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第一章 何かちがってる 3.
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 四月。

 高等部へ上がる前の春休みのことだった。



 ない。

 ないないない。

 どうしよう。

 絶対ここに忘れたと思ってたんだけど。でもないよ。やっぱり家のどこかにあるのかな。昨日散々探したんだけど出て来なかった。

 やっばいな。あれって区立の砧図書館で借りたものなのに。

 うっひゃあ。返却日っていつだったっけ。

 わたしは真っ青になって、塾のいつもの席に絶望的な気分で腰を下ろした。

 週二回通ってる学習塾。先週までは佐藤君もいた。佐藤君は小学校六年生のときと、中学校三年生のとき、どちらも一年間ずつここへやってきていた。足切り対策。

「平澤、暇だろ? ちょっとさ、お願いあるんだけど。一時間ほど早く来てさ、勉強教えてくんない?」

 暇だろ、はすんごく余計だ。でもわたしはへらへらと請け負った。

 そんなこんなでこの塾で週二回一年間、机を並べ共に過ごしたというのに。彼は三月いっぱいでさっさとやめてしまった。用が済んだらもうお終い。そういうやつ。

 ああ。違う。それよりも。

 紛失した事実を図書館のカウンターでどんな風に告げればいいのか。弁償すればいいなんてもんじゃない。公共のものを大切にできない人間。刻印。烙印。どーん。

 次からも気持ちよく貸し出しさせていただけるものなのかどうか。

 嫌になる。

 しかも借りた本が「チャタレイ夫人の恋人」なのだ。なんとなく恥ずかしくて家にあったブックスルーエの文庫本カバーをわざわざ被せた。

 困ったな。もう一回家中を徹底的に探さなくちゃ。わたしは空いてしまった、先週まで佐藤君が座っていた隣の席をぼんやり見遣りながら、頭を両手で抱え込んだ。



「これって、平澤んだろ?」

 入学式の翌日。

 同じクラスになった佐藤君が私の前に一冊の本を差し出した。見慣れたキン・シオタニのイラスト。ブックスルーエのブックカバー。わたしは目を見開いた。手に取り中を確認する。「チャタレイ夫人の恋人」。年季の入った黄ばんだ紙。砧図書館の名前の入った印。間違いない。ぱっと顔を上げ、佐藤君を見た。

「この前塾に忘れてた」

 こちらの心底驚いた様子など意に介していないようで、あっけらかんと言う。

 思いがけず目を潤ませた。佐藤君が露骨に気味悪そうな顔をした。でも気にしない。

「よかったあ……」

わたしは文庫本を抱きしめた。「ありがとう。失くしちゃったかと思ってた」

 返却期限は昨日までだったけど、まだ図書館には何も連絡していなかった。全部読んでいないので、今日帰りに寄って継続して借りる手続きをしよう。なんてことまで考える。

 佐藤君が隣の机に腰を下ろしてそんなわたしの様子をじっと見ていた。何?と、首を傾げると、その顔に不敵な笑みを浮かべて言った。

「それってさ、やらし過ぎて発禁になった本なんだろ? お前、そういうの、読むの?」

─── 。

 確かにそうだ。この本を出版したひとと翻訳したひとは「猥褻ノ文書」がなんちゃらかんちゃらの罪で起訴され、その後裁判にまで発展している。有名な話。

 でも、実際読んでみればわかることなんだけど、それほど性描写はきつくない。どちらかというと、文芸書と断言してもいいくらい。結構小難しいことが書いてあって、読むのに時間のかかる本。発禁なんて大昔の出来事だもん。このくらいだったら、平成のニッポン。もっといやらしい本はごろごろある。

 ただ、わたしも、どんないやらしいことが書かれているのかと、かなり興味本位で手にとったのは事実だった。そして、翻訳に問題ありなんじゃないかと思うけど、口に出すのも憚られるような直截的な言葉がいっぱい出てくるのも本当。あと、一箇所。え。と思うようなチャタレイ婦人の行為もある。そこまでして快楽が得たいのかと。読みながらひっくり返りそうになってしまった。こんなことをする女性の本をわたしはまだ読んだことがない。

 だから。

 わたしは、佐藤君の言葉に、顔を赤く染めてしまっていた。必要以上に。もうそれはそれは見事にまっかっか。

「ふうん」

 佐藤君は面白そうにわたしの顔を覗き込んできた。東洋と西洋の血の混じり合ったエキゾチックな顔。思わず身体を引いていた。

「な、なに……」

「平澤って、誰かとつきあったこととかあんの?」

「なっ……」

 もう林檎だ、林檎。林檎のように赤くなっているに違いない。

「ないよっ。悪いっ?」

「じゃあ、経験なし?」

はあああ? なんの経験だ? あれか? あれの話なのか?

「な、な、な」

「な?」

 ないというのも悔しいし。でもあるわけないのはバレバレだし。

 口を噤んで答えないでいると、

「平澤さ、恋愛もしないでそんな本ばっか読んでたらダメだって。運命とかさ、身体の相性とかさ、ちゃんと経験積まないと実際のとこはわかんないだろ?」

したり顔でそんなことを言われた。

「え?」

わたしはびっくり仰天だ。「佐藤君、この本、読んだの?」

「読んだよ」

「うっそ……」

 信じられなかった。佐藤君は本なんか読むキャラじゃない。どうしちゃったんだろうと思うと同時に、自分の嗜好を知られてしまったと益々羞恥に覆われた。

 悔しい。何だか負けてるみたいだ。

 何か言ってやりたいと気ばかりが焦る。

「じゃあ、じゃあさ……」

「ん?」

「さ、佐藤君は、その、経験、あるの?」

 佐藤君の顔に呆れたような色が滲んだ。

「は? ないように見える?」

「え……」

「っつーかさ。このクラスで経験ない男なんて、多分、そんないないと思うよ」

「えっ」

「甘いな、平澤」

「えええええええ」

 うっそ。嘘。嘘。嘘。

 知ってるの? 佐藤君は男と女のそういうあれを知ってるの? え? まじで? わたしが知識でしかしらないあれを佐藤君は身体でちゃんと知ってるわけ?

 えーーー。

「平澤?」

 あたしは胸から上をばたんと机に突っ伏した。

「……」

 ショック。

「大丈夫? 起きてる?」

「……失礼ね。寝てません」

 くすっと佐藤君が笑いを洩らした。皮肉っぽい笑みじゃなくて。本当に楽しそうな笑い。この顔はかなり好き。

 佐藤君がわたしの手からもう一度「チャタレイ夫人の恋人」を奪った。目の前に翳してぱらぱらとページを捲ってる。

「平澤がこういう本をねえ……」

 揶揄を含んだ調子でしみじみと言う。やな感じ。

「本読んで恋愛した気分に浸ってるんだ? ってか、平澤、恋愛したいわけ?」

「いけない?」

 強い口調で言い返していた。めちゃくちゃ腹が立っていた。先ほど受けた衝撃もまだ心の隅っこに残ってる。

「そりゃ恋愛したいわよ。悪い? でも相手いないし、だから本読んで幸せとか妄想とかそういうのにどっぷりつかってるの。擬似恋愛してるの。それってそんないけないことかな?」

「いや、いけなくないよ」

「じゃあ、もう、ほっといてよ」

 ばっ、と乱暴に本を奪い返した。─── 公共物はもっと大事に扱わなくてはいけない。ほんとはね。

 傷付いていた。

 どうせわたしはモテない。でも佐藤君は経験あり。なんかすっごく差が開いてる。顔立ちの所為? 神様は不公平だ。

 滅多に怒らないわたしの怒気に佐藤君がちょっと驚いた顔をした。

 机の上に肘を突き、その手の甲に顎を乗せ、教室の前をじっと見ている。佐藤君が考えごとをしているなんて。珍しい。

 周りを見回すと、教室には誰もいなくなっていた。

 え、と。次って何だったっけ? 体育館に行かないといけないんだっけ?

「佐藤君、もうそろそろ移動しないと……」

「平澤さ」

「え?」

 佐藤君が黒板に当てていた目をゆっくりとこちらに向けた。

「平澤、俺のカノジョになっちゃえば?」

「は?」

「俺、フリーだし。つき合おうよ」

「へ?」

「頭の中であれこれ考えるよりちゃんと恋愛したほうが絶対健全だって」

「……」

 え? これはどういう展開?

 自分がどんな表情を相手に見せているかなんてまるきり頭になかった。ただひたすら固まって、とんでもない提案を口にする佐藤君を茫然と見返していた。

 え? わたしが佐藤君のカノジョになるの? これってそういう話?

「不安ならお試し期間三ヶ月やるよ」

 お試し期間だと? なんじゃそりゃ。

「どう? 俺とつき合う?」

 と、もう一度問われて、

「うん」

 つき合う ─── 。

 条件反射みたいに返していた。こっくりと頷いていた。

 佐藤君は僅かに驚いた顔を見せたけど、それも一瞬。直ぐににっ、と笑った。

 もしかして俺が誘って落ちない女はいないぜ、とか思ってる? 自信満々? ちぇっ。やだ、って言ってやればよかったかな。でも、言えない。なにせ相手が他の誰でもない、佐藤君なんだもん。



 結局わたしと佐藤君はつき合うってことになったみたいで。でも、コイビトドウシって感じじゃない。全然ない。

 なんかさ、ずっと自分の中で温めていた両思いへの手順、みたいなのが前触れもなく見事に根底から覆されちゃった感じがして、素直に喜べない自分がいるのも本当なんだ。

 そりゃ、わたしの周りにいる友達もみんな色んな手段でカレシを作ってる。

 友達のカレシの友達を紹介されたり。メールで最初は遣り取りしてて気持ちが盛り上がってまだ顔もみないうちからつき合い始めたり。まずは友達から、なんつって、一ヶ月も経たないうちにえっちまでする仲になっちゃったり。案外お手軽に簡単に安易に容易に手っ取り早く、恋愛なんてものはできるのだ。

 小説のなかにだってそういう話はごろごろある。

 一体わたしは何を望んでたんだろう。

 少女漫画に出てくるみたいな恋愛、かな?お互いに何年も片思いしてて、その秘めた思いを何か大きな出来事がきっかけでつい口に出して、自分達は実は両思いだったんだ、知らなかったぜ、きゃあっ、ぎゅうっ、ちゅっ、なんつー展開を期待してたんだな。きっと。アホだな。コドモだな。わたしは。これが妄想世界に何年も浸り続けた挙句の弊害なのかな。

 佐藤君相手にそういうのは無理だから。絶対無理だから。

 でもさ ─── 。

 やっぱり、お試しで、みたいな展開はわたしは本当は好きじゃない。

 それって何かちがってる。そう思う。

 わたしは肝心な言葉を聞かされてないし、言ってない。

 何かちがってる。

 何かちがってるよ、佐藤君。


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