NEXT 第五章 アキヨシをかえして 4. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 渋谷にあるビルの3階。事務所のドアを開ける。 中をぐるりと見渡した。 レイさんと秘書の女のひとと、あと、売れっ子モデルの男がひとり。もうひとり男がいたけど、誰だかはわからない印象の薄いやつ。そして。 えみりがいた。 制服姿でソファに座り、雑誌に目を落としている。 「あら、アキ」 レイさんの声で、ぱっと全員の視線がこちらを向いた。 えみりを睨みつける。相手に怯えた様子は少しもない。どころか口許を緩ませて笑っている。頭にくる。ムカつく。女じゃなかったら絶対殴り飛ばしてる。 「どうしたの?今日は直接スタジオに行ってって言ったでしょ?」 レイさんを無視してえみりの前に立った。 俺の不穏な態度に事務所の空気が一気に殺気立つ。 けれど。 目の前の女はまだにやついていた。 低い声で告げた。 「ふざけんな」 ふふ。 と笑う。 「なあに。あの女のコ、さっそくアキヨシに告げ口しちゃったんだ」 「おっまえ、嘘ばっかつくなよ」 「嘘? 何が?」 「……」 がっ、と。 ソファの前の木製のテーブルを踵で蹴飛ばした。 「おいっ」 売れっ子モデルが声を荒げた。「お前、調子に乗ってんじゃねえぞ。ちょっと顔が売れてきたからってな、なんだ、その態度はっ」 肩より長い髪を後ろでひとつに束ね、無精ひげを生やした男。おそらくはその髭さえもファッション。ピアスが両耳で光っている。一重瞼の下の目は途轍もなく大きくぎょろりとしている。 いずれは俳優に転向するだろうと目されている男だ。 一瞥しただけですぐにえみりに視線を戻した。 「おいっ」 吠える男はとことん無視する。関係ねえんだよ。 「二度とあいつに近づくな」 えみりの顔から笑みが消えた。じっと睨みつけられる。 「あいつを傷つけるな」 「傷つけるな?」 ふ、っとバカにしたように笑い、すぐに真顔に戻った。「傷つけたくなかったら、自分こそあんなコに近づくの、やめたほうがいいんじゃないの?」 ぐっと。息を呑み込む。口内がからからに乾いていた。 「お前には関係ない」 「あのコ、アキヨシとつき合ってるってだけで、これから先間違いなくぼろぼろになっていくわよ。あーんな呑気な顔して平和に生きてるのに可哀相よ」 「うるさいっ」 「アキヨシだってわかってるくせに」 上目遣いに睨みつけられる。「だから今までだってアソびで終わらせてきたんじゃないの? なんで今さら、あんなアソべそうにないコに手を出したりするの? しかも休みの日にちゃんとしたデートまでしちゃって。何の真似よ。ばっかみたい。あのコ、アキヨシとつき合ってるって自慢げに言ってたわよ。まだ寝てもないくせに、笑っちゃう」 「えみり、もうよしなさい。みっともないわよ」 冷静な声でレイさんが言った。えみりの口は止まらない。却って煽られてしまったみたいに動く。 「うまくいくわけないじゃない」 「……」 「住んでる世界が違うのよ。近づいたってどうせ離れていくだけなんだから。断言したっていい。三ヶ月ももたないわ」 「俺と平澤がうまくいこうがいくまいが、お前には関係ねえだろっ。とにかくあいつには近づくなっ」 「約束できない」 「何だとっ」 「よしなさいっ、アキっ」 秘書の女に腕をがしっと掴まれた。身体が揺れる。 「なんであんなコがいいわけ?なによ、あのお多福みたいな顔」 「えみりっ。もういい加減になさいっ」 「ブスって言ったらすっごくショック受けちゃって。泣きそうな顔で動かなくなっちゃったわよ。自分のこと、可愛いとでもおもってたの? あのコ」 ブス? 「は?」 ブスってなんだ? 泣きそうな顔してた? 今朝初めて顔を合わせた際の平澤の硬直したみたいながちがちの表情が脳裏を掠めた。かっと。頭に血が上った。 「何よ? もしかして聞いてないの?」 「なんで、あいつにそんなこと言うんだよっ」 たまらずえみりの胸倉を掴んでいた。 「やめなさいっ。ちょっと誰か手を貸して」 秘書の女が腰に抱きつくみたいにして身体を押さえつけてきた。後ろから、印象の薄い男に羽交い絞めにされる。胸倉を掴んでいた手が離れ、えみりがソファに投げ出された。そのすぐそばを右足で蹴り上げてやる。えみり本人を蹴飛ばしたい衝動は強くあったけれど。さすがにそれは我慢した。 「何やってんのよっ。あんたたちふたりはっ。くだらないことでぐだぐだとっ。もういい加減になさいっ」 珍しくレイさんの甲高い声が事務所に響いた。えみりはかまわず、き、っとこちらを睨みつけてきた。気の強い女だな。 「何よ。ブスをブスって言って何が悪いのよっ。自覚がないみたいだからおしえてあげただけじゃないっ」 自覚がない? そんなはずない。 だったらあんな打ちのめされた顔、するわけがない。 俺にそのことを伝えられなかったのも。 その言葉に一番傷つけられたからだ。 平澤─── 。 拳を握る。 俺とつき合えば平澤はボロボロに傷付くことになる─── 。 顔を俯け、ふ、っと笑った。 事務所が水を打ったように静かになる。 皆の視線が不気味そうにこちらに注がれていた。 「あいつって」 「は?」 「あいつってブスなのかな?」 「は? 何言って…」 「俺、わっかんねえの」 く、っと笑う。 俺、全然わかんねえんだよ。全然そんな風に思えないんだ。 「俺、あいつのこと可愛くて可愛くて仕方ないんだよね」 笑っちゃうだろ─── ? 事務所がしんと静まり返った。温度が一度下がった感じ。 えみりの口がぽかんと開いたままになっている。 え? 何で? 視線をぐるっと彷徨わせてみて、みんなどうやら呆れているみたいだと気が付いた。俺の台詞に呆れて固まっているみたいだった。 ……何で? えみり以外は平澤に会ったこともないくせに。 あ、と思い至る。 あー。そうか。のろけてるって思われたわけ? それで呆れ返ってるんだ。 のろけてる? そうなのか? 意味もなく頬が熱くなってきた。 まあ、どうでもいいけどさ。そう思い、踵を返した。 「撮影に行ってきます」 恥ずかしいので声がやや小さめになる。 ─── 可愛くて可愛くて仕方ない。 言わなきゃ良かった。でも言わずにはいられなかったんだ。 「行ってらっしゃい」 にやついているみたいなレイさんの声を背に事務所をあとにした。 「アキヨシっ」 エレベーターを待つのも面倒臭くて、非常階段の扉を開けたところで背中からえみりの声が追いかけて来た。 しつこい。 俺はえみりを睨みつけると、相手が口を開くよりも先に、先ほどみんなの前では言えなかった言葉を口にした。 「お前、ほんと、いい加減にしろよ」 「……」 「……俺がお前のモノだったことが一度だってあるのかよ?」 えみりの眉間に皺が寄る。きゅっと下唇を噛むのが見えた。 「アキヨシをかえして、って何だよ?」 「……」 酷い言葉をどれほど投げ付けられても睨み返してくる黒い瞳の輝きは、まるきり昔のままだ。小学生の頃のまま。さすがに胸が痛む。 「お前さ」 「……」 「もう、俺から離れろ」 「……いやよ」 「俺はお前を好きにはならない。そんな風に思ったこと、今まで一度だってない。どんなに思いをぶつけられたって、こっちの気持ちは変わらねえんだよ」 えみりが首を大きく何度も横に振る。長い絹糸のような髪の毛が揺れる。 「いやったら、いや」 まるでコドモだ。駄々っ子だ。 思わず大きな声を上げていた。 「いやっつったって、仕様がねえだろっ。どうしようもないんだよっ」 えみりの顔が泣きそうに歪む。 「頼むからさ」 もう忘れろ。 低い声でそう告げると、扉をすり抜け非常階段へと滑り出た。 ─── 傷つけたくなかったら、自分こそあんなコに近づくの、やめたほうがいいんじゃないの? ─── あのコ、アキヨシとつき合ってるってだけで、これから先間違いなくぼろぼろになっていくわよ。 ─── 住んでる世界が違うのよ。 平澤と俺の住んでる世界が違うなんて。そんなこと。ずっと前からわかってた。 平澤のまっさらなシーツみたいな清潔さ。 俺やえみりには、成長過程に心を捻じ曲げられて出来てしまったこぶみたいなものがある。そういう異物を持ってる者の卑屈さが、平澤には全くない。 親の愛情や家庭の温かさを、平澤は知っている。 だから俺は今まで平澤に近づけないでいたんだ。 でも─── 。 今さら離れられるのか? あの、えくぼに触れたときに見せる片目を瞑るくすぐったそうな顔を。あの、唇を離した後に見上げてくる泣きそうな瞳を。自分にだけ向けてくるとろけそうな笑みを。繋いだ掌の体温を。 他のやつに譲ることができるのか? 「無理」 非常階段を降りてすぐのコンクリート道路の上でひとり呟く。 見上げた空は泣きそうに曇ってる。明日は雨かな。ここのとこ天気はあまりよろしくない。すでに梅雨に入ってしまったみたいな曇り空ばかりつづいてる。 「絶対無理」 もう一度呟き足を速めた。 離れるなんてもう考えられない。 今すぐに会いたいって、そう思ってる─── 。
それにしても俺はずい分と甘かった。 えみえりに対して、もっと強く言うべきだったのだ。 あのとき蹴り上げたって殴ったって、もう二度と平澤に近づかないようにすべきだったのだ。 いや逆に、何もすべきじゃなかったのかもしれない。 俺は自分のとった今日の行動を、後々ひどく後悔することになる。 |