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第十章 ちがうって、言ってるのに  7.
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 くしゃみが二回出た。

 鼻水がつうっと垂れそうになる。ハンカチを取り出し慌てて片方の鼻孔を押さえつけた。十代の女のコにあるまじき、だ。

 一昨日雨に濡れたのがいけなかったのかな。昨日からずっとこんな調子だ。風邪? 夏風邪をひくのはナントカっていうけど。そうなのかな。……そうかも。

「平澤さん、風邪ひいたの? アレルギー?」

 図書委員といえども本を貸し出すひとがいなければそれほど忙しくもなく、ただカウンターに座って本を読むのみ。でも俯くと鼻水が垂れてきちゃうから、本を目の高さまで抱え上げて読んでいる。机に突いた肘が痛い。

「風邪、みたい、です」

「すごい鼻声。苦しそうだね」

 高本先輩は普通に話しかけてくる。雪村さんとも普通に話すし、何の用もなく顔を見せる定岡先生とも平然と挨拶を交わす。わたしが高本先輩の秘密を知ったあともこれまでどおりと変わらない。

 偉いな。先輩。

 佐藤君はあれから口を利いてくれない。すんごく怒ってるみたいで視界にもいれてくれない。なのにわたしはここへ来る。佐藤君を余計怒らせることがわかっていてそれでも高本先輩のいる図書室へ来る。こうなるともう意地だ。だってやましいことなんか何もないもの。

 そりゃ。手は繋いだけどさ。……。でもあんなの不可抗力じゃん。佐藤君が心配してるような意味なんかないし。

「平澤さん」

 呼ばれた声に顔を向けた。徳本さんだ。

 やばい。最近、彼女のHPに顔を出していなかった。

 ごめん、と謝るといいよう、と笑ってる。

「平澤さん、もともとBL読むひとじゃないしね」

「ごめんね」

「ねえねえ、それよりさ、今度新しいネタが浮かんだんだけど」

「え?」

 徳本さんはちらりとわたしの肩越しに、カウンターの奥へと視線を向けた。

「あの三人をモデルに書こうと思ってるの」

 え。

「あの、三人? 後ろの、三人?」

「そうそう」

ひひひ、と笑うにきびのたくさん散らばった顔。「あの綺麗なお姉さんと定岡先生が恋愛中で、高本先輩が横恋慕するってお話。勿論、手をだすのは定岡先生のほう」

「……」

 うわわ。何てこと思いつくのようー。それって笑えない。やめやめ。絶対だめ。思うけど口には出せない。無論、顔にも。

「うーん。それだけじゃつまんないわね。佐藤君みたいな強烈なキャラにも出てきてほしいわよね。モデルをやってる男のコ。うん。インパクトあると思わない?」

 そ。そこまで言う? うーん。ケーオーだ。負け負け。もう徳本さんの好きにして。両腕を組んでさかんにこちらの意見を求めてくる徳本さん。わたしはテキトーに相槌を打って笑い、ごまかしておいた。



 昼休みが終わるので図書室を出る。階段を先輩と一緒に並んで降りた。

 これってさすがにやばいんじゃないかと気がついた。まさか佐藤君と出会っちゃわないわよね、と心配してたら案の定。

 佐藤君は同じクラスの男子と体育館で賭けバスケか何か─── 最近流行ってるらしい─── をやってたみたいで、団子状になって階段を昇ってきてた。みんな汗をかいた顔で笑っている。佐藤君も。楽しそうな笑顔がのぞいてた。

 こんなときに限って視線が絡んだ。

 絡んだ途端、佐藤君の顔から笑みが消える。

 こちらも。ただ呆然と立ち尽くすのみ。

 わたしと佐藤君の間の雰囲気だけが険悪なまま広い踊り場ですれ違うことなく男子の集団は教室のほうへ消えて行った。

「─── 平澤、さん?」

 わたしと佐藤君の様子に変な空気を感じ取ったのか、先輩が心配そうに声をかけてきた。

「は、い……」

「何? 今の? 佐藤君と喧嘩でもしたの? なんかすごい顔してたね」

「あー……。ええ、まあ。そんな感じ」

 へらへらと笑ってみせた。何か。泣いちゃいそうだ。まいったな。

 先輩は腕を組んで考え込んでいる。

「こっち、睨んでたね」

「そう、ですか?」

「うん」

「あの、もう、あたし、教室に戻りますから」

 振り返ったところに内藤さんが立っていた。もう。最悪っ。

 内藤さんは、わたしと高本先輩を交互に見ると、サイテー、とひと言言い捨ててつんとそっぽを向いて行ってしまった。

 サイテー? サイテーって言った? サイテーなのはどっちなんだ。

 本当は内藤さんを追いかけて、言いたいこと、問い質したいこと、たくさんあるような気もしたけれど。先輩、後ろにいるし。やっぱりそういうのって勇気がいるし。何より。風邪で頭がぼうっとしてて、気力がまるで足りなかった。

 ああ。やだな。こういうの。

 ずん、って。胸に大きな鉛を落とされてる感じ。胸はずっとむかむかしてるし重くて苦しくてたまんないよ。

 早く。仲直りしたいなって。切実に思ってる。



 下校時に校門を少し過ぎたところで待ち伏せた。

 教室だとみんなの視線、集めちゃいそうだったから。声、響くし。

 ひょろっと細長い体型の男のコが、別の男子三人と一緒に歩いてくるのが見えた。

「佐藤くん」

 悲しいことに、まるきり無視された。通り過ぎて行った背中を追いかけて、めげずに後ろから名前を呼んだ。鼻にかかった声。喉もちょっと痛くなってきてるから、やや掠れ気味の声。自分の声じゃないみたいだ。

 わたしが近寄って行ったので、他の男子は、じゃあな、と揶揄を孕んだ声音で冷やかし気味に言いながら去って行った。佐藤君は一応立ち止まってくれたけど、でも、顔はそっぽを向いたままだ。頭がくらくらする。そういう態度って、ないんじゃないの?

「どうして……」

思ったままが口を突いて出ていた。「どうして、こっち、見てくれないの?」

 すうっと。灰色の瞳がゆっくりこちらに向けられた。冷たい視線。いくら怒ってるからって。そういう目で見られたら、こっちがどれだけ傷つくか、佐藤君、わかってないのかな。それともわかってて、わざとそうしてる?

 咳が二回出た。鼻水も出てきちゃいそうだ。ずずっと鼻をすすり上げた。

「ちがうって」

「……」

「ちがうって、言ってるのに」

「……」

「先輩と、あたし、そういうんじゃないって。言ってるのに……」

 佐藤君は足元に視線を落としていた。ローファーの大きな靴が、アスファルトの上の散らばった砂を弄んでいる。

「……俺にも」

「え?」

「俺にも、よくわかんねえんだよ」

「……」

 よくわからない。

 って言われても。

「じゃあ、どうすれば、いいの? どうしたら、元の佐藤君に、戻ってくれるの? あたし、こういうの、嫌なんだけど。無視されるのって、ちょっと、たまんないんだけど」

「……ほっといてくれていい」

 ほっといてくれていいから。

 佐藤君は足元を見つめたまま繰り返しそう言った。乾いた声。こちらを寄せつけようとしない声だった。

 どうしよう、って思った。

 先輩のこと話しちゃえばすっきりするのかな。そうしたら佐藤君をこんな風に苦しめなくて済むのかな。でも、違う気もしてた。だって。先輩を庇って嘘ついちゃったのは本当だし、手を繋いで歩いてたのも本当なんだし。今更何言ったって、無駄ってことかも知れない。

 だけど。何も話さないで終わるのはもっと嫌だって。そうも思う。

「佐藤君、あのね……」

「平澤があの先輩と仲良くしたいって思ってるんだったら、そうすればいい」

 こちらの声と佐藤君の声が微妙にカブった。

 仲良くすればいいって。そう聞こえたけど。

「……え?」

 え。って言ったきり唇が動かなくなった。おそらく聞き違い、なんかじゃない。佐藤君の表情がそう言っていた。

「あいつ、男の俺から見てもかっこいいな、って思うよ。マジで。頭良さそうだし。いいんじゃねえの? それに、本読むの好きなんだったら、平澤と話も合うだろうし」

「……」

 ほんとに。頭がくらくらする。地球がまわってる。いつもの倍以上の速さで。そんな感じ。

 その上。膝が震え始めてた。

 佐藤君はこっちを全然見ないままに続けた。少し。作り笑いを浮かべながら。軽い調子で言う。

「それに俺らって、あれだろ、元々三ヶ月だけつき合ってみようって言って始まっただろ? お試しでって。その程度の関係じゃん? 今って、ちょう度、その三ヶ月目なわけだし」

「それ」

「え?」

「それ、今頃、言うかな」

 鼻にかかった自分の声は、思いのほか落ち着いていた。

 ショックだった。すっごくショック。今までのふたりの関係、全部、無しにされた気がしてた。

 佐藤君の顔に気まずさが走った。ニセモノの笑みが一瞬にして掻き消えていた。佐藤君だって。自分の言ってることが正しいなんて思ってないんだろうけど。

 じっとふたりで黙り込んでいた。長いようで短い時間だ。

 じめっとした空気が漂っている。雨がまた降り出しそうだなって思った。

「もう」

「……」

「もう、いいよ。佐藤君の気持ち、よくわかった」

 泣いちゃいそうだった。悔しい。ずずっと鼻をすすり奥歯を噛みしめた。そうしてから息を吸い込み足を踏み出した。

 立ち尽くす佐藤君の横を擦り抜ける。

「さよなら」

 佐藤君は何も言わなかった。追いかけても来なかった。

 ばか。

 佐藤君のばかやろう。

 胸の中で散々悪態をついてやった。


第十章 ちがうって、言ってるのに(了)
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