NEXT

第十章 ちがうって、言ってるのに  1.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そのまま真っ直ぐ帰ってもよかったんだけど。つい、乗り換えの新宿駅を出てしまってた。
 いま、すごく暗い顔をしてるはず。こんな顔で家に帰りたくなんかなかった。
 東口を出て、でもこのへんにはあんまり詳しくなくて、紀伊国屋へと向かった。本屋以外で時間を潰す術を知らないというのはこの年頃ではどうなんだ、ちょっと悲しい。
 佐藤君は今頃何してるんだろう。えみりさんのお母さんにわたしが帰ったことを聞かされてどう思ってるんだろう。電話、くれないかな、と思ってケータイを開いてみたけど着信履歴なんかなくて、余計惨めな気持ちが広がった。ばかだな、わたし。日も微かに暮れかけてて、空の色合いが寂しげで、落ち込み具合はさらに増長されてきた。
 やばいじゃん。こんなんじゃどんどん家に帰られない状態になってっちゃう。
 紀伊国屋に近づく前に見知ったひとがわたしを追い越して行った。
 向こうはこちらに気づいていない。さっさと足を速めて歩いてる。普段とまるっきり違う服装。と言ってもわたしは彼の制服姿しか知らないんだけど。シックだけど、どこか艶のある格好。いつもはさらさらの髪を今日はワックスか何かで撫でつけている。どきっとした。
「先、輩?」
 本当に高本先輩だろうか。いや、間違いないと思う。毎日のように顔をあわせている所為か、顎のラインだとか、背格好だけでも意外と誰だかわかるものだ。
 思わずあとを尾けてしまっていた。
 先輩の顔がとても強張っているのが斜め後ろからでもわかった。
 やめたほうがいいって。近づかないほうがいいって。どこかで声がするんだけど。
 足はあとを追っていた。
 先輩はマルイメンズ館へと入っていく。
 ここって……。
 先輩を見かけてからずっとばくばく鳴ってた心臓。それがさらにヒートアップする。
 先輩は顎を上げわき目もふらずにずんずんと、店の中を突き進んで行った。
 先輩はスーツ姿の男のひとの前で立ち止まった。
 いかにもサラリーマン然とした大人のひと。多分三十代前半くらい。その男のひとは先輩に話しかけられるとインテリ風な顔を崩してにやっと笑った。いやらしい値踏みするような笑い。心臓が一気に冷えた。
 だめ。だめだよ、先輩。何やってんですか。
 そう言いたいけれど言うわけにはいかない。先輩だって。あんな自分の姿、知ってるひとに見られたくはないだろうし。
 どうしよう。
─── マルイメンズ館ってさあ。あっち系の男のひとが待ち合わせ場所に結構使ってるんだって。
 これは以前徳本さんから仕入れた情報。
 本当のところはどうなのかわかんないんだけど。でも。多分、あのふたりに関してはビンゴ。
 だって先輩は─── 。
 それにしても、先輩は少しも楽しそうな顔じゃない。青褪めた顔で無理矢理笑顔を作っている。
 どうしよう。
 ふたりはすぐにお店から出た。少し横に距離を取りつつも自分たちの行き先目指して歩いているのがわかる。言葉を交わすことは殆どない。どこへ向かっているのかはさすがにここまでくるとわかってきちゃった。ここから先は歌舞伎町。そしてその先にいわゆるホテル街があることも一般的な知識として知っている。
 それにしても会って早々そんなとこへ向かうなんて。どういう知り合いなんだろう。ってかもしかして初対面?
 わたしの足はそこで止まった。
 やっぱりこれ以上は見ちゃいけない。本当は。なんていうか、引き止めたい気持ちもあったんだけど。だって先輩が誰を好きなのか知ってるし。そのインテリ風の男のひとなんか全然タイプじゃないのもわかってるし。先輩、すごく顔色悪いし。だけど、ここで声をかけるのは余りにもおこがましい行為だ。
 引き返そうとしたところで、どういうわけか振り返った先輩と視線が絡んだ。
 それはもうばっちりと。
 ふたりで目を丸くした。
 すうっと血の気が引く。おそらくは向こうもおんなじ。
「平、澤、さん……」
 先輩の唇がわたしの名前を呟いた。
 そこですぐに知らん振りして去ってっちゃえばよかったんだろうけど。そう。それが礼儀というものなんだろうけど。
 固まった。わたしは銅像のように固まっていた。
 最悪なことに、ただひたすら先輩の顔を凝視していたのだ。それはもう不躾に。ほんっと、さいっ悪。
 先輩は困ったような顔で笑うと、視線をわたしから一緒にいた男のひとに移し何か話し始めた。
 わたしは束の間ふたりの様子をぼうっと眺めていたけれど、はっと我に返って踵を返した。でも時すでに遅し。駆け出そうとしたところで背後から今度は大きな声で、
「平澤さんっ」
と声をかけられた。
 びくりと身体を揺らして立ち止まった。
「平澤さん、ちょっと待って」
 ゆっくりと恐る恐る振り返る。
 露骨に顔を顰めてこちらを睨みつけているインテリ風の男性と目が合った。あからさまな怒りをわたしに向けて放っている。ちっ、ていう舌打ちまで聞こえてきた。怒ってる怒ってる。うっひゃあ。どうしようどうしようごめんなさいごめんなさい。
 先輩は憤る男のひとを置き去りにわたしに近寄ってくると、
「行こう」
そう言って手を取った。男同士のカップルがひと組、先輩たちが向かおうとしていた方角に歩いていくのが見えた。
「え?」
戸惑う。「だけど……」
「いいから」
先輩のわたしの手を握る指先に力が込められた。「いいんだ。あんなやつ、全然好みじゃなくって、本当は逃げ出したかったんだ」
そっと耳打ちされて、わたしは少しだけ安堵した。
「行こう」
「は、はい……」
 一緒に歩き始める。もうすっかり薄暗くなった歌舞伎町に通じる道を逆に進む。ここはわたしみたいなお子ちゃまがふらふらしていいとこじゃない。
 やや歩いてから気がついた。
 先輩? 手、握ったままなんですけど?
「先輩、あの……」
「え?」
先輩は、握り合ってる手に視線を落とすと、「あ。ごめん。つい」
ぱっと離して笑った。わたしもぎこちなく笑いを返す。
 今日の先輩はいつもと違う雰囲気で、だからこちらも必要以上に仕草が硬くなってしまうのだ。だけど口を開いた先輩はいつもどおりの先輩だった。ほっと安堵する。よかった。
「平澤さん、ひとり?」
「あ、はい」
「今日、彼は? 仕事?」
「はい」
「こんな時間に平澤さんがこんなとこにいるなんて、彼、知ってるの?」
 責める口調じゃなくて。穏やかな揶揄うような声色で訊かれた。
「あ。いえ」
「そう。……時間はあるの?」
「え?」
「コーヒー、おごらせて」
 言うなり駅ビルへと向かう。一階のコーヒー専門店に入る先輩の背中を慌てて追った。
 先輩は普通のアイスコーヒーを、わたしはフラペチーノをたのむことにした。
「サンドイッチ食べない?」
「あ。いいえ」
「甘いものは?」
「ほんとに」
「お腹いっぱいなの?」
「はい……」
っていうか。さっきのいまで、まだ胸がいっぱいなんだよ。すんごいどきどきしてる。
 先輩はわたしの無礼な行いを全然怒っていないんだろうか。追加注文している先輩を残してわたしは空いている席を探し始めた。綺麗に磨き上げられた大きな窓の外はもうとっぷりと日が暮れていた。


「平澤さん、ずっと気づいてたんだよね」
「……」
 先輩の言葉にゆっくりと頷いた。甘いものはいらないと断ったのに、先輩はオレンジ色のバーを二本買っていた。なんだろう。マンゴー味のスイーツ?
「俺が誰を好きかとか、そういうのも、わかってる?」
「わかるっていうか……」
 言葉を濁した。多分。あたってるとは思うけど。
 わたしは先輩の注文したアイスコーヒーのタンブラーをじっと見つめていた。
「何?」
 先輩がわたしの視線を辿って不思議そうな顔になる。
「あの、たくさんの種類のコーヒーがあるのに、なんで、普通のアイスコーヒーなんだろうって……」
「ああ」
先輩が目許を崩して笑った。「これね。面倒臭くって。あんまり種類がありすぎると逆にそうなっちゃって、つい。それに甘いお菓子と苦いコーヒーって合うと思わない?」
 面倒臭い。
 佐藤君が言いそうな台詞だ。男のコってみんなそうなんだろうか。女姉妹しかいないわたしにはよくわからない。ふふ、と笑ってしまった。
「食べて」
先輩がバーをすっと指先で押した。
「はい。いただきます」
 先輩は静かに窓の外を見た。窓の外にはたくさんのひとがいて、先輩はただ見るとはなしに目を当てている。
 暫くそうしてからゆっくりと口を開いた。
「俺みたいな、普通の恋愛ができないやつばっかりが集まってるサイトがあってさ。まあ。いわゆる出会い系、みたいな。そこで知り合ったやつなんだ。さっきの」
 さっきの。インテリ風な男のひと。顔はもう思い出せない。笑顔が気持ち悪かったってことくらいしか。
「メールで遣り取りを何度かしてさ。で、会おうってことになって」
先輩はくっと笑う。「あの男、嘘ばっかついてんの。二十代の体育教師って言ってたんだ、自分のこと。どうみても三十代だし、フツーのサラリーマンだろ」
 二十代の体育教師。
 岩みたいなごつい男。いつも図書室の司書、雪村さんのところへやってくる男。全然女のひとにもてそうにないタイプ。だけど先輩の好きなひと。
 わたしはなんて言ったらいいのかわからなくなって俯いたままオレンジ色のバーをもそもそと食べていた。思ってたよりずっと甘い味がした。
「まあ、こっちも二十歳の大学生って嘘吐いてたわけだし、あんま文句も言えないんだけどね。……結局、そういうことなんだよな」
 ワックスか何かで固められた髪。シックなモノトーンの服装。先輩は二十歳の大学生に見えなくもない。それにかっこいいし。
「先輩?」
「ん?」
「どうして、そんな……」
 言いよどんだ。どんな言い方をしたところで先輩の行いを非難するような言葉になってしまうから。そんなつもりは全然ないんだけど。
 先輩は苦く笑う。
「平澤さんはたくさん本読んでるし、カレシもいるからわかるよね」
「……」
 先輩はタンブラーの淵に指先で触れながら話す。
「年齢的なものなのかどうなのかわかんないけど、そういうことをしたくてたまらなくなるときがあるんだ。ほんとに。自分でするんじゃなくて肌を合わせたくなるっていうか。だけど、相手なんか簡単にみつからないし。恋愛なんか一生できないかもしれないって思うと余計にさ。……実はこういうことするの、初めてじゃないんだ」
 わたしは言葉をうしなっていた。何てことを訊いちゃったんだろうかと激しく後悔していた。顔が熱くなる。
 先輩は顔を上げて笑う。わたしは首を竦めてちっちゃくなるしかない。
「ごめんなさい。変なこと言って」
「いいんだ。こっちも誰かに聞いてもらいたかったし」
 だけど。先輩は辛そうだ。話したからって心の中全てが軽くなるわけじゃない。
「平澤さんのことは信用してるから」
「……」
「彼と、うまくいってる?」
「……いってると、思います」
 たぶん。うまくいってる。今日のお昼までだったらもっと威勢良く頷けたんだろうけど。さっきの佐藤君。モデル・Akiは途轍もなく遠い存在に思えた。
「彼、佐藤君だっけ? 面白いよね」
「面白い?」
「うん。いつも俺と平澤さんが一緒にいるとこをね、心配そうな顔で見てる。ああいうタイプはきっと自分の好きなコのまわりにいる異性が気になって気になって仕方ないんだと思うよ。すごく心配性っていうか」
「え? 佐藤君が、ですか?」
「うん。俺はそう思うけど。違う?」
 どうだろう。そんな風に思ったことは一度もなかったけど。でも、高本先輩のことを意識してるのかな、と思ったことは何度かあった。
 ありゃ。佐藤君って心配性なの? ……知らなかったな。
「もしあんまり彼が気にするようだったら、言ってもいいから」
「え?」
「俺はライバルにはならないって理由、言っても構わないよ」
 コーヒーおごるよ、って言ってこの店に入ったのは先輩なのに。先輩はコーヒーもバーも殆ど口にしていない。
「先輩?」
「ん?」
「もしかしてヤケクソになってます?」
「……」
先輩はやや躊躇ってから、「どうかな?」
と首を傾げて笑った。
「暫くはやめとくよ。今日でちょっと懲りたから。そういうサイトにいくの、控えとく。でも、またいつ復活するか、わかんないけどね」
 先輩が早くいいひとに出会えるといいな、と思ったけれど、口にするのはやめておいた。それはとても難しいことに思えたから。言葉だけだと、どうしても軽々しくなってしまうから。
 徳本さんが書くような、或いは、他のBLのお話にあるような。そういう理想の出会いがそうそう現実の世界にないことはわたしにもわかってる。
「俺、ちょっとそのへんぶらっとして帰るからさ。平澤さんは早く帰ったほうがいいんじゃない?」
 先輩に優しく諭されたわたしは頷き、店をあとにした。
 佐藤君、今頃何してるかな。
 街はひとが多くてこんなにも明るいのに。何でだろう、わたしは寂しくてたまらない気持ちになっていた。


NEXT

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME
 
/ NOVEL /  AKIYOSHI TO KALEN