NEXT 第四章 手をつなぎ、キスをした 5. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お台場海浜公園駅でゆりかもめから降りたわたしたちは、あとはただひたすら歩いた。 実は、お台場には家族で来たことがある。ずっと以前。そのときは科学館などの施設に入ったりしたけれど、今日は砂浜と公園を歩くだけ。 佐藤君は歩いている間中手を離さなかった。なんでだろう。でもそうしていることが心地よくて、わたしもこのままずっと手を繋いでいられたらいいな、なあんて思ったりした。 「…なんでモノレールじゃねえんだよ。新交通システムってなんなんだよ。見た目いっしょじゃねえか」 佐藤君はゆりかもめがモノレールではないという事実に衝撃を受けて暫くぶつぶつ言ってた。小さなコドモが夢を壊されショックを受けたみたいに。生まれて初めてモノレールに乗ったって、さっき目を輝かせて言ってたのにね。お気の毒様。はは、と笑い飛ばしてそう言うと、頭をはたかれた。痛いよ。もう。 佐藤君が言ったとおり潮の匂いが鼻をくすぐる。 砂浜は人工のもの。ここは埋立地だから。 なんて言うか。自然がいっぱいなんだけど、都会の匂いのする場所だ。 「夜、来たらいいんだろうね。夜景とか綺麗そうだよ」 ついそんなことを言っていた。 佐藤君がくすりと笑う。 「平澤はお子様だからな。あと十年経ったら連れてきてやるよ」 むむむ。 それは喜んでいいのか怒ったほうがいいのかよくわかんない台詞だよ、佐藤君。 途中、トイレを我慢していることがバレて怒られた。 だって恥ずかしくって言えなかったんだよね。 公園のトイレに入り手を洗ったあと、鏡の前でお化粧を直した。へへへ、と顔がにやける。なんだかこういうことするとおネエさんになった気分だな。つってもグロスを塗るだけ。あとはビューラーで睫をぎゅぎゅっと上向かせる。睫の生え際が痛い。綺麗なおネエさんになるのもそう簡単なことじゃない。 鏡の中の自分を見つめた。可愛くなったのかどうかはわかんないけれど、笑っちゃうくらい幸せそうな顔でえくぼをのぞかせているわたしがいた。
公園の噴水の中では幼い子供たちが水浴びをしていた。そこかしこから嬌声が上がっている。 「気持ち良さそうだな」 「今日、暑いもんね」 Gジャンはとっくに脱いでしまって腰に巻いていた。 噴水の周りを円形に囲んだ階段に腰を下ろす。 「日に焼けちゃうな」 腕を見ながらそう言った。顔は帽子で隠れてるからいいとしても、白日にずっと当たっていた腕はすでに熱を持っていた。 「平澤、色、白いもんな」 「そうかな?佐藤君のほうが白くない?」 佐藤君の口許が少し歪んだ。 「俺は、ちょっと、…違うから」 意味がわからない。ううん。言いたいことはわかるんだけど、違わないよ、と思う。 首を傾げながら噴水の向こうの海を見た。水面は日の光を浴びて、魚の鱗のようにきらきらと光の粒を反射させている。眩しい。 暫く無言で目に映る景色を眺めていたけれど、やがてぽつりぽつりと会話を交わした。 モデルの仕事忙しくなりそう? あ? うん、まあね。売れっ子だね。今日、何回も声かけられそうになってたでしょ? はは。話しかけんじゃねえよ、ってガン飛ばしてやったからな。誰も声かけてこなかったな。え? そんなことしてたの? どうりで。……。 佐藤君はずっとモデルの仕事つづけるの? あー。どうかな。わかんね。自分のことなのに? うん。だってまだ高校生になったばっかだろ。決めらんねえよ。ふーん、そういうもん。売れてるのにね。あたしだったら絶対つづけるけどな。……。……。 平澤は? え? あたし? うん。平澤はどうすんだよ? やっぱ、お父さんの跡を継いで医者? …んー。しおりちゃんがもう医学部に入っちゃってるから、あたしは自由に決められると思うけど。お医者さんになるのも悪くないかな、とは思ってる。…へえ。そうなんだ。平澤、頭いいもんな。……。……。 その後佐藤君が立ち上がり、わたしも後につづいて、ふたりで海に向って歩いた。 風が強く吹いて浅く被っていたキャスケットが飛ばされてしまった。慌ててふたりで追いかける。茶色い石畳の上を競争するみたいに走った。ふたり同時に追いついて、懸命に手を伸ばしたけれど、タッチの差で佐藤君に帽子を奪われてしまっていた。 「あー、もう、負けちゃったよ。結構真剣に走ったのになあ」 ふざけた口調でそう言い、差し出された帽子を受け取りながら顔を上げた。「ありがとう」 その瞬間。 ふわりと柔らかいものがこめかみに触れた。 ─── …え? 間近にあった佐藤君の鼻先がすうっと離れていった。 きょとんとしたままその顔を追う。 心臓がばくばく鳴り始めた。 「え、…と」 佐藤君はそっぽを向いている。 今の、ってもしかして…。 こめかみに指先で触れながら再びちらりと佐藤君を見ると視線が合った。 「何だよ?」 つっけんどんな言い方。まるで怒ってるみたいに聞こえる。 「何だよ、って…そんな」 わたしは唇を尖らせた。 「嫌だった?」 「…いやじゃない…けど」 佐藤君が歩き始めたので慌ててあとを追った。 風で飛ばされないように今度はキャスケットを深く被った。頬が熱い。すごく熱い。自分で見ることはできないけど、絶対今、顔が、真っ赤っかになってるはず。 くす、っと佐藤君が笑うのがわかった。どぎまぎしながらその顔を見る。 「平澤さ」 「う、ん」 「ほっぺにキスも初めて?」 「え?」 「経験ねえの?」 「ないよ」 むっとした。「あたし、男のコとつき合ったことないんだってば」 ああ。言いながら顔がまたかあっと熱くなった。やっぱ、今、佐藤君にキスされたんだ。そう思っただけで顔が熱を持つ。佐藤君は平気なのかな? 目深に被った帽子の所為でよくわかんないよ。 背中を向けたまま手を差し出してきた。 もしてかして、佐藤君も照れてんのかな。どうなんだろう。そのあたりがよくわからない。 そっと佐藤君の手に自分の掌を乗せた。 ひとはまばらにしかいない。海の匂いと遠くに見えるビルの群れ。今日は本当にたくさん歩いた。でもまだまだずっと歩きつづける。佐藤君と一緒だとそれも楽しいのだ。 佐藤君の足が止まった。わたしも歩くのをやめる。 痛いくらいの視線を左頬に感じていた。どうしても顔を上げられない。石のように硬くなったまま、斜め下の茶色い石畳を見つめていた。 「平澤」 名前を呼ばれてそっと上目使いに佐藤君を見あげた。きっと、今、自分は泣きそうな顔をしている。そう気付くと余計泣きたい気持ちになった。 佐藤君の顔がそっと近づいてきた。 どうしたらいいのかわからなくて、それでもゆっくりと瞼を閉じ、少しだけ顎を上げた。 佐藤君の唇は柔らかく乾いていて、潮の匂いがほんのりとした。触れたのはほんの一瞬で、直ぐにわたしの唇から離れていった。
いつもの分かれ道で、じゃあね、と顔の横に手を挙げた。 「今日、楽しかった」 言うと、佐藤君は心底嬉しそうににっこりと微笑んだ。うわ。すごく可愛い笑い方だ。なんだかいつもよりずっと幼く見える。 「佐藤君」 「うん?」 「明日、学校、来る?」 何でだろう。ついそんなことを訊いていた。 そんなことを訊ねられて、佐藤君もちょっとびっくりしたみたいだった。え、と、眉を上げる。それからふ、っと困ったように笑った。 「行くよ」 「じゃ、明日学校でね」 「ああ。また、な」 少し歩いてから振り返った。 佐藤君は同じ場所に佇んだままこちらを見ていた。身体ごと後ろを向いて手を大きく振る。佐藤君は恥ずかしそうに笑いながら手を振り返してくれた。
軽い足取りで、家路を辿った。父と母はきっとまだ帰っていない。 今日わたしと佐藤君は、手をつなぎ、キスをした。 これは誰にも秘密にする。 そう自分に誓う。 どんなにしおりちゃんやひかるちゃんに問い詰められても絶対シラをきり通す。 うん。絶対だ。 玄関の扉を開いて大きく声を張り上げた。 「ただいまー」 奥の部屋からばたばたとしおりちゃんとひかるちゃんの足音が響いてきた。 |