NEXT 第五章 アキヨシをかえして 1. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五月一日月曜日の朝。見上げた空は今にも泣き出しそうな灰色をしていた。 パステルブルーの傘を手に家を出る。制服は冬服。黒い上着を脱いで登校するひともすでに何人かいるにはいるけど、まだ今日はそれほど暑くない。 昨日の今日で佐藤君に会うのは少し恥ずかしい、って思う。どんな顔で会えばいいのかわからない。でも、会いたいな、とどこか気持ちは逸ってたりもする。乙女心はややこしいのだ。 ゆうべ、寝る前に佐藤君にメールを送ろうかどうしようか散々迷って、結局やめにした。佐藤君はもう寝ちゃってるかもしれないって思ったし、何て打てばいいのかわかんなかったし。 しおりちゃんとひかるちゃんにはシラを切りとおしたよ。でも、ふたりは99パーセント、わたしと佐藤君がキスしたことを確信してるって言った。わたしの顔を見てたらわかるんだって。失礼しちゃう。じゃあ、訊かなきゃいいじゃん、って思っちゃう。 夜遅く母と帰宅した父は想像してたよりは落ち込んで見えなかった。少しは立ち直ったわね、と母は笑いながら言っていた。わたしに対してこうなら、しおりちゃんに初カレができたとき、一体父の反応はどうだったんだろうかと訝しむ。もしかしてバレてない? まだしおりちゃんにカレシがいないとか思ってる? それはね、絶対ないから、お父さん。 ふ、っと。 わたしの前を誰かが過ぎった。 過ぎった人物は直ぐにひらりと振り返ると私の前に立ちはだかった。そのターンの仕方がとても優雅で、うかと足を止め見惚れてしまった。 聖華女子高の制服。紺地に緑のチェックのセーラー襟。短いプリーツスカート。裾から覗く折れそうに細い脚。紺のソックス。猫のように小さな顔。何より目立つ長い黒髪。髪の毛は学校仕様なのか今朝は三つ編みにされていた。 モデルのえみりさんだった。 昨日も会えて、今日もまた。すっごい偶然ですね、と言おうとしたけれど、何だか変だな、と思ったので口にするのはやめにした。 えみりさんは顎をぐっと上げ斜めに構えてわたしを見下ろす。 見つめられたら凍りついてしまいそうな冷たい視線。綺麗な飴玉みたいにつやつやした黒い瞳だ。 にっこり笑おうとして無理だと気付く。もしかしてわたし、緊張してる? え、と。 どうすればいいんだろう。 あれこれ悩みながら目の前の綺麗な顔を見上げていた。 えみりさんは硬く冷たい表情のまま、オレンジ色に光った唇だけを動かした。 ─── アキヨシをかえして。 あたしは思わず聞き返す。 「え?」 「アキヨシをあたしにかえしてよ」 えみりさんは綺麗なソプラノの声で、はっきりとそう言った。 発せられた言葉の意味を咄嗟に理解できなくて、頭の中で何度も反芻した。 アキヨシをかえして。 確かにえみりさんはそう言った。 かえしてということは。 佐藤明良は。 元々は彼女のものだったってことになる。 ん? そんでもって今はわたしのものだってことになる? え? なんか、ちょっとそれって、違う。 「ちょっと」 呆れたような、憤ったような、とにかく身の竦むような声で我に返った。 「は、は、はいっ」 「聞いてるの?」 「はい。聞いてます。でも、あの…」 「でも?」 綺麗な形に整えられた眉が上がる。 「はい。あ、あの、意味がよくわからなくて…」 えみりさんの眉間に皺が寄った。 怖い。このひと、顔立ちは綺麗なんだけど、いつも怒ったような顔をしているから、印象がとても怖いのだ。気持ちが萎縮してしまう。だからきちんと向かい合って話をすることができないのだ。 「あなた、アキヨシとつき合ってるんでしょう? ちがうの?」 大きな目で見下ろされた。えみりさんは背が高い。170センチはありそうだ。 わたしは、少し考えて、彼女の質問に首肯した。 昨日までのわたしだったら、よくわからないと答えていたかもしれないけれど。わたしと佐藤君はつき合ってるって、今は自信をもって頷くことができる。 手をつないだからとか、キスを交わしたからとか、そんなんじゃなくて。もっと違う何かで確信できた。 えみりさんはわたしの返事に目を剥いた。大きな目がぽろりと零れ落ちそうなくらいはっきりと大仰に。 「うそでしょうっ? ほんとにっ?」 失礼な反応だな。嘘だと思うんなら訊かなきゃいいじゃんか。 両腕を組んだままわたしの顔をじっと見下ろしている。 居たたまれない。早く学校へ行きたい。 「ねえ」 「はい…」 「あなた、アキヨシともうやっちゃったの?」 「は…?」 やっちゃった? 何を? 「鈍いわね」 「……」 え、と。もしかして…。 「セックスしたのかって訊いてるの」 ぶわっと顔が熱くなった。 意味もなくあたふたと慌てる。真っ赤に染まった顔を勢いよく横に振った。 だけどなんだってこのひとにこんな質問をされなきゃならないんだろう。そんでもってなんだって真面目に答えてるんだわたしも。 ふーん、と。えみりさんは鼻を鳴らした。 「なんだ。まだなんだ」 そんな感じはしたけどね、とつづける。 やっぱりこのひと失礼だ。さすがにちょっとだけ腹が立ってきた。 「あたしはしたわよ」 「……」 え。 「何度もしたわ」 「う、そ…」 不覚にも、開いた唇が震えていた。声すらも。 ─── 何度も? 「嘘じゃないわよ。ほんとよ」 剣呑な光が瞳に宿って、その目に睨めつけられる。わたしは信じられない思いでその瞳を見つめ返した。 「何よ」 「でも、さとう、くんは…」 「は?」 「佐藤君、あなたとはつき合ってないってあたしには言ったよ。今も、昔も、ただの、幼なじみだ、って…」 「そんなの嘘に決まってるじゃない。あなたアキヨシに騙されたのよ」 「そんなことない」 絶対、ない。 と、思う。 あれ。自信ないのかな、わたし。 「アキヨシは誰とだってつき合うし、そういうことするの。あなたアキヨシのいい部分しか見てないんでしょう。アキヨシはね、そういう男なのよ」 アキヨシ。 何度もえみりさんはその名前を口にした。 わたしはただ蒼白になって唇をきゅっと閉じるだけ。 えみりさんの袖口からちらりと白い手首が覗いた。細かな傷が目に付いた。赤い線から白いものまで。なんだろう。リストカット? でも、そんなこと気にならないくらい、今は別のことで頭がいっぱいだった。 「佐藤君は、でも…」 「……」 「今まで、カノジョがいたことはないって……言ったよ?」 一瞬の間を空けて、あはは、と高笑いが聞こえてきた。 力なくその顔を見上げる。 「バッカじゃないの、あなた、そんな言葉信じてるわけ? そんなことあるわけないじゃない。アキヨシはいろんな女のひととつき合ってるのよ。モデルのひともいれば、メイクのひともいるし。みんな綺麗でお洒落で洗練されたひとばっかりなの。アキヨシはね、メンクイなんだから」 「……」 「あなた、鏡、見たことあるの?」 「え?」 すうっと背中が冷たくなった。 えみりさんは嘲笑っていた。その顔にあるのは明らかにわたしへの嘲笑だった。 「今まで誰ともつき合ってなくて、あなたとならつき合うとか思ってるわけ? ちょっと自惚れ過ぎてない? 有り得ないわよ」 ブス。 と。 はっきりとその唇が動いた。 わたしは凍りついたみたいに動けなくなった。 氷の矢が刺さったみたいだ。徐々にその冷気は胸から全身へと広がって身体を凍らせていく。 「あんたなんか、遊ばれてるに決まってるんだから、とっととアキヨシの前から消えてよ。アキヨシ、かえしてもらうからね」 えみりさんはそれだけ言うと、くるりと踵を返して去って行った。 長く細い一本の線。 後ろ姿もすごく綺麗─── 。 ぼんやりと、えみりさんの背中を見送ったあと、わたしはのろのろと足を踏み出した。 学校、行かなくちゃ、いけないかな…。 さっきまで。あんなに幸せだったのに。 佐藤君に会いたくない─── 。 こんな気持ちで佐藤君に会いたくなんかなかった。 見慣れた朝の風景がなんだか白くぼやけて見えた。
教室に入るとちらりちらりと視線を彷徨わせた。顔を真っ直ぐ上げられない。 ブス。 ブスと言われてしまった。 呼吸が上手くできなくて、ごくんと唾を飲み込んだ。おはよう、と小さく言いながら席に着く。 女子生徒の一部のコが団子状態になってこちらを見ていた。 さっきの遣り取りを聞かれてた? うん? 違うかな。昨日佐藤君と一緒にいるとこを見られたのかな? そっちの可能性のほうが高そうだ。 どっちも嫌だな、と思った。 席に着いても何だか落ち着かなかった。 帰ろうかな。サボったことなんか一度もないけど。もし今家に帰ったら、母はきっとすごく心配するだろう。理由を聞かれたらどうしよう。本当のことは絶対言えない。 母の顔を思い浮かべた。 わたしとよく似た母の顔。 重い溜め息をひとつ落としたとき、 「おはよ」 と、上から女のコにしてはやや低めの声が聞こえてきた。深町さんだ。わたしは作り笑いを浮かべて、おはようと返した。 はっと目を見開く。 深町さんの身体の向こう側。教室に入ってくる男のコと目が合った。 すらりとスリムな身体。綺麗に整ったエキゾチックな顔。髪はシャギーが入ってて、耳が見えるくらいの長さだ。昨日と同じ顔で笑いかけてくる。 佐藤君だ。 深町さんが、 「佐藤君、おはようー」 と声をかけた。うわわ。な、なんてことをっ。 わたしは慌てて俯いた。すごく不自然な態度だと自分でも思う。でも、今、佐藤君と顔を合わせるのは絶対嫌だった。 「はよ」 佐藤君がこちらに来た。 俯けた視界に。ふたりの黒いスカートとズボンが映る。 暫くふたりが会話を交わす。何を話しているのかはよくわからなかった。頭の中も胸の内も混乱していた。なんだ、このふたり仲いいじゃん、美男美女でお似合いだもんね。なんて。そんな嫌なことを思ったりしていた。ブスな上に性格まで悪いのか、わたしはっ。 「平澤?」 佐藤君がいつまでも固まっているわたしに少し不審そうに声をかけてきた。 わたしは顔を上げることができなくて、自分の机の上の隅っこにある小さな古い傷跡を、ただただじっと見つめていた。 |