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第五章 アキヨシをかえして  3.
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「ねえ、佐藤君と平澤さん、昨日デートしてたって噂になってるよ」

 図書室のカウンターにやって来た徳本さんに潜めた声でそう言われた。でもおそらくは、後ろにいる高本先輩には聞かれてる。それくらいの大きさの声。

 噂。

 たった半日で一体どこまで広がってるんだ。びっくりだ。

 暫く徳本さんの顔にじっと見入ってしまっていた。どう答えたらいいのかわからなかった。

 佐藤君はとっくに図書室から姿を消していた。わたしが無視しちゃったから。でもいなくてよかったよ。いたら徳本さん、大騒ぎだ。

「ほんとうなの?」

 肉付きのいい顔の中に埋もれている目を丸くして訊かれた。

「あ、うん。それは、まあ本当なんだけど…」

「え? まじで? え? 平澤さん、佐藤君とつき合ってるの?」

「え、と。ううん、そういうんじゃないよ」

「でも─── 」

「平澤さん」

 背後から優しく低い声。

「はい」

 振り返ると、高本先輩がにこやかに微笑みながら今日入荷した本の伝票を差し出してきた。

「これ、パソコンに入力しといてくれる? できればすぐに」

「あ、はい」

 ごめんね、と徳本さんに謝りながら、奥の部屋に入る。徳本さんは話を中断されて不満そうだった。

 パソコンの前に腰を下ろし電源を入れる。

 真っ暗な画面に映る自分の顔をじっと見つめた。

 泣いてるみたいにいじけた顔は、自分でも鬱陶しいほど暗く疎ましかった。

 予鈴が鳴る。

 図書室をあとにしながら、足取りは重かった。

 佐藤君に会いたくない。帰りたい。リノリウムの床を見ながら足を進めた。

 家に帰って思い切り泣きたかった。

 こんな落ち込んだ自分は初めてで、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。今までどれほど能天気に生きてきたのか、初めて知っちゃった感じ。

「─── 平澤」

 右側頭上から突然声をかけられ、ぎくりと足を止めた。

 階段の踊り場。俯けた目に白い大きな上履きが映った。踵は踏んづけられてぺしゃんこになっている。油性マジックで書かれた佐藤の文字。

 顔を上げられなかった。

「何が気に入らねえの?」

 怒りを抑えきれない乾いた声。顔も身体も動かせないくらい強張ってしまう。

「何が気に入らねえの、つってんの」

 ごくんと唾を飲み込んだ。身体が震える。唇も。

 上履きが正面に回ってきた。

 怖いよ、佐藤君。

「なんで無視されんのか、俺、全然わかんねえんだけど」

 確かにそうかもしれない。でも、今、何もかも話せるほどわたしは冷静じゃなかった。

「何?目も合わせねえの?」

 冷たい声だ。本気で怒ってるのがびしびしと伝わってくる。わたしの知ってる佐藤君じゃないみたいだ。怖くて怖くてたまらない。

「平澤」

 イラついた声でもう一度名前を呼ばれてゆっくりと顔を上げた。足元からウエスト、胸へと視線を這わせてから顔を見た。

 目を合わせた途端、佐藤君の表情が変わった。険しい顔から驚きの表情へ。それから困惑したように眉根を寄せた。

「何て顔、してんだよ」

「……」

 涙が出そうだった。ぐっと堪えて視線を逸らさないでいた。

「平澤…」

「あたし…」

「え?」

「あたし、変な顔…してる?」

 変な顔。唇が震える。

「いや、変な顔なんて言ってない」

泣きそうな顔してる、と言ったあと、困り果てたように視線を逸らした。

 階段を通って行くひとたちがこちらをじろじろと見て行くのがわかる。階段の下には女子の塊。本日噂のふたりが喧嘩をしているとでも思われてるのか、好奇心丸出しの表情だ。参ったな、と佐藤君の声。

 ぐいっと腕を引かれた。

「上、行こう」

「でも、授業が…」

「フケるんだよ」

「え?」

 本鈴が聞こえてきた。みんな慌てて教室に戻ってる。

 佐藤君はこちらを一度も見ないままわたしを屋上へと導いた。



 屋上は陽射しが強かった。

 ちょう度出てきた建物の反対側が日陰になっていてそちらへと佐藤君に引っ張って連れて行かれる。

 掌の力はとても強い。

 昨日繋いだ手の感触とは全く違う。

 建物の裏側にはコンクリートブロックが幾つか重ねて並べてあった。まるで座る為に置いてあるみたいだ。

 あー。そうか。ここでさぼってるひと、他にもいるんだね。わたしたちだけじゃないんだ。ひとりこっそりと納得していた。

「座れば?」

 先に腰を下ろした佐藤君に言われる。言い方が素っ気無い。というか不貞腐れてるようで怖かった。こちらがびくびくしてること、佐藤君は気付いてないのかな。

「食ったの?」

「え?」

 いきなり問われて一瞬意味がわからなかった。

「それ」

 顎で、わたしの手にしているお弁当箱をくいっと指し示す。わたしは首を横に振った。

「今から食えば?」

「……ううん。いい」

「なんで?」

「……なんか。食欲……なくて……」

 佐藤君がふっと視線を外して、立てた膝の間に顔を落とした。ふうっと息を吐く音が聞こえてきた。溜め息なんかじゃない。怒りを堪えてて、それを鎮めるために深呼吸したみたいな音。背中がひやりと冷たくなった。

 顔を上げ再びわたしに視線を当てた。真面目な瞳でじっと見つめられる。

 こんなときなのに。

 なんてかっこいいんだと心臓が強く打った。バカだ。わたしは。今日ブスって言われたばかりなのに。他人の外見にときめいてどうすんだ。

「平澤はそんな食欲がなくなるほど何を悩んでるわけ?」

「……」

「俺には言いたくねえの?」

「……」

 黙って佐藤君の灰色の瞳を見つめ返していた。顎が震え始めた。たぶん佐藤君にもわかってるはず。涙まで溢れてきた。泣くもんかと唇を噛むと、

「泣くなよ」

と、困ったように言われた。「なんか、こっちがいじめてるみたいじゃねえか」

 いじめてるじゃん。自覚ないのか。佐藤君のばかったれ。

「……きょ」

「え?」

「今日ね……」

 喉が詰まっててみっともない声しか出てこなかった。いやだな。声だけでももっと可愛くなりたい。

「うん」

 反対に佐藤君の声は優しいものになっていた。

「今日、学校に来る途中にね」

「うん」

「あのひとが、いたの」

「あのひと?」

「えみり、さん……」

 さっ、と。佐藤君の顔色が変わった。こちらの心臓は縮み上がるばかりだ。

「……で?」

「……」

 で、と問われても。何を言えばいいのかわからなかった。

「何か言われた?」

 こくりと頷く。佐藤君は顔を正面に向けると遠くに視線を遣った。視線の先には青い空が広がっている。

「何て?」

何て言われた?

「アキヨシを……」

「は?」

「アキヨシをかえして、って」

 そう言われたよ?

 束の間きょとんとしていた佐藤君が皮肉っぽい笑みを浮かべた。ははっと笑う。愉快そうに。

 どうして笑うの? 何も可笑しいことなんかない。

「それで平澤、動揺したわけ?」

「……」

「俺、あいつとは何でもないって、何度も言ったよな? そんな話、鵜呑みにすんなよ。信じらんねえよ」

「…お、怒らないでよ」

 声が震える。また涙が溢れてきそうだ。

「怒ってねえよ」

「怒ってるじゃん」

しかも目茶苦茶怒ってる。なんか。頭にきちゃう。

「それだけじゃないよ。他にも色々言われたんだから」

あ。わたしってば、ムキになっちゃって。コドモみたいだ。

「何?」

「佐藤君と自分は……」

そこまで言って言葉を呑み込んだ。さすがに言いにくい。頬が赤くなる。視線がきょろきょろと泳いでしまう。

「何だよ? 俺とあいつが何だって?」

「な、何度も、その…」

「何? セックスしたとでも言われた?」

 ぐっと言葉に詰まる。顔が熱くなった。

「してないっつっただろ」

「だけどっ」

「だけど?」

「すっごくはっきり言われたんだよ? えみりさんすごく真剣な顔してた。あんな顔で言われたら、もしかしてって思うじゃん」

「それでこっちには確認もしないで無視、ってわけ?」

 険のある顔。言葉。こっちは少しも悪くないのに責められてるみたいで胸が苦しくなる。

「ひどい…」

「ひどいのはどっちだよ」

「それだけじゃないんだよ。佐藤君は他にもいろんなひととそういうことしてるって。相手はモデルさんとかメイクさんとか、みんな綺麗なひとばかりだって」

 佐藤君が目を見開いた。ぐっと。言葉を失っている。

 言い返してくるとばかり思ってたのに。口を噤んでしまってる。

 え? 嘘…。

「え…」

「……」

「嘘? え?」

「……」

「ほんと、なの?」

 佐藤君の顔にさっと翳が射した。

 本当の─── 。

 本当のこと、なんだ。

 佐藤君は否定しない。ばかばかばか。正直過ぎだよ、佐藤君。

 ずん。と。何かを思い切りぶつけられたみたいに頭はくらくらしていた。佐藤君の表情を読み取ろうとするのに焦点が、合わない。

「平澤につき合おうって言うよりも前の話だよ……」

 ぽつりと言う。再び遠くを見たままで。

「仕事の帰りに誘われるままついてったらそうなったって言うか。……まあ、こっちもわかってついてったんだけど」

「……」

「別に相手のこと好きだったとかそういうんじゃないんだ。向こうもそれはおんなじで…」

 そんな展開。小説や漫画の世界だけの話だと思ってた。実際にそんなことがあるなんて。面食らってしまう。

「そ…」

わたしは無理矢理笑って見せた。「そ、そうなんだ」

「……」

「そ、そうだよね。佐藤君、言ってたもんね。経験ありだって。だけど彼女がいたことないって。それってそういうことだったんだ。あ、あたしがそんなことで佐藤君責めるなんて変だよね。さ、佐藤君、嘘なんか、吐いてないよね。全然、佐藤君悪くなんかない……」

 最後のほうは泣き笑いみたいになってしまってた。

 額を、立てた膝にくっつける。強い風が吹きつけた。もういっそ吹き飛ばされたい。

「……泣いてんの?」

「泣いてない」

「俺、謝ったほうがいいのか、な?」

「いい。謝んないで」

「あのさ、平澤…」

「いいから」

わたしは顔を伏せたまま首を横に振った。「もう、何も言わなくていい。大丈夫だから」

「……」

 暫くじっと黙ってそのままでいた。

 わたしは顔を伏せたまま。佐藤君は多分視線を遠くに向けたまま。

 やがて佐藤君がゆっくりと立ち上がる気配がした。顔を上げ仰ぎ見ると、佐藤君は両腕を高く挙げ身体を伸ばしていた。

 そのとき。

 ぐうーっ。と。

 佐藤君のお腹が鳴った。

 顔を顰めて胃の辺りを撫でている。

「佐藤君」

「あ?」

「お昼、もしかして食べてないの?」

「……」

苦笑している。「まあねー。誰かさんが心配かけっからさ。食う時間なんかなかったんだよな」

 誰かさん。

「ご、ごめ、ん…」

「持ってくればよかったんだよな。そしたら一緒に食べられたのにな」

「あ。これ、食べていいよ」

 わたしはお弁当箱を差し出した。男のコにはちょっとちっちゃいかもしれないお弁当箱。ブタやらカエルやらウサギやらのキャラクターがプリントされた袋に入ってる。

 佐藤君は再び座ると、

「じゃ、一緒に食おう」

お弁当箱を受け取ってそんなことを言う。

「え? 一緒に? 少ないよ。佐藤君、足りなくない?」

「んー。あとで自分の食うからいい。つってもコンビニ弁当だけどな」

 広げたお弁当箱は小さな俵型のおにぎりがみっつと、玉子焼き、アスパラの肉巻き、ハムに包まれたポテトサラダ、ブロッコリー、プチトマトが入ってる。どう見たって女のコ用のお弁当だ。佐藤君には物足りないに違いない。

「うまそう。な、これって誰が作んの? 平澤?」

 わたしは首を横に振る。

「お母さん、だよ?」

 恥ずかしい。

「ふうん」

 佐藤君は箸箱もさっさと開ける。よっぽどお腹が空いてたのかな。いただきます、と軽い調子で言うと箸でおにぎりを摘みひと口で頬張った。うまい、ともごもご喋る。可笑しくてふふっと笑ってしまった。

「平澤も食え」

そう言いながら、摘んだ玉子焼きを口許に持ってくる。

「え」

え。

え。

佐藤君に食べさせてもらうってこと?

目を丸くして玉子焼きを見つめてると低い声で凄まれた。

「食え」

「は、はいっ」

 佐藤君に食べさせてもらうなんて。すっごく変な感じ。玉子焼きを噛みつつ恥ずかしくて目を伏せていた。甘い甘い玉子焼き。佐藤君は好きかな。砂糖の入った玉子焼き。

 顔を上げると今度はアスパラの肉巻きが目の前に差し出されてた。

「え。いいよ。あたし、いいから、佐藤君、食べて」

「俺は後で自分の弁当食うからいいんだよ」

「でも」

「いいから」

 確然とした口調で言われ、肉巻きを口に入れる。何だか親鳥に餌を運んでもらってる雛みたいだ。肉巻きはいつもならふた口で食べる。口の中がいっぱいいっぱいだ。食べづらい。

「食欲戻った?」

「……」

 心配そうな顔でまじまじと見つめてくる。顔が熱くなる。こくんと頷いた。

「他には? 何か言われた?」

 口をもぐもぐさせながらじっと考えた。肉巻きは醤油の味がきつくてちょっと塩辛い。お茶が飲みたい。

─── ブス。

 ブスって言われた。

 本当のことを言えば、この言葉に一番衝撃を受けた。今も思い出してまた傷付いている。胸がずんと重くなる。

 でも。

 佐藤君には言いたくなかった。

 首を横に振る。

「ほんとに?」

 こくこくと、今度は縦に振った。

 ほんとはまだ色々思うとこはあるんだよ。えみりさんがアキヨシ、って呼び捨てにしてたことだとか。佐藤君だって、えみりとかあいつとかって呼んでるし。

 ちょっと口にはできないな。こういうのは勢いで言っちゃわないと。お弁当を食べさせてもらってるこの状態じゃとてもじゃないけど言えないよ。まあ、いいか、取り敢えず今が幸せなら、なあんて思っちゃう。単純だな、わたしも。

 鮮やかな緑色のブロッコリーが佐藤君の口に運ばれている。横顔をそっと見つめた。

「さぼっちゃったな」

「……うん」

 アスパラは少し筋が残っててなかなか飲み込めない。口の中でいつまでももしゃもしゃしてる。

「じいさんがさ」

「うん」

「どうして平澤をうちに連れて来ないんだって怒るんだよ」

「え」

「今度ふたりで会うんなら、その帰りにでも連れて来いってさ」

 佐藤君のおじいさんの顔を思い浮かべてた。優しい、おじいさん然としたひと。佐藤君には似ていない顔。

「来る?」

「う、ん。行く…」

 佐藤君の顔に嬉しそうな笑みが広がった。可愛いコドモっぽい笑い方だ。

 それから黙ってふたりでお弁当を頬張った。

 空っぽになったお弁当箱を仕舞う。正直ほっとしてた。全然手をつけられていないお弁当箱をうちに持って帰るわけにはいかないと思ってたから。

 ふ、っと手元が暗くなったので顔を上げると、佐藤君の唇がすぐ目の前にあってどきっとした。ふっくらとした唇。

 えみりさんの顔を思い出してしまってた。それから会ったことのないモデルさんの顔。ブスと言われ傷付いたわたしの顔も。

 さっと、顔を伏せていた。

 伏せてからしまった、と思った。

「……あ」

 はっとして顔を上げると、佐藤君は息を詰めてわたしの顔を見つめていた。とても傷ついた顔をしている、と思った。

 どうしよう─── 。

「あの……」

 佐藤君は困ったように口許を緩めると、わたしの目尻にちゅっと唇を押し当ててきた。えっ。うわわ。

「ごめんな」

「え…」

 目尻から顔、全身へと熱が広がる。不意打ちだよ、佐藤君。

「やっぱ、謝っとく」

立ち上がると佐藤君はもう一回腕を挙げ身体を伸ばした。しなやかな身体だ。手が空に届きそうに見える。

「戻ろうか?」

「う、うん…」

「次の授業ってなんだっけ?」

「え…」

 頭が働かない。ちょっとちゅってされたくらいでこの有様だ。やだな、もう。

「え、え、と、なんだっけ」

しどろもどろだ。「…お、思い出せない」

 くすくすと笑われた。

「笑わないで」

「はいはい」

 いつもの調子で言い合いながら屋上をあとにした。もう少しだけふたりきりでいたかったな、なあんて思ってることは、勿論佐藤君には内緒なのだ。

 
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