は、途方もなくへこんでいた。

 身体が痛むと精神も病むのだろうか。

 もう何もかもがどうでもよくなっていた。

 帰りたい。

 どこへ?

 どこへ帰る?

 アメリカの祖父はもういない。

 死んでしまった。

 俺の居場所は?

 ここは本当に俺の居るべきところ?

 鬱々と負の翳が心を蝕んでいた。

 だからかな。

 俺は弱味につけこまれたのかな。

 自分でもよくわからない。

 あの日の平澤の顔。ところどころ抜けたでこぼこの歯並び。糸のように細い目。ふっくらしたえくぼの浮かぶ頬。決して美しいとはいえない、でも愛嬌のあるひなたの匂いのする笑顔だった。

 あの顔が。貼ってもらった絆創膏が。あれから何年も経っているのに。俺はこの地にすっかり馴染んでしまっているというのに。なんでだろう。俺の中から消えてはくれない。

 それはもう、まるで俺の身体を形作る細胞の一部になったみたいに、今でも俺の中でひっそりと息づいているのだった。


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